クロス選挙?雑感

大阪府知事大阪市長が辞職し,2019年4月の統一地方選挙にあわせて選挙が行われることになりました。辞めた知事が市長に,市長が知事に立候補するということで「クロス(ダブル)選挙」と呼ばれることがあるようです。やってる研究上,私自身もこの件についてしばしば取材を受けるんですが,お話していることが担当の記者さんレベルではよく伝わっているものの,まあなんかほとんどボツになったりするみたいなので,こちらの方に掲載しておきたいと思います。

まず「どう思いますか?」と聞かれるんですが,まあこれまでに維新がやってきたことを考えると,こういう手法を取ることについて不思議は全くないと。法律で明確に禁止されていないことについては基本的に選択肢に入れていると思いますし*1,それについてはあんまり躊躇がない印象だと思います。それが望ましいかどうかと言われると別問題で,個人的にはアンフェアだと思います。その理由は,基本的に11月に選挙だと考えている相手陣営に十分容易をする時間を与えていないからであって,強い立場にある現職が自由に選挙時期を変更するのは一般的にフェアではないと考えるからです(その辺については下のリンク)。で,もう10年近く大阪で政権取ってる維新は,挑戦者というより権力者という立場なわけですから,それがアンフェアな手法を取ると政治不信を招くので好ましくないでしょう,と。

ただそうは言っても,こういう手法に出ようというのはまあわかることはわかります。結局のところ,都構想の方は,地方レベルの自民党公明党の反対でどうも動かない,中央から手を回そうとしてもダメ(この辺は旧いですがたとえば『中央公論』の拙論文,状況はあんま変わってないと思います)ということで,維新が府議会・市議会で過半数を取らないとどうしようもない,と。本来は都構想の内容で府市民の注目を集めて議会での過半数を取ることを狙うのが筋なのでしょうが,内容へのアピールだけではどうにもならず,橋下氏というリーダーも居なくなった中で,注目を集めて地方議会で過半数を取ることができる仕掛けがこれしかないと言えばたぶんそうなんだろうなあと。

注目が高まれば維新が有利かというのは,(住民投票でそういうところがあったように)必ずしも良くわかりませんが,少なくとも地方議会の選挙を考えると有利という判断は働きやすいように思います。大阪市が発表した年齢別の投票率を見ると,市議会では若年層が圧倒的に少なくて中年から投票率が上がる傾向が強く,それに対して市長選挙では若年層が参加しています(この辺を『18歳からの民主主義』に寄稿しました)。大阪市は比較的定数が少ないですが,それでも中選挙区制に見られる個人投票の傾向があって,政党が有権者にとって有効なラベルになりにくく,候補者を知らない/特に関係ないと思う若年有権者はあまり投票に行かないのだろうと。それが同時選挙によって投票に行くと議員でも維新に入れてくれる→普通に考えたら過半数が厳しい市議会でも戦える,という計算はありうると思います。個人的にはそういう計算自体を否定する気はないし,(少なくとも現状では)どっちかというと統一選挙でやった方がよいと思っているので,たとえば1年くらい前からクロスで同時選挙やるぞ!とか言っていれば,アンフェアだと思うことはなかったでしょう。

で,一生懸命記者の方に話しても基本的にボツになっているのですが,今回の一連の決定で一番興味深い点は,維新にとって現知事・現市長のパーソナリティが二の次になっている点だと思います。まあ市長が知事をやっても知事が市長をやっても大して変わらないと。これは言い換えると,政党としての意思決定こそが重要で,個々の意思決定なんてあんまり意味がないと言っているようでもあります。維新という政党にとって,知事や市長のポストというのは,政党としての政策実現を果たすためのリソースに過ぎず,候補者個人にとってどういう意味を持つかということはあまり注目されていない。これは「政党がなじまない」と言われ続けてきた日本の地方政治にとってすごく大きな出来事だと思うんですよね。その背景には,私がこれまでいろいろ書いてきたように,大阪府市というのが日本の地方政治の中で特別に小選挙区「っぽい」選挙制度になっているということもありますし,善教さんが書いているように維新が採ってきた政党中心の戦略が定着しているということもあると思いますが*2

