中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年

年末年始の多くの読書案内で好評価がなされていた白川方明中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年』を読んだ。参考文献入れると750頁を超えるまさに大著で,中身も非常に充実しており勉強になる(読むの時間かかった…)。中央銀行制度はもちろん,政策過程や組織運営についてもしばしば興味深い洞察がなされていて,政治学者にとっても重要な貢献。

本書では,「失われた10年(20年)」の間に日本銀行の金融政策がしばしば批判されてきたことに対する,実務家の立場からの反論が大きな位置を占める。パターンとしては経済社会の発展のために金融政策(日銀)にできることというのは限られており,重要な問題は日銀の金融政策よりも(だけでなく),グローバルな金融システムの構築や少子高齢化に直面する日本の場合経済・社会の構造改革であるというかたち。いわゆる「リフレ派」(本書では「リフレ派」と「期待派」が並べられていて,「期待派」のほうはアメリカのマクロ経済学の主流派の理解に近いものと位置づけられている)が主張するように,インフレーション・ターゲットを行うなどある種の金融政策のみで「失われた10年」の問題は解決しないということになる。他方で,中央銀行の役割として強調されるのは最後の貸し手機能を発揮することで,厳しい状況の銀行に公的資金を注入することが多くの人々に嫌われる政策であったとしても,中央銀行は金融システムの健全性を保つために必要に応じて機動的に最後の貸し手機能を発揮しないといけないということもしばしば強調されている。

こういった主張は,本書の中で非常に説得的に展開されていると思うし,だからこそ多くの研究者が良書として推薦したのだろうと思う。白川氏自身は,実務家であることを強調しているけれども,社会経済の変化や危機とそれへの対応についてとても理論的に洞察を加えているし,とりわけグローバルな金融システムについての洞察は傾聴すべきところが多いように感じる。データの制約などから制度的な分析はどうしても国ごとになりがちだけど,現状のように金融がグローバルに広がっている中では一国だけでできることは限られているわけで,まさにその対応のフロンティアにいた人が体系的に理解できるかたちで教訓を残そうとしていることは素晴らしい。

他方で非常に気になったのは,著者自身が強調する実務家としてのスタンス。ご本人が好む・好まないはともかく,中央銀行総裁というポジションは政治的な「リーダー」であることは間違いないと思うのだけど,その割には非常に受身的なところが強すぎるのではないかという印象を受けた。たとえば,まだ理事になる前の日本の金融システム危機において,著者は日銀の「先送り」が批判されるのは違和感がある,日本銀行にできる手当(使える「武器」)は限られていた,と主張する。それは多分そのとおりなんだけど,「先送り」批判にしても,日本銀行だけが批判されているというよりは,その背後の政治的意思決定の先送り自体が批判されているように思う。でも強調されるのは(そのときに)日本銀行にできたこととできなかったことを分けて,できたことはやっているしできなかったことは(日本銀行として)どうしようもない,というような傾向,というか。問題は,政治的なリーダーである総裁の場合,日本銀行にできることとできないことの境界自体に影響を与えることができる(あるいはそれが期待される),ということのように思える。総裁としての仕事はとても堅実で,分析も説得的なんだけど,その日本銀行のできることという境界については非常に受身的で,リーダーシップの発揮するという点ではどうだったんだろうか,と。

もちろん,本書を読んでいると著者のとても謙虚な人柄が伝わってくるので,リーダーシップを実際に発揮していても謙譲の美徳でそれを強調していないかもしれない。また,仮にすごく強いリーダーシップを発揮したとしても(著者が見るように)金融政策では経済社会に大きな影響を与えることができないし,そもそも我々はそういうスーパーマン的な業績に期待すべきではないのかもしれない。ただ,逆説的かもしれないけど,そういう叙述であるからこそ,日本銀行総裁のように政治的リーダーであることが期待される人物像やそのガバナンスについて,本書は非常に示唆的なところがあるようには思えた。

