行政組織の改革

金沢大学の河合晃一先生から『政治権力と行政組織』を頂きました。どうもありがとうございます。行政組織の変更を行うときに,新しい組織が政府から独立性の高い組織になるかどうかというのはいつも議論されるところです。よく出てくるのは,新しい組織を合議制の委員会として作るか,独任制の省庁として作るか,というような話で,理論的な予想としては前者の方が独立性が高くなると考えられます。さらにはその委員会を内閣に置くか省庁の一つと同格にしとくか,人事院会計検査院(さらには裁判所!)のように格別の独立性を与えるか,ということは大きな論点になります。

本書はこのような行政組織の新設・変更について,政権党が野党と合意するときに必要な「コンセンサス・コスト」が重要なんだ,という説明を行おうとするものです。一般に独立性が高い組織を作ろうとすると,その組織が政権の言うことに従わないかもしれないことでエイジェンシー・コストが生じると考えられます。アメリカの行政組織の研究だと,そのエイジェンシー・コストを低くするために新たな組織を強く縛ったり,独立性を低くさせたりすると立法コストやコミットメント・コストがかかることが論じられています。それに対してこの研究では野党との合意にかかるコストこそが重要なんだ,ということが仮説で,政権はなるべく独立性の低い組織を作りたいけども,コンセンサス・コストが高まれば(仕方ないので)多少なりとも独立性の高い組織を作る,ということが予想されます。それを金融監督庁・金融再生委員会,消費者庁,復興庁で検証しようとしています。

コミットメント・コストの説明って,自分でも授業でしたりするわけですが,「ほんとかな」と思うこともあるわけで,確かに本書で批判的に論じられるように,アメリカ特殊的な発想のような気もします。他方,「コンセンサス・コスト」の方も立法コスト都の違いをどう議論するか,というのはもうちょい議論の余地もあるような気がします。あと,出てくる事例は確かに興味深いのですが,これ全部内閣府の内側の話なので,内閣の外の省庁に関するような事例,具体的に言えば防衛庁の省「昇格」や東日本大震災後の原子力規制委員会の設置なんかも視野に入ってもよかったのかも,と思うところではありました。うまくやれば日銀の同意人事なんかも説明できたりするのかもしれませんし。 

政治権力と行政組織: 中央省庁の日本型制度設計

政治権力と行政組織: 中央省庁の日本型制度設計

 

 河合先生からはもう一冊,他の著者のみなさんとともに『現代日本の公務員人事』を頂いております。本書は稲継裕昭先生の還暦記念で編まれたというもので,各章では最近の公務員制度改革の効果や,人事慣行の変化について論じられています。ちょうど行政学の授業で人事関係のところをアップデートしたいと思っていたのでぜひ参考にさせていただきたいと…。個人的には,(授業で時間的に地方の話をできるのかよくわかりませんが)地方自治体の新たな人事慣行について扱った6章(小野英一先生)と7章(大谷基道先生)は詳しく知らないところだったので,非常に興味深く読みました。 

現代日本の公務員人事――政治・行政改革は人事システムをどう変えたか

現代日本の公務員人事――政治・行政改革は人事システムをどう変えたか

 

 もう一冊,行政組織の改革に絡む研究として,山口大学の西山慶司先生から『公共サービスの外部化と「独立行政法人」制度』を頂きました。どうもありがとうございます。個人的にも最近エイジェンシー化や民営化を含む行政改革に少し関心を持っておりまして,勉強になります。

本書では,エイジェンシー化という問題が出てきた理論的背景,国際比較,そして日本的に受容した「独立行政法人」の制度設計と運用,その変化というかたちで論じられています。雑ぱくな感想ですが,日本の場合にはやはり初めに「減量」ということが強調されたことが非常に大きくて,その後の運用や変化においても何というか「減量」できるものだ,するべきものだ,として扱われているような気がします。省庁の側もある種人身御供的に「独立行政法人」を切り出しているところがあってその傾向が強まっているところもあるのでしょうが。