この間の動きが脱法的と批判を受けてる理由のひとつは,地方政治をめぐる議論がこういう「政党としての動き」に慣れていないことにもあるように思います。知事・市長が極めて強い自律性と個性を持つ存在であるべき,という見方からすればそういう入れ替えは受け入れられないでしょう。しかし,個人よりも組織としての決定が重要な政党から見れば,まあ知事と市長を入れ替えてもあんま変わらんし何が問題かわからん,という感覚はありうると思います。もしそれがダメだというなら,あらかじめ政党としての行動を念頭においてダメだという規制をしておくべきだと思いますが,そもそも私たちの地方政治ではその辺をほとんど考えてこなかったんじゃないか,と感じるところです。そういったことを考え合わせると,政党としての維新に,政党になり切れない連合が政党っぽく戦うというのはまあ非常に厳しい話になるわけで,結局個人に焦点を合わせようとするように思います。まあ今後の報道の展開などにも左右されるのでしょうし,予測は仕事の外ですが,それなりに求心力のある政党に対して個人で戦うには,ある程度のストーリーがないと大変だろうなあという気がします。 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 
民主主義の条件

民主主義の条件

 
18歳からの民主主義 (岩波新書)

18歳からの民主主義 (岩波新書)

 

*1:明確にダメだとされていることについて検討するとしたのが某「専決処分」でしたが,これは結局やっていません。この点については当然ながら正しい判断だったと思います。

*2:どうでもいい余談ですが,だからあの本のタイトルを『地方政党の誕生』にしたらどうかと言ったんですが一蹴されました。全く正しい判断だと思いますがw

『社会科学と因果分析』メモ

佐藤俊樹先生の『社会科学と因果分析』を読んだ。ところどころ昔を思いつつクスっとしてしまうところがあったが,概念の歴史をたどるところとか慣れてなくて難しかったので,全体的にはクスっとするどころではなかった…。因果推論の話を知っていれば5章はわかりやすいので,4章くらいまで一回ざっと読んで読み直すのが吉のような気がする。自分がそうしただけだけど。

本書で佐藤先生が主張されているように,(1)社会に関わる因果のしくみを解明し,(2)それを他人に伝える営みが社会科学であるというのは(これだけ書くと当たり前のように見えるけど)本当にその通りだと思う。形式が保たれていないと理解できないし,伝わらなければ意味がない。そして社会科学をそのようなものとして捉えたとき,量と質の差というのは本質的なものではなく,いずれについても適合的/確率的に因果関係を議論することができる。質的な事例研究であっても,前提となる法則論的知識を手掛かりに因果的な議論を行うことができるし,また前提となる法則論的知識を磨くためにも非常に重要だと。

完全に同意だし,(少なくとも)個人的には事例研究などもそうやって議論しているつもりなので,違和感がない。ただ二つほど自分自身気になっているのでメモ。まずは少数事例から因果関係を議論していくために必要な法則論的知識をどうとらえるか。何が法則論的知識なのかというのは言うまでもなくそれぞれの研究の文脈から決まるんだと思うけど,ウェーバーの時代はともかく,現在のように専門分化が進んだ(本書の言葉で言えば「閉じた」)世界で法則論的知識を共有するというのはどのくらい現実的なんだろうかと。それこそウェーバーの議論自体,佐藤先生が論じるように,なんかちょっとずれた形で閉じて共有されてきたわけだし。まあそこは「開いて」いこうというマニフェストなんだろうという気はするけど,しかしそもそもそれが開くのが難しいことが,本書で批判する量/質あるいは因果/意味みたいな対立になってる気がする。これはまああんま本書に内在的な話でもないけど*1

本書の話での疑問は,「法則科学どこいっちゃったの?」と感じた。もともと法則科学/文化科学という対立について議論されていて,たまに「必然的」みたいな語句が出てくるんだけど(214-215頁),社会科学が追うべき因果関係がウェーバーのいう確率を考えた適合的因果だっていうことに収れんし始めてからは法則科学の位置づけがよくわからなくなった。一応索引使って「法則科学」を追ってはみたものの,僕の能力では最終的にどういう位置づけが与えられたのかはいまいちわからない。結局確率的なものを考えるんだから法則科学/文化科学を分けること自体意味ないことであるという理解だとすればわからんではないんだけど(そうは言ってないと思う),「質」を強調する研究に対する議論としては,一回の個別的因果,「文化科学」的な理解を問題にするだけじゃなくて法則科学的なスタンスを取る研究も考えないといけないんじゃないかと。

というのは,(一事例研究ではない)ラディカルな質的研究者って非常に決定論的な理解をする(していた)ところがあるわけで,あれはあれで法則定立を考えているように思う。QCAにしても,ファジーセットみたいな話は微妙な重回帰だと批判されるのはその通りかなと思うけど,ハードボイルドに二値のクリスプセットでやれば,まあ全域的な因果関係みたいなのは議論できないとしても,局所的に法則が成り立ってますみたいな言明はやろうと思えばできて,そっちの側からの批判もあるんじゃないかなあ,と。と書きながら思ったけど,実際ファジーセットとかに流れるようになっているのは,もはやそういうプロジェクトがきつくて成り立たないのを受けているのかもしれない。よく知らないけど自然科学の方でも「必然的」な法則というのは成り立たないという理解が一般的になっているのかもしれない*2。で,結局法則科学/文化科学を分けることに意味がないからその辺の話も要らない,ってことになっているのかもしれないけど,個人的には気になったところ。