具体的に,読んでいてひとつ特徴的だと感じて,また個人的に違和感を感じ続けたのは,本書が日本銀行の「独立性とアカウンタビリティ」(これは第22章のタイトルにもなっている)を強調しているところである。著者は,民主主義体制下における中央銀行のあり方ということを強く意識していて,中央銀行が独立性を付与される代わりにアカウンタビリティを求められるとしている。しかし,その「代わり」ってなんなんだろう,と。個人的には独立性とアカウンタビリティというのはなかなか両立し得ないものであって,そこをバランスさせるとすれば,中央銀行(や裁判所)のような制度は長期的にアカウンタビリティを求める一方で(中央銀行総裁の再任もあるわけだし)短期的な独立性を付与しているようなかたちだと理解している。独立性とセットになって中央銀行の行動を制約するものがあるとすれば,そこは外的な「政治」によるアカウンタビリティではなく専門家としての「レスポンシビリティ」なのではないだろうか。反対にいうと,そのレスポンシビリティがあまり強調されないところが,受身的と感じた原因ではないか,と考えたところ。

もちろん,著者自身が非常に責任感に溢れた優れた実務家であったということは本書を読めば伝わってくるし,受身的であったとしてもそれが本書の重要な記録としての価値に関わるものではないと思う。というか,「アカウンタビリティ」にこだわり続けた政治的リーダーの記録として読むべきなのかもしれない。それは,中央銀行を下支えする専門家集団の基盤が(国際的にはともかく)国内でそれほど強くない中で,正統性の基礎をアカウンタビリティの方に求め続けなくてはならなかったことの裏返し,というところがあるのかもしれないけど。しかし非常にいろいろなことを考えさせられる読書だったと思う。 

平成バブル先送りの研究 (経済政策分析シリーズ)

平成バブル先送りの研究 (経済政策分析シリーズ)

 

沖縄住民投票雑感

2月末に予定されている沖縄県の県民投票が非常に難しい状況になっている。地方制度と住民投票のそれぞれについて研究をしてきた身からするとややこしいけど非常に興味深いところでもある。

事実関係でいうと,2019年沖縄県民投票 - Wikipediaが端的にまとまっている

市民グループ「『辺野古』県民投票の会」が2018年5月、県民投票に向けた署名集めを開始。9月、必要数の約2万3千を大幅に上回る92,848人分を集めて直接請求を受けて、沖縄県沖縄県議会に提出し、10月26日に可決、10月31日に公布された住民投票条例に基づくものである。条例では公布の日から起算して6ヶ月以内に実施することが定められており、告示日を2019年2月14日に、投開票日を2月24日に設定した。

この住民投票に関する補正予算案が、沖縄県市町村の12月議会において提案されたが、一部市町村議会で予算案が否決。全市町村で実施できるかどうかは不透明である[2]

なお、投票約2か月前の2018年12月14日から辺野古基地予定地への土砂搬入が開始され、すでに原状回復が不可能となっている。 

前に書いた住民投票の論文で考えたことを踏まえると,こういうタイプの住民投票は非常に政治的なもので結果が出ても必ずしもその通りにならない。つまり,収まるような住民投票の場合は,(1)基本的にその政府/自治体が決めることができる事業を対象として,(2)少数意見に配慮する形で住民投票を行い,(3)住民投票の可決は事業の承認,否決は拒否権の発動,といったものになると思われる。なので,自治体の施設建設とかそういう話についてはまあフィットすることになるわけだけど,基地や原発のように国が入ってくるものについては(1)の条件が微妙になるのでどうしても揉めることになる*1。ちなみに,日本で住民投票の黎明期にしばしば用いられていたのは基地・原発産廃処理場なのだが,産廃処理場の方では比較的機能しやすかったという印象がある。

実際,これまで沖縄で過去に二回(沖縄県と名護市)で米軍基地に関して住民投票が行われているけど*2,名護市の方は賛成・反対のほかに「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」「環境対策や経済効果が期待できるので反対」という選択肢が設定され,この条件付き賛成がある程度票を集めたことを背景に,市長の辞任と引き換えにヘリポート条例が通るということになっている。沖縄県の方は,唯一の都道府県レベルの住民投票ということもありなかなか評価は難しいが,その後日米地位協定の見直しは実現していない。特定の自治体のみで決めることができない中で,より広域の政府/自治体が事業にコミットしてると,特定の自治体の反対のみで中止することが難しいのは否めない。

辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否」という沖縄県だけで決めるのが難しそうな今回の住民投票は,まあおそらく住民投票だけで話が決まるような事業ではないことが予想される。なので,基本的には沖縄県の「民意」を示して広域の政府/自治体(要するに国)の意思決定にプレッシャーをかけようとする,つまり政治的な意思を表明するための道具という性格を持つようになると考えられる。国際的な安全保障環境にも依存するけど別に未来永劫米軍基地を置かなければならないわけではないし,それ自体は非常に政治的な決定なわけで,その手のプレッシャーをかけようとする「政治」は十分にありうるように思われる。