個人的には,(民営化を含めて)公共サービスの外部化・民間化を考えるときに重要になるのはディマンド・サイドの購買力をどのように設定するかということではないかと思っています。本書にあるように,特に最近のNPMの議論の文脈では「市場化」は限定的なものとして捉えられる傾向にあるように思いますが,しかしやはり重要なのは(疑似的なものでも)市場による評価であり,サービス提供者が「利益」を出すことが重要で,それができないときにサービスが不要であるという判断につながってくるのではないかなと。そのためにはサービスの買い手(政府自身も含めて)が非常に重要であることは間違いなく,また必要なサービスを購入できるだけの購買力をどうやって保障するか,ということが制度設計上重要だろうと考えるところです。ただ,日本の場合には「減量」が中心であり,そもそも利益なんてとんでもない,という発想が強いことが,この制度の運用を難しくしているようにも思います。 

公共サービスの外部化と「独立行政法人」制度 (ガバナンスと評価 6)
 

Dynasties and Democracy

Daniel Smithさんの著作,Dynasties and Democracy: The Inherited Incumbency Advantage in Japan の書評を依頼されて書きました。年度末〆切だったのに遅れてしまいご迷惑をおかけして本当に申し訳ないです…。相変わらず英語は下手でしょうがないのですが,最近は適当に日本語で書いたものを英語にするという技術を覚えて多少の省時間化を図ることができるようになってきた気が…(意味なくポジティブ)。それはともかく,本自体面白いものだと思うので,一部をご紹介したいと思います。

世襲」は日本政治ではしばしば観察されるもので,固有の文化によるものだと解説されることもあるわけですが,本書で著者は比較の視点から,世襲が日本における文化を反映しているものというよりも,選挙制度を中心とする政治制度の配置によって生み出されているものであることを明らかにしています。そのために,第二次大戦後の日本における国政選挙の候補者について,血縁の国会議員が存在したかどうかを含めた詳細なデータを集めるだけでなく(下のリンク),12の先進国について国政レベルの議員がDynasty出身かどうかについての膨大なデータを集めて検証が行われています。

dataverse.harvard.edu

本書の議論の特徴は,世襲候補者を求める需要側の要因と,世襲議員・候補者の側の供給側の要因を分けたうえで,それぞれについて様々な角度から検証していくことです。供給側の仮説として設定されるのは,長く選挙で勝利し続けた現職がその家族を自分の後に続く候補として送り出しやすくなるとか,Dynastyに所属する人が政治の世界に出やすいとか。他方需要側の仮説として設定されるのは,そもそも現職議員であることの選挙上の有利さを後継者に引き継ぐことができるかということである。さらに,システムレベル-個人投票重視の選挙制度かどうか,政党レベル-市民社会における組織との関係・候補者選定プロセスの性格,個人レベル-前任者の死亡といったことが具体的に世襲候補の擁立につながるという仮説になってます。読むまで知らなかったんですが,アイルランドでは日本以上に世襲が多くて,それがやっぱり個人投票を招くSTV(単記移譲式投票)とつながっているだろうというのは面白いところ。

比較分析を踏まえて,日本についての詳細な検討をしてるわけですが,SNTVからFPTPへと変更された選挙制度改革によって世襲候補に対する政党からの需要が大きく変わったことが論じられてます。まあこれ自体はそうだよねーという感じなわけですが,面白いのは供給側の方の変化で,本書によれば,選挙制度改革後は一般的に世襲候補が擁立されにくくなっているものの,一部強いDynastyの候補者は擁立される傾向があるということ。制度改革後の世襲が単に慣性によって決まるのではなく,明確な傾向を持って決められているとすれば面白いように思います。

更に関連して,個人的に最も面白かったのは,選挙制度改革後,一部の有力政治家のDynasty出身の政治家が昇進しやすくなっている,というところ。世襲議員が相対的に若い時期から政治の世界に参入できることから,単にシニョリティ・ルールを反映しているだけではないかという疑問はあるわけですが,本書ではそれを反証するデータを提出しつつ,有力なDynastyにおいて政治の世界に特殊な資源やコネクション,知識などが直接的に重要であることを示唆してます。もちろんさらなる検証は必要でしょうが,知識や経験を共有した有力なDynastyがコアを担うようになっているとすれば,その観点から自民党の変質に迫ることもできるんじゃないかと思ったり。

本自体すごく面白いと思いますが,それは著者が日本語のものも含めていろいろ読んで日本政治についてすごい詳しいから,ということがあります。アネクドートとか,なんでそんなん知ってるの?みたいなこともあるし,ある面で現代日本政治の通史風になっているところもあって,大学院生が日本政治の展開について説明するときに参考になるんじゃないかなあ,という印象も受けました。ご関心のある方はぜひ! 

