経済教室への補足

7月2日付けの日本経済新聞・経済教室に『参院選で何を問うのか(下)将来を巡る対立軸 意識せよ』というコラムを寄稿しました。選挙前の記事という「ナマモノ」で,本来そういうのを書く能力に乏しいのですが,せっかくのお話なのでチャレンジしてみました。普段の地方政治や住宅などに関するコラムの場合には論文・本で言ってることをベースに書いてると思うのですが,今回は『二つの政権交代』以来細々と続けている研究がベースで,たまたま同じ日経新聞2年前の経済教室最近の記事*1でのアイディアを発展させて書いているような感じです。

まあ前半の参議院選挙制度がもたらす個人投票の話や各政党のマニフェストの話はいいのですが,後半の生活保障-社会的投資の軸については,2年前の経済教室でも取り上げたHausermannさんらの研究をもとにしています。最近のヨーロッパの福祉国家研究の成果ということで,現在大学院のゼミでも勉強しているThe Politics of Advanced Capitalismの議論――潜在的な支持層というのは,基本的にこの本のアイディアですね――と寄稿しているような人々,特にJane Gingrichさんの研究に依拠する感じで整理してみたつもりです。論文を一本紹介するなら,

Gingrich, Jane, and Silja Häusermann, 2015, “The Decline of the Working-class Vote, the Reconfiguration of the Welfare Support Coalition and Consequences for the Welfare State,” Journal of European Social Policy, 25(1): 50-75.

ですかね。前にもツイッターで触れたことがありますが。また,社会的投資については,最近同じ経済教室での田中拓道先生のコラムが出ていたほか,現在日本で精力的に研究されている濵田江里子先生のコラムがちょうど昨日発表されていました。後者についてはヨーロッパで論じられている社会的投資を超えて,「社会への投資」を,という意欲的なものだと思いました。

The Politics of Advanced Capitalism

The Politics of Advanced Capitalism

 

コラムの中ではあんまり細かく触れることができなかったのですが,従来の左派-右派という軸が,日本で護憲-改憲という軸と重なってくるのと同じように,新しい生活保障-社会的投資という軸は,これもヨーロッパで論じられているGAL(green-Alternative-Libertarian)vs TAN(Traditional-Authoritarian-Nationalist)軸とも重なってくるように思います。GAL-TANの方はきちんと研究を進めているというわけでもないのであくまでも印象論ですが。これはいわゆる左右でのポピュリズムみたいなものとも絡めて議論されることがあるようですので,ここから日本におけるポピュリズムの位置づけ,みたいなものを考えることもできるのかもしれません。

最後のところ,財源はともかく一度社会的投資の分政府を大きくしてみるという論が立たないか,ということを書いています。これは財政赤字が深刻な中で非常に書きにくい話ではありますが,投資によって将来のリターンを得るという考え方とセットであれば議論の余地が広がるのではないか,ということです。もちろんこの手の賢い支出Wise spendingについてはずっと主張されつつも政治過程でのゆがみが入るために難しいということはしばしば指摘されています。しかし政党の主張として,政治過程における個々の政党の思惑を統制して賢い支出をするんだ,という議論自体はできるんじゃないかなと。

蛇足ですが,経済政策については専門外で,もう20年くらいこのよくわからん議論の観客をしているだけでしたが,それでも最後に触れてみたのは,最近のリチャード・クーさんの『「追われる国」の経済学』を読んでいると改めて示唆されるところが多かったからというように思います。本質的には彼が言ってることは20年前と変わってるわけではなくて,長年の一観客としてはRichard Koo is baaack! という感じを受けたのですが*2,そこで示されている理論的展開は政治学者としても非常に興味深いものでした。追う国と追われる国という「質的な違い」が経済政策の違いをもたらす,というような議論は,今の経済学ではなかなか受容されないような気がしますが,特に質的な変数に興味がある政治学者としては裨益するところが少なくないと思います。直接論文に利用することができるのかはよくわかりませんが…。

*1:こちらは関連記事をまとめたものを本として出版されるそうです。

令和につなぐ 平成の30年

令和につなぐ 平成の30年

 

 