しかし今回難しいのは,その住民投票の実施という局面で,沖縄県からの事務委任を受けるいくつかの市町村が拒否することになっている点。県民投票反対を可決 「政治的主張に公費」 | 八重山毎日新聞社によれば,予算額の多寡ではなくて,政治的な主張に関する住民投票だからそもそも反対,という理屈とのこと。まあやろうと思えば市長の専決処分でできないことはないとも思われるわけですが,議会が反対したところでは,どうも市長も「議会の意思を尊重する」とか言って専決処分はしない模様。

このように委任を受けたところが「やだよ」と言ってしまうと話が動かなくなるのは,以前に『地方分権改革』の中で西尾勝先生が述懐されていたように,第一次分権改革で国の関与を法定化し,国地方係争処理委員会を作ったときから意識されていたこと。国の法定受託事務であれば「是正の勧告」とその後の代執行ができるわけですが,実際勧告に従わなくても代執行は事務的に難しいし,都道府県の自治事務であれば「是正の要求」しかできず,おそらく代執行は当然にはできない。まあそれ以前に都道府県が普段やってない選挙事務を代執行できるのかというと相当に疑問で,仮に協力的な市町村の力を借りるとしても難しいような…。そして何より難しいのは,この状況を調停する国地方係争処理委員会(都道府県-市町村なら自治紛争処理委員)に持ち込まれるためには「関与を受けた」側の行動が必要なわけで,「やだよ」という人たちはもちろんそんな行動をすることはなく,何もできないままとなる。この辺りは住基ネットをめぐる一連のやり取りが典型というか。

八重山毎日新聞社の報道にいみじくも出ているように,このように行政的に事務委任を受けないということは,政治的主張をしないということを明らかにするというタイプの「政治」なわけで,まあ場外乱闘みたいなところはあるものの,委任されたことを敢えてやらないということ自体を封じるのは難しい。沖縄県だって,まさに基地関係で国から委任されたことをやらないことで「政治」をすることもあるわけで,同じような抵抗の手段だろうと言われれば弱いところもあるように思う。たださらに難しいのは,これが「アリ」とされてしまうと,今度は仮に国が国民投票をやるときに自治体に事務委任をすることになるわけで,同じように拒否する自治体が出てきたらどうするんだろうと。数が少なければ強行するかもしれないし(国の場合は是正の勧告を行って従わなければ代執行もできる),今回の住民投票だって拒否する自治体がいながら強行してもまあおかしくない。しかし,おそらくそういうやり方は政治的決定の正統性を毀損してしまうことが予想される。

…とまあ難しい問題で,誰がどうすべき,みたいな話について,個人的な感想を超えた結論は出ないわけだが,ここまでマルチレベルでこじれてくると,お互いにできる手を打つしかなくなってくるんじゃないか。本来は,より強くて余裕があるであろうと考えられる国が政治的決定の正統性に配慮して妥協するのが望ましいように思うけど,これまでの過程で可能な妥協ができないとするのか,強行しても正統性が毀損されないと考えているのか,妥協の気配はあまり見られない。市町村が事務委任を拒否するのに当たって,自民党衆院議員が「否決に全力を」と働きかけていたという報道もあるくらいだし*3

以前の論文で,住民投票,特に近年では公共施設の建設の是非をめぐる住民投票が増えていることについては,地方自治体レベルでの政党間競争が十分でないことに起因しているのではないかと書いたことがある。これまでの地方議会の多数派がどっかに何らか施設を作るということを(まあ順番で)やってきたのに対して,反対するような政党が十分な勢力を持つことはほとんどなかった。それが,どっかの施設の建設というシングルイシューが盛り上がり,反対勢力がそこだけで結集して,場合によっては市長選も勝つことを通じて住民投票が行われてきた,という見立てである。ただこれだと結果としてシングルイシューのアドホックな競争をする分にはいいけど,安定的な競争にならないままに何となく流れていく(住民投票で反対側が負けるとまた分裂したりする)。それはまあ地方自治体レベルの話であって,その意味からも選挙制度を見直すべきではないかということを考えてきた。