 

 

オーラル・ヒストリーに何ができるか-作り方から使い方まで

宣伝ですが,御厨貴編『オーラル・ヒストリーに何ができるか-作り方から使い方まで』が岩波書店から出版されました。私はこの中で「「行革官僚」の成功と挫折」という短い文章を寄稿しています。大学院生の時に参加した田中一昭氏のオーラル・ヒストリー以来,いくつか参加している行政改革・民営化に関するオーラル・ヒストリーの成果を並べつつ,第二臨調を契機に出現したように見えた「行革官僚」とはどういう存在だったんだろうか,ということを考えてみたものです。今回は紙幅の都合もあって論じたりないところもありますが,今後もう少し行政改革や民営化について別のプロジェクトでも考えてみたいと思っています。

私は具体的にオーラル・ヒストリーを「使う」という感じのもので,本書の中で似たようなものとしては竹中治堅先生,高橋洋先生,佐々木雄一先生,あと前田亮介先生のものも似てると言えば似てるかもしれません。いずれもオーラル・ヒストリーの記録を使って何らかのテーマについて分析したものです。より古い回顧録を使っている前田さんのもの以外は「事例的考察」というくくりの中に入ってますが,他方でこの括りの中でも特定のテーマというよりも文部科学官僚について実施されたオーラル・ヒストリーについて分析する本田哲也先生のものも入っていて,「使う」については特に現代政治に関心を持つ研究者を中心とした多彩な感じになっています。

個人的には「応用的考察」のところが面白かったですね。こちらは歴史への志向がより強い感じでしょうか。牧原出先生によるオーラル・ヒストリーの記録の読み方,村井良太先生による「東京学派」(!)の歴史と可能性,手塚洋輔先生によるオーラル・ヒストリーの準備についての考察があります。それに加えて,特に一番若い世代である佐藤信先生と若林悠先生がオーラル・ヒストリーの「残し方」について検討しているものが広く読まれるといいな,と思いました。だいたいプロジェクトを始めた世代は拡大を考えて(持続可能性とは別に)方法論を確立することに熱心になり,自分も含めて定着してきた世代ではその中身について関心を強くしている,というカラーがあるような気がしますが,それに対してもっと若い世代では持続可能性や公開というテーマについて考えて刷新を提案する,という感じのようにも思います。 

『第一次世界大戦期 日本の戦時外交』ほか

帝京大学の渡邉公太先生から『第一次世界大戦期 日本の戦時外交-石井菊次郎とその周辺』を頂いておりました。ありがとうございます。外交史,しかも戦前の話なので,十分に理解できるわけではありませんが,興味深く読ませていただきました。基本的には,第一次世界大戦前の外交官中心であったいわゆる「旧外交」から,秘密外交の禁止・民主的統制・民族自決などを謳う「新外交」へと変わっていく期間における日本外交の歴史について論じられたものだと思います。石井菊次郎とその周辺,という副題になっていて,冒頭でも石井の話が出てくるので,もっと伝記風なのかなあと思っていたのですが,元老による外交のほか,加藤高明・本野一郎といった外相の政治指導についても多く紙幅が割かれています。非常に図式的に言うならば,加藤高明を中心とした日英同盟を何より重視する路線と,元老や本野一郎のようにロシアとの関係を重視する路線の対立がこの間の基軸になっている中で,ドイツの潜在的脅威を重視する石井菊次郎が両者の中でバランスを取りつつ,ロシア革命後に大きな問題となっていったアメリカとの外交交渉を行っていったという感じでしょうか。高校日本史で止まっている知識で出てくる「石井-ランシング協定」はその成果,ということになるのかと思います。