 

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

 
Analytic Narratives (Princeton Paperbacks)

Analytic Narratives (Princeton Paperbacks)

 

 

*1:法則論的知識については,それを持ち出しつつ興味がある変数と結果の関係を議論することが(結果がわかってるので)循環論的になりやすいというAnalytic narrativeに対する批判と同じような批判がありうると思ったけど,こちらについては本の中でも議論されていたと思う。最終的に理解/同意できてるかは検討中

*2:けどこれはどうなんだろう。化学反応とか「必ず」起きるものもありそうな気はするけど。

『維新支持の分析』ほか

関西学院大学の善教将大先生から『維新支持の分析』を頂きました。どうもありがとうございます。先週,山下ゆさんのブログでバズってましたが,本当にいい本だと思います。私の著書や論文もいろいろと引用していただいて感謝するところです。

内容は,まあ山下ゆさんが上手にご紹介されている通りですが,大阪維新が国政ではそんなに支持されない一方で地方(大阪)では強く支持されてきたこと,そしてそれにもかかわらず2015年の住民投票で敗れたことについて説得的な説明を与えているものだと思います。そのポイントはやはり両方を一緒に扱っていることでしょう。住民投票の直後にその結果をシルバーデモクラシーとか地域格差とかそういうもので説明しようとする話は色々ありましたが,まあ非常に僅差なのでそんなざっくりとした説明ではなかなか有効になりえないわけです。それに対して本書では維新が(国政とは違って)地方で継続的に支持を受けてきたことを前提に,その支持との差に注目しながら住民投票を説明しようとしていることで有効な説明ができているように思います。結局有権者は,維新/橋下氏であれば何でも支持する,というような行動をしているわけではなく,既存政党と比較しつつ維新の方を選択しているわけで,都構想の住民投票という機会を与えられれば再検討して反対することも十分にあるんだ,と。もちろん,こうやって複数の証拠を組み合わせて厚みのある議論ができるのは,論文ではなくブックレングスの研究のいいところ,というのもあるように思います。

本書を読んでほんとにすごいなー(小並感)と思ったことはいくつもあります。舞台裏みたいな話ですが,私は本書の出版前に読ませていただいてコメントしてるのですが,そこからすごく内容が変わって充実してるんですよね。一次的な原稿ができてから入稿するまで一年以上あったと思いますが,その時間を使って見直すにしても,細部にわたって徹底的に再検討するというのはなかなかできることではありません(だって前の自分を批判するの大変だし)。次に,その成果でもあると思うのですが,本書では表が出てこなくてすべて視覚的にわかりやすいグラフを使っています。一枚一枚の表はたぶんすごい時間かかってるんだろうなあと感じさせるものも多く,読者に取って読みやすいように細部まで検討されていることがよくわかります。そして最も重要なことは,巷に流れる耳当たりのよさそうな説・議論を誠実に,しかし徹底的に検証しているってことです。ああいうの,私自身もそれは違うやろ,と思うことは少なくないですが,だいたい検証を考えていない印象を論じているわけで,それを批判するためには(批判する側が)検証の方法をきちんと考えてあげたうえで証拠を集めて批判しないといけないので非常に大変です。しかも,そうやって批判しても,「いやその検証方法は違う」とかなんとか言われる可能性もないわけじゃない。だからめんどくさいなあと思いながら流してしまうということは往々にして生じるわけですが,それをまとまったかたちで批判して,読者の判断に委ねる材料を提供するというのは本当に大変なことです。