しかしこの沖縄のような話は,マルチレベルの政治制度が絡むと話がさらにややこしくなることを示唆している。つまり,地方自治体の中の施設建設がシングルイシューで盛り上がるのではなく,他のレベルの政府への反発みたいなものを材料に盛り上がってくると,自治体内での政党間競争だけじゃなく*4,マルチレベルでの政党間競争も問題になってくる。そして問題は,国側の政党に近い立場のグループが地方レベルにはいたとしても,逆はそうではないことがしばしば起こる,ということではないか。地方でシングルイシューを強調すると,国の政党を通じた抑えみたいなものは全く効かずに極端な立場も取りやすくなるし。個人的には,国-地方を通じた政党のリンクを作る,つまり政党内で一定の調整を行うことで問題を全国化して決着させる,というのがある程度妥当かなあとも思うけど,これは地方議会レベルの選挙制度の見直しよりもさらに難しそう…。 

公共選択 第68号 特集:まちづくりの公共選択

公共選択 第68号 特集:まちづくりの公共選択

 
地方分権改革 (行政学叢書)

地方分権改革 (行政学叢書)

 

*1:そういう意味では,イギリスのBrexitとかスコットランドの独立とか,より広域の自治体/意思決定主体からの離脱が問題になるのも同じ。

*2:基地がらみというと,他には2006年3月の岩国市で米空母艦載機移駐受け入れについて,与那国町陸上自衛隊の部隊配備について住民投票が行われている。

*3:なおこの議員は2018年11月に繰り上げ当選した元弁護士とのこと…。

*4:たぶん自治体の中に国の側につく勢力もあるから政党間競争は問題になる。

仕事納め

年明けすぐの締め切りとか数か月ずっと懸案で進まないものとかいろいろ収まってない感もあるけどタイムアップなので仕事納め。8月下旬に帰国してから4か月程度なわけですが,「え,まだ4か月なの?」感があるほどにバタバタが続き,11月末で研究関係の書き物が一段落して12月を甘く見てたら授業(採点)と講演関係の仕事でえらいことになってしまった。このペースに持続可能性はないのではないかと憂うところで,来年頭にかけて仕事を結構お断りせざるを得ない状況になっておりますが,どうかご容赦ください。

今年発表した仕事は,4月の『社会が現れるとき』(これは2年前に書いたもの)と,7月の単著『新築がお好きですか?』と11月の『レヴァイアサン』ということになります。あとは前に日本語で書いた共著論文を英語にしたものがひとつ,ってとこでしょうか。まあ単著があるのでボチボチ…という感じでしょうか。その他は単著のスピンオフ的な感じで1970年代の住宅政策について論じたもの(校了済みで1月出版予定),オーラルヒストリーのデータを利用して行政改革について書いたもの(初校終了),公共選択学会で報告した「選挙疲れ」の共著論文ということになります。それから日本語と英語で書評が一本ずつか。正直,帰国してから年内に二本書くことになるとは思わなかった…。

英語の方は,結構時間かけて書いたものが残念ながらリジェクトで,これどうしようかとそのままになってるのが一本,バンクーバーにいたときに修正が終わらなくてそのままになっている論文が一本と,日本に帰ってからはやや低調。ただ来年は2・3本書かないといけないらしいので頑張ります…(まあ日本語論文が元になるやつですが)。日本に帰ってから英語の書き物は低調だったのですが,UBCのイブさん含めて外国からお客さんが増えて話をする機会自体は増えたなあという感じがあり,まあできる範囲で頑張っていきたいところです。 

社会が現れるとき

社会が現れるとき

 
レヴァイアサン 63号(2018 秋) 特集:比較の中の日本政治

レヴァイアサン 63号(2018 秋) 特集:比較の中の日本政治

 
Japan’s Population Implosion: The 50 Million Shock

Japan’s Population Implosion: The 50 Million Shock

 

 来年以降どの辺研究しようかというのはなかなか迷うところで,「選挙疲れ」論文のほかにもうひとつ市レベルの選挙を考える企画を持っているほか,住宅についても1990年代以降の転換を決めた政策過程について論じるものや,マンションの管理組合の分析を考えたいと思ってます。それに加えて震災研究は続きそうで,さらに申請中の科研は全然別テーマなのでどうなることやら。まあ全部つながってるっちゃつながってるんでしょうが,まあ選挙ネタは共著が中心になるのかなあ(実際そうだし)。

その申請中の科研に関連するところもあるのですが,今年読んだ本では『未来政府』がツボでした。今年の本というわけではないのですが,帰ってきて何となく手に取ったら色々考えさせられるところが多く,非常にお勧めという感じです。研究書では有斐閣さんが濱本さん柳さん・善教さんと年の後半で3冊も政治学の本を出すというチャレンジングな企画をされたのがすごいな/ありがたいなと思いました(善教さんのはそのうち感想書きます)。全部読む価値のある本なのでぜひ!。 