歴史的な状況をすぐに現代に当てはめようとするのはよくないですが,現代政治を研究している人間としては,やはり現代へのインプリケーションを考えてしまうところがあります。英国という覇権国家との強い関係が続いてきて,それを見直すような議論が出てくる中で,近接するロシアとの関係を強化することで自国の権益を守りたい。ロシアの方もヨーロッパとの関係が厳しいときは日本に接近してきて権益を譲るようなことも言うけど,ヨーロッパの方でのバランスが回復してくると日本との交渉は厳しくなる。その間出現した新興大国であるアメリカが中国市場に強い関心を持ち,長期的に国力が太刀打ちできなくなることが明らかな中でより厳しい交渉を行うことになる。まあそんなまとめ方をすると何となく現代にも通じる「バランスオブパワーの変化の中でどういう選択をするか」というケーススタディにもなっているように思います。

なお本書のなかでは中心的なテーマでないと思いますが,個人的には「外交調査会」による意思決定の一元化のところが興味深かったです。元老や外相,軍部が多元的に行ってしまうような従来の外交から,政党も含めてまとめて調整するしくみ,ということだと思います。結局ここでは何も決まらなくなる,ということもよくわかるのですが,まあおそらく現代の安全保障会議に通じるところもあるわけで,その辺の歴史を描く研究もできるのではないかなあ,と思ったり。 

第一次世界大戦期日本の戦時外交―石井菊次郎とその周辺

第一次世界大戦期日本の戦時外交―石井菊次郎とその周辺

 

村松岐夫先生に『政と官の五十年』を頂いておりました。ありがとうございます。村松先生が書かれてきて,これまでに単行本に収録されていない論文のうち,主に国政レベルの政治行政過程の実証研究を扱われたものと,中央地方関係や地方分権をテーマとされたものが収録されています。全体としては,はしがきにある通り,「政党と官僚の間では,「官僚が優位の関係に立っている」という通説に対しては,政党の影響力優位と見るのが適切」,「「地方自治体が自律的でなく,中央に支配されている,また地方議会に影響力がない」といった言説に対しては,種々の調査のうえ,これらの地方諸アクターに独自の影響力があること」が示されています。今となっては目新しい主張ではありませんが,村松先生がこれらの論文を書かれていた時には極めて革新的な主張であったわけで,現在の研究に至る「源流」をまとめて読むことができる本だと思います。 

政と官の五十年

政と官の五十年

 

 著者の先生方から『日本の連立政権』を頂きました。どうもありがとうございます。1993年の細川政権以降民主党を経て現在の第二次安倍政権に至るまで,日本で常態となった連立政権について,各首相ごとに分析が行われています。本書の編者のおひとりであり,選挙学会の会長を務められていた岩渕先生の還暦を記念して,関係の方々で始められたプロジェクトということですが,残念なことに途中で岩渕先生がご逝去されました。ご冥福を祈りつつ,勉強させていただきたいと思います。 

日本の連立政権

日本の連立政権

 

これも著者の先生方から『縮減社会の合意形成』を頂きました。ありがとうございます。副題が「人口減少時代の空間制御と自治」となっていて,「合意形成」に焦点を当てながら都市計画のような都市空間管理について分析するものになっていると思います。あとがきにある通り,本書の問題意識では,これまでの合意形成システムが「国政という全国レベルでの十分な合意形成を欠いたまま政策決定を行い,実際に影響の及ぶ地域レベルで,都道府県・市区町村・地元団体という3層の事実上の「自治行政単位」を媒介に,経済的便宜供与によって,国策への同意を求めるという「同意調達システム」」であったことが前提とされています。それを批判しつつ,縮減社会のなかで機能する合意形成システムの理論を構築しようとした,というのが本書のもとになったプロジェクトの狙いとなっているそうです。「自治行政単位」の境界をどのくらい自明視すべきなのか,という論点などもありそうですが,全国で様々なNIMBY問題が噴出している現在の日本において,取り組まれるべき課題ではないかと思います。 

縮減社会の合意形成-人口減少時代の空間制御と自治-

縮減社会の合意形成-人口減少時代の空間制御と自治-

 