維新が大阪に様々に存在する個別利益の代表ではなく,大阪全体の代表者としてふるまっているからこそ支持を受けているのではないか,というのはまさに私自身も主張してきたことでもありますが,それをサーベイを使いながら実証的に示されているのは本当にすごいなあと思います。この点に限らず,やや曖昧なかたちで論じてきたことが丁寧に言語化され,検証されていくのは,個人的には非常に爽快でありかつ羨ましくも思う読書体験でもありました。ただ(褒めてばっかりでも悔しいので)一点だけ引っかかったのは,「有権者の合理性」のところですかね。本書ではさまざまなかたちでエコロジカル・ファラシーへの批判もあるわけですが,なんかときおり「大阪市民の集合的合理性」のようなものが見え隠れしてないかな,と。都構想を否決したことが合理的かどうかということを判断するのは簡単ではないし(私自身,都構想については論じるに値することでありつつも,2015年の提案について賛成か反対かと言われれば反対,としてきましたが),何より最終的に可決か否決かというのがどっちに転んだかというのは非常に微妙なところなわけです。維新の提案なら何でも賛成する熱狂的な支持者もいたでしょうし,逆に何でも反対する熱狂的な(?)反対者もまた存在し,さらにはなるべくいろんな情報を集めて判断しようとする有権者もいたでしょう。確かに2015年の住民投票では,最後のなるべくいろんな情報を集めて判断しようとする有権者の動向がカギになった,というのはまさに同意ですが,いつでもどこでも同じようになるかはよくわからない。よくわかんないんですが,大阪の場合には,熱狂的な支持/不支持,そして情報を集めて維新支持/都構想反対,という選択を取った有権者の量的なバランスが「絶妙」だったんだろうな,とは思います。で,その結果としてこういう興味深い研究が生まれた,ともいえるかもしれません。 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 

 この間いろいろいただきつつなかなか消化できていませんが,拓殖大学の浅野正彦先生と高知工科大学の矢内勇生先生からいただいた『Rによる計量政治学』をご紹介したいと思います。お二人は以前に『Stataによる計量政治学』を出版されていますが,両著とも政治学におけるリサーチデザインの考え方から説き起こし,計量ソフトの使い方を超えた非常に素晴らしい教科書だと思います。上でご紹介した善教さんもRで分析をしたり描画をしたりされているようですが,Rによる計量政治分析を学習するに当たって長く読まれる教科書になるでしょう。私自身,大学でごく初歩の政治データ分析の授業を担当していて,今年はエクセルで説明をしていったのですが,来年度はこの教科書を使いながらRでの分析・説明をしていきたいと考えています。 

Rによる計量政治学

Rによる計量政治学

 
Stataによる計量政治学

Stataによる計量政治学

 

 

 

中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年

年末年始の多くの読書案内で好評価がなされていた白川方明中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年』を読んだ。参考文献入れると750頁を超えるまさに大著で,中身も非常に充実しており勉強になる(読むの時間かかった…)。中央銀行制度はもちろん,政策過程や組織運営についてもしばしば興味深い洞察がなされていて,政治学者にとっても重要な貢献。

本書では,「失われた10年(20年)」の間に日本銀行の金融政策がしばしば批判されてきたことに対する,実務家の立場からの反論が大きな位置を占める。パターンとしては経済社会の発展のために金融政策(日銀)にできることというのは限られており,重要な問題は日銀の金融政策よりも(だけでなく),グローバルな金融システムの構築や少子高齢化に直面する日本の場合経済・社会の構造改革であるというかたち。いわゆる「リフレ派」(本書では「リフレ派」と「期待派」が並べられていて,「期待派」のほうはアメリカのマクロ経済学の主流派の理解に近いものと位置づけられている)が主張するように,インフレーション・ターゲットを行うなどある種の金融政策のみで「失われた10年」の問題は解決しないということになる。他方で,中央銀行の役割として強調されるのは最後の貸し手機能を発揮することで,厳しい状況の銀行に公的資金を注入することが多くの人々に嫌われる政策であったとしても,中央銀行は金融システムの健全性を保つために必要に応じて機動的に最後の貸し手機能を発揮しないといけないということもしばしば強調されている。

こういった主張は,本書の中で非常に説得的に展開されていると思うし,だからこそ多くの研究者が良書として推薦したのだろうと思う。白川氏自身は,実務家であることを強調しているけれども,社会経済の変化や危機とそれへの対応についてとても理論的に洞察を加えているし,とりわけグローバルな金融システムについての洞察は傾聴すべきところが多いように感じる。データの制約などから制度的な分析はどうしても国ごとになりがちだけど,現状のように金融がグローバルに広がっている中では一国だけでできることは限られているわけで,まさにその対応のフロンティアにいた人が体系的に理解できるかたちで教訓を残そうとしていることは素晴らしい。

他方で非常に気になったのは,著者自身が強調する実務家としてのスタンス。ご本人が好む・好まないはともかく,中央銀行総裁というポジションは政治的な「リーダー」であることは間違いないと思うのだけど,その割には非常に受身的なところが強すぎるのではないかという印象を受けた。たとえば,まだ理事になる前の日本の金融システム危機において,著者は日銀の「先送り」が批判されるのは違和感がある,日本銀行にできる手当(使える「武器」)は限られていた,と主張する。それは多分そのとおりなんだけど,「先送り」批判にしても,日本銀行だけが批判されているというよりは,その背後の政治的意思決定の先送り自体が批判されているように思う。でも強調されるのは(そのときに)日本銀行にできたこととできなかったことを分けて,できたことはやっているしできなかったことは(日本銀行として)どうしようもない,というような傾向,というか。問題は,政治的なリーダーである総裁の場合,日本銀行にできることとできないことの境界自体に影響を与えることができる(あるいはそれが期待される),ということのように思える。総裁としての仕事はとても堅実で,分析も説得的なんだけど,その日本銀行のできることという境界については非常に受身的で,リーダーシップの発揮するという点ではどうだったんだろうか,と。