*2:個人的には,最近のMMTの議論とリチャード・クーさんがどう絡むんだろうということにもやや興味があったのですが,現在のところ絡んでいる様子は全くないような感じでした。観客の感想としては,支出先についての関心が違うということなのかなあ,というところでしたが。この辺の話はやはり昨日発表されていた元日銀理事の早川英男氏のコラムにもあってなかなか興味深いところです。

(行政)組織の実証研究

主観的には仕事をしてるつもりでも,何かやってもやっても終わらない感じになっていて,そのために頂いた本の紹介も滞ってるんですが久しぶりに。

もうずいぶん前になってしまいましたが,首都大学の伊藤正次先生はじめ著者の先生方から『多機関連携の行政学』を頂いておりました。どうもありがとうございます。本書では,しばしば伝統的な行政学で強調されがちな行政機関の一元系統化,つまり組織の担当と責任を明確にして二重行政が発生しないような状況を作り出すことではなく,行政における「冗長性」redundancyの意義を強調する研究となっています。日本的な感覚だと複数の担当者の「調整」が大事だよねー,というのはあるわけですが,いわゆるNPMの世界でも機関間の競争が積極的に評価されることにもなります(責任を持つ機関が1つだけだと競争が起きずモラルハザードが起こりうる)。その割に,日本では「二重行政」に対しては批判や嫌いという声一辺倒という感じで,その状況に一石を投じる研究ということにもなるのではないでしょうか。

具体的に対象としているのは児童虐待防止,児童発達支援,少年非行防止,公共図書館,労働基準監督,消費者保護,就労支援,地域包括ケアシステム,といった分野です。とりあえず見えてきた傾向としては,海外の先行研究では行政機関で働く「人」の要素が注目されるようですが,本書の分析結果によれば日本では関係機関間の連携を規律する「制度」や会議体という「場」の果たす役割が大きい可能性があると論じられています。もちろん今後の研究が必要,ということになるわけですが,発展がとても期待できる分野なのではないかと思います。 

多機関連携の行政学 -- 事例研究によるアプローチ

多機関連携の行政学 -- 事例研究によるアプローチ

 

 東北大学の青木栄一先生はじめ著者のみなさまから『文部科学省の解剖』を頂きました。どうもありがとうございます。本書では,幹部に対するサーベイ調査の結果を軸としながら,省内に地方自治体も含めた他の機関との人事的な関係,そして庁舎の配席図などもデータとして使いながら文部科学省について検証がされています。もちろん,文部科学省だけのサーベイではわからないことも多いわけですが,分析から明らかになった傾向としては,「国益に基づく判断が可能であると考え,効率性や政策評価に対して消極的であることや,関係団体やいわゆる族議員との関係は良好だが,官邸との距離は遠く,財務省との対立が深いといった姿」(2章要旨)が浮かび上がります。官邸との距離の遠さは5章でも描かれていますし,全体として普及しているイメージに近いような気がしますが,回答に技官が多いことや局長級の回答が少ないことなどでこのような姿がもたらされている可能性もあるという留保がされています。

その他,地方自治体をパートナーというより規制対象と捉えがち(3章),政策面では他府省との関係で消極的・内向的であるものの人事的には一定の自律性を持つ(4章),文部系と科技系の分立的な状況が続いている(6章・8章),旧科技庁の機能が総合調整から「司令塔」へと性格を変えつつ予算を増やしている(7章),といったところでしょうか。近年,政策過程の研究はともかく,個々の行政組織の研究が少なくなっているところがあり,それは一般的・理論的な意義を見出すのが難しいということと関係しているとは思います。他方で2000年初頭の省庁再編の成果を検証して次に生かすという時期でもあるはずで,難しいとしてもこういう研究が積み重ねられていくことは重要であるように思います。 

文部科学省の解剖

文部科学省の解剖

 

 もうひとつ,関西大学の坂本治也先生から共編された『現代日本市民社会』を頂いておりました。どうもありがとうございます。このタイトルの書籍が「組織の実証研究」として紹介されることに違和感を持つという方もいるかもしれません。しかし,坂本先生が以前編者として出版された『市民社会論』でもそういう傾向があり,この本ではさらに強調される形になっていると思いますが,政府や企業と異なる社会における組織-具体的にはNPO法人であり公益法人・一般法人,協同組合,学校法人など-を検証・分析することで,日本の市民社会について論じられています。データとして,経済産業研究所が4回にわたって行ってきた「サードセクター調査」の結果が利用されていて,様々な研究者による興味深い知見が提出されています。