 もうひとつ著者の先生方から『「18歳選挙権」時代のシティズンシップ教育』を頂きました。ありがとうございます。龍谷大学の先生方を中心としたプロジェクトで,シティズンシップ教育の現状や諸外国での経験,さらには龍谷大学で行われてきた取り組みについてまとめられています。基本的に大学生は有権者,という時代になっているわけで,政治学の研究者としても大学教育の中でやるべき仕事が増えている、ということなのかもしれません。自分の大学のことを思いつつ勉強させていただきたいと思います。 

「18歳選挙権」時代のシティズンシップ教育: 日本と諸外国の経験と模索

「18歳選挙権」時代のシティズンシップ教育: 日本と諸外国の経験と模索

 

 

クロス選挙?雑感

大阪府知事大阪市長が辞職し,2019年4月の統一地方選挙にあわせて選挙が行われることになりました。辞めた知事が市長に,市長が知事に立候補するということで「クロス(ダブル)選挙」と呼ばれることがあるようです。やってる研究上,私自身もこの件についてしばしば取材を受けるんですが,お話していることが担当の記者さんレベルではよく伝わっているものの,まあなんかほとんどボツになったりするみたいなので,こちらの方に掲載しておきたいと思います。

まず「どう思いますか?」と聞かれるんですが,まあこれまでに維新がやってきたことを考えると,こういう手法を取ることについて不思議は全くないと。法律で明確に禁止されていないことについては基本的に選択肢に入れていると思いますし*1,それについてはあんまり躊躇がない印象だと思います。それが望ましいかどうかと言われると別問題で,個人的にはアンフェアだと思います。その理由は,基本的に11月に選挙だと考えている相手陣営に十分容易をする時間を与えていないからであって,強い立場にある現職が自由に選挙時期を変更するのは一般的にフェアではないと考えるからです(その辺については下のリンク)。で,もう10年近く大阪で政権取ってる維新は,挑戦者というより権力者という立場なわけですから,それがアンフェアな手法を取ると政治不信を招くので好ましくないでしょう,と。

ただそうは言っても,こういう手法に出ようというのはまあわかることはわかります。結局のところ,都構想の方は,地方レベルの自民党公明党の反対でどうも動かない,中央から手を回そうとしてもダメ(この辺は旧いですがたとえば『中央公論』の拙論文,状況はあんま変わってないと思います)ということで,維新が府議会・市議会で過半数を取らないとどうしようもない,と。本来は都構想の内容で府市民の注目を集めて議会での過半数を取ることを狙うのが筋なのでしょうが,内容へのアピールだけではどうにもならず,橋下氏というリーダーも居なくなった中で,注目を集めて地方議会で過半数を取ることができる仕掛けがこれしかないと言えばたぶんそうなんだろうなあと。

注目が高まれば維新が有利かというのは,(住民投票でそういうところがあったように)必ずしも良くわかりませんが,少なくとも地方議会の選挙を考えると有利という判断は働きやすいように思います。大阪市が発表した年齢別の投票率を見ると,市議会では若年層が圧倒的に少なくて中年から投票率が上がる傾向が強く,それに対して市長選挙では若年層が参加しています(この辺を『18歳からの民主主義』に寄稿しました)。大阪市は比較的定数が少ないですが,それでも中選挙区制に見られる個人投票の傾向があって,政党が有権者にとって有効なラベルになりにくく,候補者を知らない/特に関係ないと思う若年有権者はあまり投票に行かないのだろうと。それが同時選挙によって投票に行くと議員でも維新に入れてくれる→普通に考えたら過半数が厳しい市議会でも戦える,という計算はありうると思います。個人的にはそういう計算自体を否定する気はないし,(少なくとも現状では)どっちかというと統一選挙でやった方がよいと思っているので,たとえば1年くらい前からクロスで同時選挙やるぞ!とか言っていれば,アンフェアだと思うことはなかったでしょう。