もちろん,本書を読んでいると著者のとても謙虚な人柄が伝わってくるので,リーダーシップを実際に発揮していても謙譲の美徳でそれを強調していないかもしれない。また,仮にすごく強いリーダーシップを発揮したとしても(著者が見るように)金融政策では経済社会に大きな影響を与えることができないし,そもそも我々はそういうスーパーマン的な業績に期待すべきではないのかもしれない。ただ,逆説的かもしれないけど,そういう叙述であるからこそ,日本銀行総裁のように政治的リーダーであることが期待される人物像やそのガバナンスについて,本書は非常に示唆的なところがあるようには思えた。

具体的に,読んでいてひとつ特徴的だと感じて,また個人的に違和感を感じ続けたのは,本書が日本銀行の「独立性とアカウンタビリティ」(これは第22章のタイトルにもなっている)を強調しているところである。著者は,民主主義体制下における中央銀行のあり方ということを強く意識していて,中央銀行が独立性を付与される代わりにアカウンタビリティを求められるとしている。しかし,その「代わり」ってなんなんだろう,と。個人的には独立性とアカウンタビリティというのはなかなか両立し得ないものであって,そこをバランスさせるとすれば,中央銀行(や裁判所)のような制度は長期的にアカウンタビリティを求める一方で(中央銀行総裁の再任もあるわけだし)短期的な独立性を付与しているようなかたちだと理解している。独立性とセットになって中央銀行の行動を制約するものがあるとすれば,そこは外的な「政治」によるアカウンタビリティではなく専門家としての「レスポンシビリティ」なのではないだろうか。反対にいうと,そのレスポンシビリティがあまり強調されないところが,受身的と感じた原因ではないか,と考えたところ。

もちろん,著者自身が非常に責任感に溢れた優れた実務家であったということは本書を読めば伝わってくるし,受身的であったとしてもそれが本書の重要な記録としての価値に関わるものではないと思う。というか,「アカウンタビリティ」にこだわり続けた政治的リーダーの記録として読むべきなのかもしれない。それは,中央銀行を下支えする専門家集団の基盤が(国際的にはともかく)国内でそれほど強くない中で,正統性の基礎をアカウンタビリティの方に求め続けなくてはならなかったことの裏返し,というところがあるのかもしれないけど。しかし非常にいろいろなことを考えさせられる読書だったと思う。 

平成バブル先送りの研究 (経済政策分析シリーズ)

平成バブル先送りの研究 (経済政策分析シリーズ)

 

沖縄住民投票雑感

2月末に予定されている沖縄県の県民投票が非常に難しい状況になっている。地方制度と住民投票のそれぞれについて研究をしてきた身からするとややこしいけど非常に興味深いところでもある。

事実関係でいうと,2019年沖縄県民投票 - Wikipediaが端的にまとまっている

市民グループ「『辺野古』県民投票の会」が2018年5月、県民投票に向けた署名集めを開始。9月、必要数の約2万3千を大幅に上回る92,848人分を集めて直接請求を受けて、沖縄県沖縄県議会に提出し、10月26日に可決、10月31日に公布された住民投票条例に基づくものである。条例では公布の日から起算して6ヶ月以内に実施することが定められており、告示日を2019年2月14日に、投開票日を2月24日に設定した。

この住民投票に関する補正予算案が、沖縄県市町村の12月議会において提案されたが、一部市町村議会で予算案が否決。全市町村で実施できるかどうかは不透明である[2]

なお、投票約2か月前の2018年12月14日から辺野古基地予定地への土砂搬入が開始され、すでに原状回復が不可能となっている。 

前に書いた住民投票の論文で考えたことを踏まえると,こういうタイプの住民投票は非常に政治的なもので結果が出ても必ずしもその通りにならない。つまり,収まるような住民投票の場合は,(1)基本的にその政府/自治体が決めることができる事業を対象として,(2)少数意見に配慮する形で住民投票を行い,(3)住民投票の可決は事業の承認,否決は拒否権の発動,といったものになると思われる。なので,自治体の施設建設とかそういう話についてはまあフィットすることになるわけだけど,基地や原発のように国が入ってくるものについては(1)の条件が微妙になるのでどうしても揉めることになる*1。ちなみに,日本で住民投票の黎明期にしばしば用いられていたのは基地・原発産廃処理場なのだが,産廃処理場の方では比較的機能しやすかったという印象がある。