日本のこの手の組織というと,従来の公益法人が,主務官庁の規制のもとに官庁の延長として仕事を行う,といったことがイメージされやすいと思います。本書では一方でそのような「主務官庁制下の非営利法人」を分析しつつ,近年存在感を増している「脱主務官庁制の非営利法人」,そしてもうひとつ伝統的な「各種協同組合」に類型化して,属性や人的資源,財政状況,政治・行政との関係,持続と変容などを分析しています(第1部)。そのうえで,歴史的な観点から非営利法人を分析する2つの章を挟んで,それぞれの関心からデータ分析を行う章が続く構成になっています。

市民社会」と言えばどちらかというと「市民参加」,ひいてはボランティアや無償の奉仕みたいなこととすぐに結び付けられやすいように思いますが,前著と同様に「組織」に注目して議論するのは「市民参加」の方にやや偏りがちな印象もある日本の市民社会論でとても重要な貢献のように思います。個人的にも,一般法人や公益法人というちょっと捉えどころのない組織のガバナンスに興味を持っているところがあり,興味深く拝読しました。ちょうど最近この分野の古典的な著作であるThe Ownership of Enterpriseが翻訳されたこともありますし,改めて市民社会セクターにおける組織についての関心が高まるとよいのですが。 

現代日本の市民社会: サードセクター調査による実証分析

現代日本の市民社会: サードセクター調査による実証分析

 
企業所有論:組織の所有アプローチ

企業所有論:組織の所有アプローチ

 

専門家・専門知識

東京大学の若林悠先生に『日本気象行政史の研究』を頂きました。どうもありがとうございます。本書は,気象行政というややマイナーな領域を対象としつつ,その領域において官僚制がどのようにその専門性を発展させていったのかについて非常に刺激的な議論をしているものです。重要なのは社会における「専門性」の評価であるところの「評判」で,「専門性」と「評判」はまあ先行研究でもしばしば結び付けられる話ですが,それを考えるにあたって「エキスパート・ジャッジメント」と「機械的客観性」という聞きなれない言葉が本書の鍵概念となっています。前者は専門家としての(優れた)判断であり,後者は専門家であればいわば誰がやっても同じ結論を出すという判断,ということになるかなと。気象行政における官僚制は,もともと他にいない専門家としての「エキスパート・ジャッジメント」を社会に評価される(=評判を高める)ということを重視してきたものが*1第二次世界大戦後の気象行政の再構築の中で防災官庁としての意義を強調し「機械的客観性」を重視するようになってきた,と。しかし,1980年代ころから天気予報解説などに関わる民間の気象会社が存在感を増している中で,それとの競争のなかでの「エキスパート・ジャッジメント」を意識するかたちになっている,という感じでしょうか。 

このような議論を行うときに,気象行政というのはとてもうまい題材だったと思います。その一方で,他の分野についてはどうなんだろう,という感じもありました。普通の「専門性」といえば,まあ伝統的には技官ですし,最近であれば本書で最後にちょっと触れられている経済学者みたいなものも入ると思いますが,そういうものの場合,官庁が独占的に「専門性」を保持していたり,まあその言いかえですが,官庁の外部よりも優れた「エキスパート・ジャッジメント」ができるということはやや考えにくいのではないか,という気がするところです。多くの「専門性」が出てくる領域では,官庁の外に養成機関や試験などがあって,必ずしもその中のベスト&ブライテストが官庁に入ってくるとも言えないわけで(まあ日本はそれでも比較的優秀層が入ってたんでしょうが)。
そういう前提のもとで,「専門性」をもった領域が必ずしも自律的であるというわけではなくて,その領域の中に存在する行政組織の内と外に強い境界がある,という問題が出てくるんだと思います。専門家が行政組織で働いているというのではなくて,行政組織で働く人を専門家と呼ぶ,みたいな。日本の官庁の場合,ふつうに「エキスパート・ジャッジメント」で戦うと民間(というか官庁組織の外)に負ける可能性が低くない中で,官庁が情報を独占することによって別の土俵で競争することにしていたようなところがあるのではないか,という印象があります。気象庁の場合にはウェザーニュースに「指導」できたりするわけですが,それはやや特殊なところがあるのではないか,と。とはいえ,その特殊性自体は本書の中でも認識されているように思いましたし,うまく浮彫にされているとは思いましたが。