未来政府

未来政府

 
現代日本の政党政治 -- 選挙制度改革は何をもたらしたのか

現代日本の政党政治 -- 選挙制度改革は何をもたらしたのか

 
不利益分配の政治学 -- 地方自治体における政策廃止

不利益分配の政治学 -- 地方自治体における政策廃止

 
維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 

政策過程を考える

ご紹介が遅れておりましたが,少し前に同志社大学の原田徹先生から『EUにおける政策過程と行政官僚制』を頂いておりました。どうもありがとうございます。本書は,タイトルの通りにEUの政策過程について歴史的制度論の観点から実証分析を行ったものです。EUというと「超国家組織」と理解されるように,しばしば国際政治の分析対象になるように思いますが,本書では行政学の観点からEUの政策過程が分析されています。EUにおいて主要な意思決定に関わってくるのはブリュッセルEU官僚であると言われていて,EU議会において各国の代表がアライアンスを作るのは難しいところがあるわけで,その意味では確かに「行政学」として非常に興味深い素材になるのだと思います(もちろんそういうかたちでの意思決定が「民主主義の赤字」Democratic Deficitとして批判されることも少なくないわけですが)。

実証分析としては,EUの政策の体系性を考慮してマクロ(欧州憲法条約)・メゾ(EU総合計画・政策評価等)・ミクロレベル(具体的な公共サービス供給)での政策過程の事例が扱われているほか,ヨーロッパの債務危機対応というミクロからメゾレベルへとかかわる意思決定が取り上げられています。興味深いのは,例えば曽我謙悟先生の『行政学』では,基本的に国際組織が国家を本人とした代理人として扱われているのに対して,本書のメゾ・ミクロの分析では「「官」にあたる欧州委員会は独自の選好を有する単独アクターとして扱うが,「政」である政治的アクターは未分化の相対として「官」である欧州委員会に対抗するアクターとして」(59-60頁)扱われているところです。本人の位置づけにあるアクターが特定の意思決定を図ろうとするのではなく,制約として機能するというアイディアということなのかなあ,として理解していたのですが,それは行政国家にも広く見られる事象のような気がします。EUでは本人の意思形成が難しいわけでより妥当なアイディアだろうと思うのですが,超国家組織の分析から国家の意思決定のある種の典型について含意が見られるとすると非常に興味深いように思います。 

EUにおける政策過程と行政官僚制 (ガバナンスと評価4)

EUにおける政策過程と行政官僚制 (ガバナンスと評価4)

 

 次に,秋吉貴雄先生,白崎護先生,梶原晶先生,京俊介先生,秦正樹先生から『よくわかる政治過程論』をいただきました。どうもありがとうございます。様々なトピックについてA4見開き1頁で解説していくスタイルの教科書で,政治過程についての様々なトピックが網羅されています。特に学生が辞書的な感じで必読の参考文献を探しつつ学習するスタイルに合うような気がします。 

よくわかる政治過程論 (やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ)
 

 最後に宍戸常寿先生から『憲法学読本』をいただきました。ありがとうございます。憲法の様々なトピックごとに解説していく教科書で,第三版ということだそうです(すごい)。どっちかというと人権・権利章典を中心とした構成になっていて統治機構はやや後景なのかな,という感じですが(財政・地方自治がひとつの章になっているのはご愛嬌かとw),政治学をやっている人間としてはそっちのほうもちゃんと勉強しないと,ということもあるでしょうから,勉強させていただきたいと思います。 

憲法学読本 第3版

憲法学読本 第3版

 

地方財政2冊

埼玉大学の宮﨑雅人先生から,『自治体行動の政治経済学』を頂きました。どうもありがとうございます。地方財政の非常に緻密な分析をされている本で,ここのところ少し地方財政の勉強をさぼってる今の私にはなかなか難しくて時間がかかったのですが(苦笑),非常に面白かったです。本書のメッセージを一言でいえば,一般財源こそが自治体の裁量行動の肝であって,地方自治体が国庫負担金や地方債を通じてレヴァレッジをかけるかたちで規模の大きな財政支出を行うことが,長期的に地方財政のあり方を変えていく,というものでしょうか。