実際,これまで沖縄で過去に二回(沖縄県と名護市)で米軍基地に関して住民投票が行われているけど*2,名護市の方は賛成・反対のほかに「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」「環境対策や経済効果が期待できるので反対」という選択肢が設定され,この条件付き賛成がある程度票を集めたことを背景に,市長の辞任と引き換えにヘリポート条例が通るということになっている。沖縄県の方は,唯一の都道府県レベルの住民投票ということもありなかなか評価は難しいが,その後日米地位協定の見直しは実現していない。特定の自治体のみで決めることができない中で,より広域の政府/自治体が事業にコミットしてると,特定の自治体の反対のみで中止することが難しいのは否めない。

辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否」という沖縄県だけで決めるのが難しそうな今回の住民投票は,まあおそらく住民投票だけで話が決まるような事業ではないことが予想される。なので,基本的には沖縄県の「民意」を示して広域の政府/自治体(要するに国)の意思決定にプレッシャーをかけようとする,つまり政治的な意思を表明するための道具という性格を持つようになると考えられる。国際的な安全保障環境にも依存するけど別に未来永劫米軍基地を置かなければならないわけではないし,それ自体は非常に政治的な決定なわけで,その手のプレッシャーをかけようとする「政治」は十分にありうるように思われる。

しかし今回難しいのは,その住民投票の実施という局面で,沖縄県からの事務委任を受けるいくつかの市町村が拒否することになっている点。県民投票反対を可決 「政治的主張に公費」 | 八重山毎日新聞社によれば,予算額の多寡ではなくて,政治的な主張に関する住民投票だからそもそも反対,という理屈とのこと。まあやろうと思えば市長の専決処分でできないことはないとも思われるわけですが,議会が反対したところでは,どうも市長も「議会の意思を尊重する」とか言って専決処分はしない模様。

このように委任を受けたところが「やだよ」と言ってしまうと話が動かなくなるのは,以前に『地方分権改革』の中で西尾勝先生が述懐されていたように,第一次分権改革で国の関与を法定化し,国地方係争処理委員会を作ったときから意識されていたこと。国の法定受託事務であれば「是正の勧告」とその後の代執行ができるわけですが,実際勧告に従わなくても代執行は事務的に難しいし,都道府県の自治事務であれば「是正の要求」しかできず,おそらく代執行は当然にはできない。まあそれ以前に都道府県が普段やってない選挙事務を代執行できるのかというと相当に疑問で,仮に協力的な市町村の力を借りるとしても難しいような…。そして何より難しいのは,この状況を調停する国地方係争処理委員会(都道府県-市町村なら自治紛争処理委員)に持ち込まれるためには「関与を受けた」側の行動が必要なわけで,「やだよ」という人たちはもちろんそんな行動をすることはなく,何もできないままとなる。この辺りは住基ネットをめぐる一連のやり取りが典型というか。

八重山毎日新聞社の報道にいみじくも出ているように,このように行政的に事務委任を受けないということは,政治的主張をしないということを明らかにするというタイプの「政治」なわけで,まあ場外乱闘みたいなところはあるものの,委任されたことを敢えてやらないということ自体を封じるのは難しい。沖縄県だって,まさに基地関係で国から委任されたことをやらないことで「政治」をすることもあるわけで,同じような抵抗の手段だろうと言われれば弱いところもあるように思う。たださらに難しいのは,これが「アリ」とされてしまうと,今度は仮に国が国民投票をやるときに自治体に事務委任をすることになるわけで,同じように拒否する自治体が出てきたらどうするんだろうと。数が少なければ強行するかもしれないし(国の場合は是正の勧告を行って従わなければ代執行もできる),今回の住民投票だって拒否する自治体がいながら強行してもまあおかしくない。しかし,おそらくそういうやり方は政治的決定の正統性を毀損してしまうことが予想される。

…とまあ難しい問題で,誰がどうすべき,みたいな話について,個人的な感想を超えた結論は出ないわけだが,ここまでマルチレベルでこじれてくると,お互いにできる手を打つしかなくなってくるんじゃないか。本来は,より強くて余裕があるであろうと考えられる国が政治的決定の正統性に配慮して妥協するのが望ましいように思うけど,これまでの過程で可能な妥協ができないとするのか,強行しても正統性が毀損されないと考えているのか,妥協の気配はあまり見られない。市町村が事務委任を拒否するのに当たって,自民党衆院議員が「否決に全力を」と働きかけていたという報道もあるくらいだし*3