で,一生懸命記者の方に話しても基本的にボツになっているのですが,今回の一連の決定で一番興味深い点は,維新にとって現知事・現市長のパーソナリティが二の次になっている点だと思います。まあ市長が知事をやっても知事が市長をやっても大して変わらないと。これは言い換えると,政党としての意思決定こそが重要で,個々の意思決定なんてあんまり意味がないと言っているようでもあります。維新という政党にとって,知事や市長のポストというのは,政党としての政策実現を果たすためのリソースに過ぎず,候補者個人にとってどういう意味を持つかということはあまり注目されていない。これは「政党がなじまない」と言われ続けてきた日本の地方政治にとってすごく大きな出来事だと思うんですよね。その背景には,私がこれまでいろいろ書いてきたように,大阪府市というのが日本の地方政治の中で特別に小選挙区「っぽい」選挙制度になっているということもありますし,善教さんが書いているように維新が採ってきた政党中心の戦略が定着しているということもあると思いますが*2

この間の動きが脱法的と批判を受けてる理由のひとつは,地方政治をめぐる議論がこういう「政党としての動き」に慣れていないことにもあるように思います。知事・市長が極めて強い自律性と個性を持つ存在であるべき,という見方からすればそういう入れ替えは受け入れられないでしょう。しかし,個人よりも組織としての決定が重要な政党から見れば,まあ知事と市長を入れ替えてもあんま変わらんし何が問題かわからん,という感覚はありうると思います。もしそれがダメだというなら,あらかじめ政党としての行動を念頭においてダメだという規制をしておくべきだと思いますが,そもそも私たちの地方政治ではその辺をほとんど考えてこなかったんじゃないか,と感じるところです。そういったことを考え合わせると,政党としての維新に,政党になり切れない連合が政党っぽく戦うというのはまあ非常に厳しい話になるわけで,結局個人に焦点を合わせようとするように思います。まあ今後の報道の展開などにも左右されるのでしょうし,予測は仕事の外ですが,それなりに求心力のある政党に対して個人で戦うには,ある程度のストーリーがないと大変だろうなあという気がします。 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 
民主主義の条件

民主主義の条件

 
18歳からの民主主義 (岩波新書)

18歳からの民主主義 (岩波新書)

 

*1:明確にダメだとされていることについて検討するとしたのが某「専決処分」でしたが,これは結局やっていません。この点については当然ながら正しい判断だったと思います。

*2:どうでもいい余談ですが,だからあの本のタイトルを『地方政党の誕生』にしたらどうかと言ったんですが一蹴されました。全く正しい判断だと思いますがw

『社会科学と因果分析』メモ

佐藤俊樹先生の『社会科学と因果分析』を読んだ。ところどころ昔を思いつつクスっとしてしまうところがあったが,概念の歴史をたどるところとか慣れてなくて難しかったので,全体的にはクスっとするどころではなかった…。因果推論の話を知っていれば5章はわかりやすいので,4章くらいまで一回ざっと読んで読み直すのが吉のような気がする。自分がそうしただけだけど。

本書で佐藤先生が主張されているように,(1)社会に関わる因果のしくみを解明し,(2)それを他人に伝える営みが社会科学であるというのは(これだけ書くと当たり前のように見えるけど)本当にその通りだと思う。形式が保たれていないと理解できないし,伝わらなければ意味がない。そして社会科学をそのようなものとして捉えたとき,量と質の差というのは本質的なものではなく,いずれについても適合的/確率的に因果関係を議論することができる。質的な事例研究であっても,前提となる法則論的知識を手掛かりに因果的な議論を行うことができるし,また前提となる法則論的知識を磨くためにも非常に重要だと。

完全に同意だし,(少なくとも)個人的には事例研究などもそうやって議論しているつもりなので,違和感がない。ただ二つほど自分自身気になっているのでメモ。まずは少数事例から因果関係を議論していくために必要な法則論的知識をどうとらえるか。何が法則論的知識なのかというのは言うまでもなくそれぞれの研究の文脈から決まるんだと思うけど,ウェーバーの時代はともかく,現在のように専門分化が進んだ(本書の言葉で言えば「閉じた」)世界で法則論的知識を共有するというのはどのくらい現実的なんだろうかと。それこそウェーバーの議論自体,佐藤先生が論じるように,なんかちょっとずれた形で閉じて共有されてきたわけだし。まあそこは「開いて」いこうというマニフェストなんだろうという気はするけど,しかしそもそもそれが開くのが難しいことが,本書で批判する量/質あるいは因果/意味みたいな対立になってる気がする。これはまああんま本書に内在的な話でもないけど*1