より具体的に本書の構成について言えば,まず第2章と第5章で特に歳入面における制度的拘束が厳しいことが論じられていて,その拘束を前提としつつ,中央政府地方自治体の歳出を補助金を通じて誘導することが論じられています。それだけだと中央政府が非常に強い統制を行っているように見えるわけですが,地方自治体は残された一般財源の余力に応じて地方債を使いながら財政支出を行うことになります。そうすると,余力のある時期は国が考えてるよりも大きな規模で支出を行う一方で,補助金の超過負担が大きかったり,起債の後年度償還が一般財源を圧迫してくると投資を行うことができない(=国の誘導が効かなくなる)ことが出てくると。そうなると国としても新しい誘導の方法を考えないといけないので地方財政に変化が出てくる,というような見取りが示されていると思います。
その意味で本書のメインは4章の臨道債のところだと思いますが,実は私も以前地総債を対象に似たようなことを考えようとしつつもうまくいかずに断念したことがあります。まあ私の場合は,それに政治的要因を絡めつつ,というところではあったのですが。単に財政余力が大きい自治体が誘導に乗ってくる(乗りすぎる),っていうことだけじゃなくて,何らか政治的な理由があって乗ってきたり,場合によっては誘導があるのに乗らないってこともあるんじゃないかと。まあ私の方はそもそもうまく議論を組み立てることができなかったわけですが。
政治学者として感じたのは,これだけまとまった興味深い議論をされているのですから,冒頭でもっと「制度」の理論に関するようなことを展開されてもよかったのではないか,という気持ちもあります。おそらく経済学の方が因果関係を意識したより精緻な分析をされるところがあるのに対して,政治学の方はより大雑把な議論をしているようなところがありますが,その中で政治学の方は(大雑把ではありますが)モノグラフとして本全体を通じた理論的貢献のようなものを目指している気がします。そういう観点から見ると,本書では,例えば「制度変化」について考えるための重要な貢献がありそうにも思いますし,政治学者ならそういう感じで書くかもなあと感じたところがあります。まあそれはディシプリンによる違いということも大きいわけですが。 

自治体行動の政治経済学:地方財政制度と政府間関係のダイナミズム

自治体行動の政治経済学:地方財政制度と政府間関係のダイナミズム

 

次に東京大学の林正義先生ほか著者の皆様から『地方債の経済分析』を頂きました。どうもありがとうございます。こちらも地方財政ですが,特に地方債を対象とした本ということになります。はじめに持田先生のオーバービューがあり,それから地方債の制度についての分析が続き,次に地方自治体間の差異の分析となります。地方債の信用リスク・格付けの効果に続いて行われている銀行等引受債の経済分析が,個人的にはこれまでにほとんど見たことがなく,非常に面白かったです。そのあとは地方債務の持続可能性と地方債に関する研究のサーベイということで,関連テーマについての現在の状況を知ることができる非常に便利な一冊になっています。

対象はもちろん専門的ですが,非常に整理されていて読みやすい本だと思いました。ただ一点だけ欲を言うなら臨財債についての章とか一つ欲しかったなあという気がします。「特例」の赤字地方債ですし,それこそ信用リスクや格付けなどを分析する本書の観点から言えば,「財政」の論理と「金融」の論理の折り合いが問題になる(p.189)微妙な存在だとは思うんですが,現在の地方財政/地方債をめぐる最も大きな問題のひとつのように感じるところなので。…まあ自分が知りたいだけなので,そこは勉強しなくては,というところでもありますが。

地方債の経済分析

地方債の経済分析

 
 

 

『農業保護政策の起源』『天皇の近代』

北海道大学の佐々田博教先生に『農業保護政策の起源』を頂きました。どうもありがとうございます。日本の農業政策といえば,政治家・農協・農水省が作る「鉄の三角形」が重要だと言われたり,農業補助金を増やすことを志向する農水省が国際交渉を梃子に省益を拡大する,などと言われることがしばしばあります。それに対して本書では,そのように大雑把なかたちでアクターの選好を決めて分析を行う方法はとりません*1。本書では,政策アイディア(とその発展)に注目する構成主義的制度論を取りながら,農業経営規模を大きくしていくことを重視する大農論か自作農中心の独立した農家を育成することを重視する小農か,あるいは後者のどうやって小農論が発展してきたかという話を軸に,戦前の農政の意思決定について史料を用いて丹念に議論されています。戦前で農業保護・農村保護が論点になる様々な局面では,どのような行動が「合理的」であるかについては必ずしも明らかではなく(著者はこれを「ナイト的不確実性」の大きい状況と呼んでいます),農林省(当時)の官僚が小農論に由来する政策アイディアを発展させつつ意思決定に反映させてきたことを明らかにしています。