今後という意味では,民間の気象会社が衛星を打ち上げたりして情報を独自に獲得するようになるでしょうから,そのときにどうなるかというのが論点かもしれません。ただ個人的にはそれに加えて「防災官庁」としての行く末が気になるところです。正直,本書を拝読するまでは気象庁が「防災官庁」であるという意識はあまりなかったのですが,確かに防災においては重要な役割を果たすと思います。現在防災(復興)庁も含めていろいろ議論が出ているわけで,その中で気象庁はどういう位置に置かれるんだろうか。

日本気象行政史の研究: 天気予報における官僚制と社会

日本気象行政史の研究: 天気予報における官僚制と社会

 

もうひとつ,アジア・パシフィック・イニシアティブの船橋洋一先生から『シンクタンクとは何か』を頂きました。どうもありがとうございます。アメリカを中心とした他のシンクタンクとの比較を踏まえつつ,ご自身がシンクタンクを立ち上げるという経験をされている中で考えられたことを中心にシンクタンクについて論じられています。海外のシンクタンク事情については知らないことばかりですし,何より登場するシンクタンクの人々が活き活きと描かれているのを非常に面白く読みました。

本書で扱われているのは,基本的に社会科学系の「専門性」に依拠したシンクタンクで,そこで重要になってるのはまさに「評判」なんですよね。若林先生の分析枠組みを借りると,経済学については自然科学っぽいところもあるかもしれませんが,政策アナリストや特に国際政治に関するシンクタンクの場合は「機械的客観性」を担保するのはほとんどムリなわけですから,そこで重要になってくるのは「エキスパート・ジャッジメント」ということになってくると思います。シンクタンクにとっては他より優れた「エキスパート・ジャッジメント」ができるといったような評判を作ることが組織を維持するのに大事になるわけで,それをめぐる競争というのを垣間見ることができます。

本書では基本的にシンクタンクの方に焦点を当ててるわけですが,やはり若林先生の本を踏まえて考えてみると,そういうシンクタンク間の競争が重要だというときに,官僚組織はどういう役割を果たすんだろうというのも気になるところです。官僚組織にしかない情報やデータというのがあって,(もちろんシンクタンクが独自に情報を取るとしても)それがシンクタンクにとっても死活的に重要になってくるのだと思うのですが,官僚組織としても競争相手なので喜んでディスクローズしたいってわけでもないと思うんですよねえ。「回転ドア」という労働市場を通じてつながってるからこそ情報の流通が起きるのかもしれませんが…と,読んでるときはあんまり考えてませんでしたが,二冊一緒に読むとより面白いかもしれません。 

*1:まあ結局軍部との「エキスパート・ジャッジメント」の競合があってうまくいかないという話になるわけですが。

地方自治研究3冊

東洋大学の箕輪允智先生から『経時と堆積の自治』を頂きました。どうもありがとうございます。博士論文をもとにした出版で,旧新潟三区の三条市柏崎市栃尾市加茂市を対象に,詳細な自治体の歴史を描くことで,それぞれの地域での「自治」のあり方がいかに形成されてきたか,ということを分析しようとするものです。私なんかもそうですが,近年の地方自治研究では,一般的に妥当する理論を検証することを念頭に置きつつ,自治体そのものの個性を重視するというよりは,何らかの変数で特徴づけられた存在として認識することが多くなっています。それに対して,本書は都市ガバナンスの先行研究をふまえた上で,個々の自治体がそれぞれに歴史と文脈をもって「自治」を作り出してきたことを論じようとしています。それぞれの自治体がもつ地理的環境や人的資源,組織・伝統的資源などの影響を受けながら自治体の来し方行く末が決まっていくと。