本書の話での疑問は,「法則科学どこいっちゃったの?」と感じた。もともと法則科学/文化科学という対立について議論されていて,たまに「必然的」みたいな語句が出てくるんだけど(214-215頁),社会科学が追うべき因果関係がウェーバーのいう確率を考えた適合的因果だっていうことに収れんし始めてからは法則科学の位置づけがよくわからなくなった。一応索引使って「法則科学」を追ってはみたものの,僕の能力では最終的にどういう位置づけが与えられたのかはいまいちわからない。結局確率的なものを考えるんだから法則科学/文化科学を分けること自体意味ないことであるという理解だとすればわからんではないんだけど(そうは言ってないと思う),「質」を強調する研究に対する議論としては,一回の個別的因果,「文化科学」的な理解を問題にするだけじゃなくて法則科学的なスタンスを取る研究も考えないといけないんじゃないかと。

というのは,(一事例研究ではない)ラディカルな質的研究者って非常に決定論的な理解をする(していた)ところがあるわけで,あれはあれで法則定立を考えているように思う。QCAにしても,ファジーセットみたいな話は微妙な重回帰だと批判されるのはその通りかなと思うけど,ハードボイルドに二値のクリスプセットでやれば,まあ全域的な因果関係みたいなのは議論できないとしても,局所的に法則が成り立ってますみたいな言明はやろうと思えばできて,そっちの側からの批判もあるんじゃないかなあ,と。と書きながら思ったけど,実際ファジーセットとかに流れるようになっているのは,もはやそういうプロジェクトがきつくて成り立たないのを受けているのかもしれない。よく知らないけど自然科学の方でも「必然的」な法則というのは成り立たないという理解が一般的になっているのかもしれない*2。で,結局法則科学/文化科学を分けることに意味がないからその辺の話も要らない,ってことになっているのかもしれないけど,個人的には気になったところ。

 

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

 
Analytic Narratives (Princeton Paperbacks)

Analytic Narratives (Princeton Paperbacks)

 

 

*1:法則論的知識については,それを持ち出しつつ興味がある変数と結果の関係を議論することが(結果がわかってるので)循環論的になりやすいというAnalytic narrativeに対する批判と同じような批判がありうると思ったけど,こちらについては本の中でも議論されていたと思う。最終的に理解/同意できてるかは検討中

*2:けどこれはどうなんだろう。化学反応とか「必ず」起きるものもありそうな気はするけど。

『維新支持の分析』ほか

関西学院大学の善教将大先生から『維新支持の分析』を頂きました。どうもありがとうございます。先週,山下ゆさんのブログでバズってましたが,本当にいい本だと思います。私の著書や論文もいろいろと引用していただいて感謝するところです。

内容は,まあ山下ゆさんが上手にご紹介されている通りですが,大阪維新が国政ではそんなに支持されない一方で地方(大阪)では強く支持されてきたこと,そしてそれにもかかわらず2015年の住民投票で敗れたことについて説得的な説明を与えているものだと思います。そのポイントはやはり両方を一緒に扱っていることでしょう。住民投票の直後にその結果をシルバーデモクラシーとか地域格差とかそういうもので説明しようとする話は色々ありましたが,まあ非常に僅差なのでそんなざっくりとした説明ではなかなか有効になりえないわけです。それに対して本書では維新が(国政とは違って)地方で継続的に支持を受けてきたことを前提に,その支持との差に注目しながら住民投票を説明しようとしていることで有効な説明ができているように思います。結局有権者は,維新/橋下氏であれば何でも支持する,というような行動をしているわけではなく,既存政党と比較しつつ維新の方を選択しているわけで,都構想の住民投票という機会を与えられれば再検討して反対することも十分にあるんだ,と。もちろん,こうやって複数の証拠を組み合わせて厚みのある議論ができるのは,論文ではなくブックレングスの研究のいいところ,というのもあるように思います。