以前の論文で,住民投票,特に近年では公共施設の建設の是非をめぐる住民投票が増えていることについては,地方自治体レベルでの政党間競争が十分でないことに起因しているのではないかと書いたことがある。これまでの地方議会の多数派がどっかに何らか施設を作るということを(まあ順番で)やってきたのに対して,反対するような政党が十分な勢力を持つことはほとんどなかった。それが,どっかの施設の建設というシングルイシューが盛り上がり,反対勢力がそこだけで結集して,場合によっては市長選も勝つことを通じて住民投票が行われてきた,という見立てである。ただこれだと結果としてシングルイシューのアドホックな競争をする分にはいいけど,安定的な競争にならないままに何となく流れていく(住民投票で反対側が負けるとまた分裂したりする)。それはまあ地方自治体レベルの話であって,その意味からも選挙制度を見直すべきではないかということを考えてきた。

しかしこの沖縄のような話は,マルチレベルの政治制度が絡むと話がさらにややこしくなることを示唆している。つまり,地方自治体の中の施設建設がシングルイシューで盛り上がるのではなく,他のレベルの政府への反発みたいなものを材料に盛り上がってくると,自治体内での政党間競争だけじゃなく*4,マルチレベルでの政党間競争も問題になってくる。そして問題は,国側の政党に近い立場のグループが地方レベルにはいたとしても,逆はそうではないことがしばしば起こる,ということではないか。地方でシングルイシューを強調すると,国の政党を通じた抑えみたいなものは全く効かずに極端な立場も取りやすくなるし。個人的には,国-地方を通じた政党のリンクを作る,つまり政党内で一定の調整を行うことで問題を全国化して決着させる,というのがある程度妥当かなあとも思うけど,これは地方議会レベルの選挙制度の見直しよりもさらに難しそう…。 

公共選択 第68号 特集:まちづくりの公共選択

公共選択 第68号 特集:まちづくりの公共選択

 
地方分権改革 (行政学叢書)

地方分権改革 (行政学叢書)

 

*1:そういう意味では,イギリスのBrexitとかスコットランドの独立とか,より広域の自治体/意思決定主体からの離脱が問題になるのも同じ。

*2:基地がらみというと,他には2006年3月の岩国市で米空母艦載機移駐受け入れについて,与那国町陸上自衛隊の部隊配備について住民投票が行われている。

*3:なおこの議員は2018年11月に繰り上げ当選した元弁護士とのこと…。

*4:たぶん自治体の中に国の側につく勢力もあるから政党間競争は問題になる。

仕事納め

年明けすぐの締め切りとか数か月ずっと懸案で進まないものとかいろいろ収まってない感もあるけどタイムアップなので仕事納め。8月下旬に帰国してから4か月程度なわけですが,「え,まだ4か月なの?」感があるほどにバタバタが続き,11月末で研究関係の書き物が一段落して12月を甘く見てたら授業(採点)と講演関係の仕事でえらいことになってしまった。このペースに持続可能性はないのではないかと憂うところで,来年頭にかけて仕事を結構お断りせざるを得ない状況になっておりますが,どうかご容赦ください。

今年発表した仕事は,4月の『社会が現れるとき』(これは2年前に書いたもの)と,7月の単著『新築がお好きですか?』と11月の『レヴァイアサン』ということになります。あとは前に日本語で書いた共著論文を英語にしたものがひとつ,ってとこでしょうか。まあ単著があるのでボチボチ…という感じでしょうか。その他は単著のスピンオフ的な感じで1970年代の住宅政策について論じたもの(校了済みで1月出版予定),オーラルヒストリーのデータを利用して行政改革について書いたもの(初校終了),公共選択学会で報告した「選挙疲れ」の共著論文ということになります。それから日本語と英語で書評が一本ずつか。正直,帰国してから年内に二本書くことになるとは思わなかった…。

英語の方は,結構時間かけて書いたものが残念ながらリジェクトで,これどうしようかとそのままになってるのが一本,バンクーバーにいたときに修正が終わらなくてそのままになっている論文が一本と,日本に帰ってからはやや低調。ただ来年は2・3本書かないといけないらしいので頑張ります…(まあ日本語論文が元になるやつですが)。日本に帰ってから英語の書き物は低調だったのですが,UBCのイブさん含めて外国からお客さんが増えて話をする機会自体は増えたなあという感じがあり,まあできる範囲で頑張っていきたいところです。 

社会が現れるとき

社会が現れるとき

 
レヴァイアサン 63号(2018 秋) 特集:比較の中の日本政治

レヴァイアサン 63号(2018 秋) 特集:比較の中の日本政治

 
Japan’s Population Implosion: The 50 Million Shock

Japan’s Population Implosion: The 50 Million Shock

 