本書を通じてわかることのひとつは,全ての自治体を一般的に捉えるということはまあある種のフィクションであって,それぞれの自治体が固有の歴史を持ち,経路依存を前提に意思決定をしているんだ,ということでもあります。まあ私なんかはそういう研究してるわけですが,一定の仮定を前提に自治体の一般的な行動や決定について分析していることを忘れてはいけないということでしょう。本書でも,一般的な理論・仮説の妥当性を検証するような研究を否定しているわけではなく,自治体の個性が重視される時代にはその個性の源泉である歴史や文脈について確認する視点が必要になることを強調しているわけです。もちろん,原発立地自治体で様々な研究の対象になっている柏崎市をはじめそれぞれの自治体の多様性の「特異的な因果関係」について教えてくれる著作ではありますが,バランスを保ちつつ他の視点に学ぶ姿勢が大事,ということを改めて示すものとしても読めるように思います。

経時と堆積の自治――新潟県中越地方の自治体ガバナンス分析

経時と堆積の自治――新潟県中越地方の自治体ガバナンス分析

 

大阪市立大学の阿部昌樹先生から『自治基本条例』を頂きました。どうもありがとうございます。元同僚ですが私は前からのファンの一人で,『ローカルな法秩序』『争訟化する地方自治』ともに本当に好きな著作です。その阿部先生が自治基本条例について研究をされているのは知っていて,本書の出版をとても楽しみに待っておりました。本書はおそらく初めて自治基本条例を体系的・実証的に分析したもので,この「自治体の憲法」と呼ばれる(呼ばれたがる?)条例が自治体において住民が相互に結びついているような感覚,「集合的アイデンティティ」の構築に関わるという議論は非常に説得的だと思います。自治基本条例の歴史的な経緯を説明するだけではなく,調査時点での全条例を用いた計量テキスト分析,米原市で行われた住民アンケート調査を利用した二次分析,阿部先生ご自身による自治体担当部局を対象としたアンケート分析を用いて実態への接近が図られていて,政治学行政学への貢献も非常に大きいと思いました*1

実は私も大学院生のときにある市で制定された自治基本条例の初期段階に関わっており(まあ引っ越しでそこからは離れてしまいましたが),また就職してからもいくつかの自治体でこの条例の評価・チェックに携わる審議会等のお手伝いをさせていただいたので懐かしく読んだところもあります。本書では,社会運動論のレビューなども踏まえた議論がなされていますが,まさに「運動」のようなところもあり,また一度「制度」として出来上がったものをどうやって運用するかというのが重要な論点にもなります。本書でも,自治基本条例を根拠として住民が行政に提案・要求を行うというような可能性,そしてそれが「集合的アイデンティティ」を作り出していくのではないか,という可能性についても論じられていますが,以前「運動」の中で自分もそんなことを漠然と思ったことがあるなあ,と懐かしい気分になりました。 

なかでも,阿部先生が独自に集められたアンケートデータを利用した「インパクト」の分析をされた5章を興味深く読みました。主要な論点のひとつとして,自治基本条例が制定されてからの時間がたつことが住民や職員の行動を変えた可能性について論じられています。ただ,それで満足するのではなく,探索的に色々な分析を行うことで,単に時間が経過しているだけでなく,何かの試みをしていること時間との交差項が効果を持つ可能性があることを論じられているのは個人的には説得的でした。結構独立変数間の相関があるのである程度整理してもよいのかなあとは思いましたが,そういう相関を踏まえつつ推定結果を「読む」というのは,技術的にとても優れている研究者でも簡単ではないことで(なんていう僕は全然だめですが),そういう点も大変参考になると思いました。 

 最後に,京都大学の曽我謙悟先生から『日本の地方政府』を頂きました。ありがとうございます。何というか,この構成や展開はすごいですね。読んでいる文献も相当程度重なっていて,議論のもとになる理論を共有しているわけですから,ほとんど違和感なくすぐに読んでしまったのですが,そもそもこういうかたちで議論を組み立てる俯瞰的な目線が本当にすごいと思います。20年くらい前から曽我先生がリードしてきた研究が,20年後に回収されるとこんな感じになるんだ,という感慨を持ちつつ読んだところもあります。まあ教科書とは違うわけですが,地方の研究する多くの若い人が初めの方で読む一冊になるでしょうし,かなり長く地方政治研究を規定するものになるような気がします。その意味でも上の箕輪さんのような観点も改めて重要になると思いますが。