本書を読んでほんとにすごいなー(小並感)と思ったことはいくつもあります。舞台裏みたいな話ですが,私は本書の出版前に読ませていただいてコメントしてるのですが,そこからすごく内容が変わって充実してるんですよね。一次的な原稿ができてから入稿するまで一年以上あったと思いますが,その時間を使って見直すにしても,細部にわたって徹底的に再検討するというのはなかなかできることではありません(だって前の自分を批判するの大変だし)。次に,その成果でもあると思うのですが,本書では表が出てこなくてすべて視覚的にわかりやすいグラフを使っています。一枚一枚の表はたぶんすごい時間かかってるんだろうなあと感じさせるものも多く,読者に取って読みやすいように細部まで検討されていることがよくわかります。そして最も重要なことは,巷に流れる耳当たりのよさそうな説・議論を誠実に,しかし徹底的に検証しているってことです。ああいうの,私自身もそれは違うやろ,と思うことは少なくないですが,だいたい検証を考えていない印象を論じているわけで,それを批判するためには(批判する側が)検証の方法をきちんと考えてあげたうえで証拠を集めて批判しないといけないので非常に大変です。しかも,そうやって批判しても,「いやその検証方法は違う」とかなんとか言われる可能性もないわけじゃない。だからめんどくさいなあと思いながら流してしまうということは往々にして生じるわけですが,それをまとまったかたちで批判して,読者の判断に委ねる材料を提供するというのは本当に大変なことです。

維新が大阪に様々に存在する個別利益の代表ではなく,大阪全体の代表者としてふるまっているからこそ支持を受けているのではないか,というのはまさに私自身も主張してきたことでもありますが,それをサーベイを使いながら実証的に示されているのは本当にすごいなあと思います。この点に限らず,やや曖昧なかたちで論じてきたことが丁寧に言語化され,検証されていくのは,個人的には非常に爽快でありかつ羨ましくも思う読書体験でもありました。ただ(褒めてばっかりでも悔しいので)一点だけ引っかかったのは,「有権者の合理性」のところですかね。本書ではさまざまなかたちでエコロジカル・ファラシーへの批判もあるわけですが,なんかときおり「大阪市民の集合的合理性」のようなものが見え隠れしてないかな,と。都構想を否決したことが合理的かどうかということを判断するのは簡単ではないし(私自身,都構想については論じるに値することでありつつも,2015年の提案について賛成か反対かと言われれば反対,としてきましたが),何より最終的に可決か否決かというのがどっちに転んだかというのは非常に微妙なところなわけです。維新の提案なら何でも賛成する熱狂的な支持者もいたでしょうし,逆に何でも反対する熱狂的な(?)反対者もまた存在し,さらにはなるべくいろんな情報を集めて判断しようとする有権者もいたでしょう。確かに2015年の住民投票では,最後のなるべくいろんな情報を集めて判断しようとする有権者の動向がカギになった,というのはまさに同意ですが,いつでもどこでも同じようになるかはよくわからない。よくわかんないんですが,大阪の場合には,熱狂的な支持/不支持,そして情報を集めて維新支持/都構想反対,という選択を取った有権者の量的なバランスが「絶妙」だったんだろうな,とは思います。で,その結果としてこういう興味深い研究が生まれた,ともいえるかもしれません。 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 

 この間いろいろいただきつつなかなか消化できていませんが,拓殖大学の浅野正彦先生と高知工科大学の矢内勇生先生からいただいた『Rによる計量政治学』をご紹介したいと思います。お二人は以前に『Stataによる計量政治学』を出版されていますが,両著とも政治学におけるリサーチデザインの考え方から説き起こし,計量ソフトの使い方を超えた非常に素晴らしい教科書だと思います。上でご紹介した善教さんもRで分析をしたり描画をしたりされているようですが,Rによる計量政治分析を学習するに当たって長く読まれる教科書になるでしょう。私自身,大学でごく初歩の政治データ分析の授業を担当していて,今年はエクセルで説明をしていったのですが,来年度はこの教科書を使いながらRでの分析・説明をしていきたいと考えています。 

Rによる計量政治学

Rによる計量政治学

 
Stataによる計量政治学

Stataによる計量政治学