 来年以降どの辺研究しようかというのはなかなか迷うところで,「選挙疲れ」論文のほかにもうひとつ市レベルの選挙を考える企画を持っているほか,住宅についても1990年代以降の転換を決めた政策過程について論じるものや,マンションの管理組合の分析を考えたいと思ってます。それに加えて震災研究は続きそうで,さらに申請中の科研は全然別テーマなのでどうなることやら。まあ全部つながってるっちゃつながってるんでしょうが,まあ選挙ネタは共著が中心になるのかなあ(実際そうだし)。

その申請中の科研に関連するところもあるのですが,今年読んだ本では『未来政府』がツボでした。今年の本というわけではないのですが,帰ってきて何となく手に取ったら色々考えさせられるところが多く,非常にお勧めという感じです。研究書では有斐閣さんが濱本さん柳さん・善教さんと年の後半で3冊も政治学の本を出すというチャレンジングな企画をされたのがすごいな/ありがたいなと思いました(善教さんのはそのうち感想書きます)。全部読む価値のある本なのでぜひ!。 

未来政府

未来政府

 
現代日本の政党政治 -- 選挙制度改革は何をもたらしたのか

現代日本の政党政治 -- 選挙制度改革は何をもたらしたのか

 
不利益分配の政治学 -- 地方自治体における政策廃止

不利益分配の政治学 -- 地方自治体における政策廃止

 
維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 

政策過程を考える

ご紹介が遅れておりましたが,少し前に同志社大学の原田徹先生から『EUにおける政策過程と行政官僚制』を頂いておりました。どうもありがとうございます。本書は,タイトルの通りにEUの政策過程について歴史的制度論の観点から実証分析を行ったものです。EUというと「超国家組織」と理解されるように,しばしば国際政治の分析対象になるように思いますが,本書では行政学の観点からEUの政策過程が分析されています。EUにおいて主要な意思決定に関わってくるのはブリュッセルEU官僚であると言われていて,EU議会において各国の代表がアライアンスを作るのは難しいところがあるわけで,その意味では確かに「行政学」として非常に興味深い素材になるのだと思います(もちろんそういうかたちでの意思決定が「民主主義の赤字」Democratic Deficitとして批判されることも少なくないわけですが)。

実証分析としては,EUの政策の体系性を考慮してマクロ(欧州憲法条約)・メゾ(EU総合計画・政策評価等)・ミクロレベル(具体的な公共サービス供給)での政策過程の事例が扱われているほか,ヨーロッパの債務危機対応というミクロからメゾレベルへとかかわる意思決定が取り上げられています。興味深いのは,例えば曽我謙悟先生の『行政学』では,基本的に国際組織が国家を本人とした代理人として扱われているのに対して,本書のメゾ・ミクロの分析では「「官」にあたる欧州委員会は独自の選好を有する単独アクターとして扱うが,「政」である政治的アクターは未分化の相対として「官」である欧州委員会に対抗するアクターとして」(59-60頁)扱われているところです。本人の位置づけにあるアクターが特定の意思決定を図ろうとするのではなく,制約として機能するというアイディアということなのかなあ,として理解していたのですが,それは行政国家にも広く見られる事象のような気がします。EUでは本人の意思形成が難しいわけでより妥当なアイディアだろうと思うのですが,超国家組織の分析から国家の意思決定のある種の典型について含意が見られるとすると非常に興味深いように思います。 

EUにおける政策過程と行政官僚制 (ガバナンスと評価4)

EUにおける政策過程と行政官僚制 (ガバナンスと評価4)

 

 次に,秋吉貴雄先生,白崎護先生,梶原晶先生,京俊介先生,秦正樹先生から『よくわかる政治過程論』をいただきました。どうもありがとうございます。様々なトピックについてA4見開き1頁で解説していくスタイルの教科書で,政治過程についての様々なトピックが網羅されています。特に学生が辞書的な感じで必読の参考文献を探しつつ学習するスタイルに合うような気がします。 

よくわかる政治過程論 (やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ)
 

 最後に宍戸常寿先生から『憲法学読本』をいただきました。ありがとうございます。憲法の様々なトピックごとに解説していく教科書で,第三版ということだそうです(すごい)。どっちかというと人権・権利章典を中心とした構成になっていて統治機構はやや後景なのかな,という感じですが(財政・地方自治がひとつの章になっているのはご愛嬌かとw),政治学をやっている人間としてはそっちのほうもちゃんと勉強しないと,ということもあるでしょうから,勉強させていただきたいと思います。 

憲法学読本 第3版

憲法学読本 第3版