私自身はまあ本書で批判されている「合理的選択論」者なんだと思うんですが,その合理性の水準って自分自身の仕事に限ってみてもなんかいろいろバラつきがあると思うんですよね。国際比較をするときや予測みたいなことを念頭に置くときは,割と雑に制度からアクターの行動を仮定して分析しますし,政策過程を見るときは個々のアクターの合理性(というか意図)をより詳細に見ることになりますし。最近の住宅の話では,基本的に利益中心のアプローチなのでそこは違うのでしょうが,佐々田さんの本と同様に制度のオフパス(=たとえば採用されなかった大農論)を意識して議論しているので,その意味では重なるところもあるのかなあ,と。ただ戦後の住宅の場合は,制度のフィードバック効果みたいなものが重要なところがあって,その意味で「ナイト的不確実性」が重要ではなくなっていくわけですけど,逆に戦前農政でその特徴が重要であり続けたのはなんでだろう,と考えてみると面白いのかも,と思いました。
本書を読んで改めて思ったのは,強い強いと言われてきた日本の政府はホントはずっと弱かったんじゃないかなあということです。私の方はもともと自分の住宅の研究でそう思ってたのですが,佐々田さんの農政の話を読んでその思いをより強くしたといいますか。何ていうか現状に働きかけて大きく変更しようというのがずっと難しくて,一応議論としては出るんですが結局採用されることはない,という感じ。官僚の方は,そんなに強く権利義務を変更するようなことはできないという前提のもとに,feasibleな中で一番望ましい政策を選好するようになるというか,そういう理屈を編み出していくような気もします。もちろん強い強いと言われてきたのは産業政策が本丸なのわけですが,その辺に新たな研究が生まれてくるとまた違う話が出てくるのかもしれません。 

農業保護政策の起源: 近代日本の農政1874~1945

農業保護政策の起源: 近代日本の農政1874~1945

 

同じく北海道大学の前田亮介先生から『天皇の近代』を頂いておりました。どうもありがとうございます。前田さんは去年から在外研究で(去年LSE今年プリンストン),歴史的資料に当たるのは相当大変なのではないかと思うのですが,力作ぞろいの本書の中でも一番長い論文書いてます。どうやって資料集めてるんだろう…。

前田さんは,「「皇室の藩屏」は有用か?」という論文で,天皇の権威に依存しつつ政治的にはなかなか主体的な存在になれなかった貴族院の位置づけについての議論を分析しています。特に近衛篤麿の「正義の女神」としての貴族院谷干城の「補導の臣」としての貴族院,という見解が論じられつつ,基本的には能動的に動かない君主が動かざるを得ない「非常時の大権」の行使について論じることを通じてそれらの構想について評価する,という感じでしょうか。

前田さんのだけではなく,他のいくつかのものでも見られましたが,「形式的には代表していないものが実質的に何か(国体?)を代表する」ということを考えるのは面白い話だと思います(難しいですが)。近年の統治機構改革論でも,そのような実質的な代表をどう設定するかというのが重要な議論になっているような気がします。以前はそれこそ宮中関係であったり,審議会みたいなものがそういう機能を果たしていたところがあると思いますが,それが難しくなっている中で新たにどうするか,と。まあ近年だと,そもそも何かを代表すること自体いろいろと難しくなってるわけですが…。

天皇の近代―明治150年・平成30年

天皇の近代―明治150年・平成30年

 

*1:いやもちろん大雑把に決めることにもいいことがないわけではないのですが。

最近のいただきもの

帰国してからこの間いくつかご著書を頂いておりました。まず遅くなってしまいましたが,夏休みのうちに河野勝先生から,監修をされている「ポリティカル・サイエンス・クラシックス」シリーズのうち,『国力と外国貿易の構造』『通産省と日本の奇跡』に二冊を頂いておりました。どうもありがとうございます。二冊とも,言わずとしれた名著で,再翻訳は喜ばしいことです(前者はちょっと前に出ているものですが)。 『通産省と日本の奇跡』の方の翻訳を担当された佐々田さんはもうすぐ同じ勁草書房から農政についての研究書を出されるということでこちらも楽しみです。

国力と外国貿易の構造 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)

国力と外国貿易の構造 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)

 
通産省と日本の奇跡: 産業政策の発展1925-1975 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)

通産省と日本の奇跡: 産業政策の発展1925-1975 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)

 

 同じ早稲田大学の稲継裕昭先生からは『AIで変わる自治体業務』を頂きました。ありがとうございます。稲継先生は最近『未来政府』を訳されるなど(これも非常に面白い本でした!),情報通信技術がいかに我々の生活や自治体の業務を変えるかという研究に精力的に取り組まれています。この本では特にAIに注目されていて,それが将来的に自治体業務をどう変えていくかも含めて議論されています。 

AIで変わる自治体業務―残る仕事、求められる人材

AIで変わる自治体業務―残る仕事、求められる人材

 
未来政府

未来政府

 

東京大学宇野重規先生からは『未来をはじめる-「人と一緒にいること」の政治学』を頂きました。ありがとうございます。宇野先生が豊島岡女子女子中学・高校で政治学の講義をした記録をもとにしたご著書ということです。「知識主導型でない政治学の講義」という企画なので,政治学って難しそうと思う人にも手に取りやすいものになっていると思います。リンク先での宇野先生のコメントとして,

 とは言っても、なかなか政治を身近に感じることは容易ではないだろう。政治とは多様な人々が集まって意思決定をすることだ、といくら解説したところで、「集合的意思決定」などという言葉を使った瞬間、多くの人は「難しそう」、「自分とは縁のない話だ」と思ってしまう。

とあったのですが,そういえば,僕も先日高校生にお話したとき,ふつうに「政治ってのはみんなの行動を縛ることを決めることで…」とか言ってましたね。反省しきりです。

日野愛郎先生からは『内容分析の進め方-メディア・メッセージを読み解く』を頂きました。どうもありがとうございます。授業で使った内容分析のテキストを翻訳されたということです。日野さんはただでさえベルギーの政治に欧州を中心とした比較政治について日・英の両言語でたくさん発表され,普通の計量分析だけじゃなく質的比較分析(QCA)も使いこなすすごい研究者なのですが,さらに内容分析まで教えているという…無理そうですが本当に見習いたいと思います。実は僕も最近国会議事録を分析する仕事をしていて,そのときに機械学習を使った内容分析的なやつってやってみたいなあと思ったのですが,ちょっとハードル高くて諦めたところです…。まずは本書から勉強してみます。 

内容分析の進め方: メディア・メッセージを読み解く

内容分析の進め方: メディア・メッセージを読み解く

 

その国会議事録を分析する仕事を発表する版元の白水社から『英語原典で読む経済学史』を頂きました。ありがとうございます。正直なところ日々の仕事に追われていると経済学を原典で読むというのは相当ハードル高いですが,英語の勉強として(解説付きで)読む機会があると,読むこともできるかもしれませんね。 

英語原典で読む経済学史

英語原典で読む経済学史

 

もうひとつ,神戸大学の梶谷懐先生から『中国経済講義』を頂いておりました。どうもありがとうございます。本書を読むと,中国経済を理解するのにいかにそのための前提知識が必要なんだろうと感じます。英語中国語に加えて経済学の理論や実証の方法が必要なのはもちろん,中央地方関係をはじめとした政治制度や労働問題,最近だと情報技術についてまでの知識もいるでしょうから,参入のハードルは極めて高いなあと。しかし本書は新書であるにもかかわらず,本当に多様な論点に目配りされていて、まさにこれが現代中国経済の講義なのだなあと感じました。

個人的には,地方政府と土地取引の第2章が勉強になりました。中国の土地所有制度(というか社会主義なので所有じゃないわけですが)はちょっと変わっているということを耳学問では聞くものの,あまり体系的に知る機会はなく,地方政府が土地使用権を独占的に供給するということが市場に歪みをもたらすという話はなるほどなあと。ほっておくと地方政府が観察しにくいかたちで債務を増やすので,地方債の発行に置き換えていくというのもなかなかすごい話です(これはこれでそのうちToo big to failが起きそうな気もしますが…)。最後の不動産税のところは,日本でもそうですが,在外研究先のバンクーバーでもいわば「口に苦い良薬」として問題になっていた話で,やはり取りうる政策手段というのはある程度収斂してくるんだなあという印象を持ちました。

本書でも何度か言及されていましたが,いろいろと改革があってもソフトな予算制約の問題は依然として残るようですし,日本と同様に中国も持続可能な制度への転換という課題に直面しており,その経験を相互に参照することは重要になるのではないかと思うところです。