統一的な視点から極めて見通しよく「日本の地方政府」について整理し,問題を析出されているわけですから,本書は改めて自分の研究を見直すときにも非常に有益になります。私の場合,本書の5章(中央政府との関係)のところから研究を始めて,1章(首長と議会)と3章(地域社会と経済)に大きく関連するところで著作を書き,次の本は2章(行政と住民)と4章(地方政府間の関係)に絡むところかな,と感じつつ,関連文献を見直そうか,などと思いました。また,最近他の仕事との関係で,2章の行政改革の部分の実証的な研究が実は少ないんだろうな,という印象も受けていて,このあたりについて掘り下げることもできるかな,という感じもします。もちろん,新しい研究の助けになるだけでなく,析出された問題についての議論を呼ぶものにもなるでしょうから,そのためにも広く読まれることを願いたいと思います。

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

 

*1:阿部先生のご専門は法社会学なので/政治学者・行政学者と一緒に仕事されることも多いですが。

番号を創る権力

東京大学の羅芝賢先生から,『番号を創る権力-日本における番号制度の成立と展開』を頂きました。どうもありがとうございます。最近,私自身がマイナンバーのような番号制度に関心を持っていることもあり,本当に面白く読ませていただきました。これは番号制度や電子政府はもちろん,広く社会保障行政改革に興味を持っている人必読といっていいんじゃないですかね。

本書を通じて勉強になることばかりでしたが,特に日本における医療や年金,運転免許の番号の発展を分析した1章の3節には感銘を受けました。それぞれの分野において一定の統合が図られる契機があり,それには事務の膨張や行政の電子化が関わっている,という議論です。私自身,番号制度に関心を持つ中で,これらの番号についても考えることがありましたが,本書で批判されているような,分散的な性格を過度に強調するような発想があったことを否定できません。ただ他方で,それぞれの政策分野が自律的に発展していく傾向にあるのではないかとは感じており,その点については本書の議論とパラレルな部分があるような気がします。

他の章についても,重要な示唆がたくさんありました。2章では革新自治体の台頭と番号制度導入の失敗というのはなるほどと思いました。しばしば労働組合が電子化に抵抗する,という話があるわけですが,電子化の初期の時点と革新自治体の隆盛の時期が重なっていて,しかも議会に対して劣勢に立ちがちで住民へのアピールを考える革新市長が「プライバシー保護」を強調しようとするのは納得できます。さらに,3章は日本において本来もっと研究が進んでいるべき電子政府化の歴史についての重要な貢献になっています。電子政府化というのは重要なテーマでありつつ,なかなか切り口が難しいような印象を持っていましたが,本書のような形で整理されて番号制度とリンクされたのは慧眼だと思います。よく考えれば,管理のために電子ファイルを作る時点でどうやっても付番されるわけですから,電子政府と番号というのは切っても切れないものになるわけですし。

さらに,4章・5章について,本書の主要なメッセージである,「本人確認が極めて権力的・暴力的な営みである」ということにもついても考えさせられました。日本のマイナンバーは,結局のところそのような暴力的な営みを可能な限り回避しようとしている結果として,全く使えないもの,あるいは統合どころか単に制度を追加しただけのものになっているのかもしれません。これは今後の番号制度を考えるうえでも非常に示唆的で,日本のような国家においてはこれから統一的な番号を付与するのが難しいということなのだと思います。結局のところ年金番号のようなものを追加していった方がよいのではないかと。他方で,小選挙区制の導入以降の多くの政党が掲げる普遍主義的な方針が貫徹すれば(ある面でスウェーデンのように)強い本人確認の制度もありうるのかもしれない,と思うところもあります。もちろんそれは本書の結論で指摘されるように,福祉国家を縮退させかねないものでもあるわけですが。また,日本においても外国出身の方が増えている中で,強い本人確認の制度については慎重に検討されるべき事項なのは間違いないでしょう。 

番号を創る権力: 日本における番号制度の成立と展開

番号を創る権力: 日本における番号制度の成立と展開

 

 

行政組織の改革

金沢大学の河合晃一先生から『政治権力と行政組織』を頂きました。どうもありがとうございます。行政組織の変更を行うときに,新しい組織が政府から独立性の高い組織になるかどうかというのはいつも議論されるところです。よく出てくるのは,新しい組織を合議制の委員会として作るか,独任制の省庁として作るか,というような話で,理論的な予想としては前者の方が独立性が高くなると考えられます。さらにはその委員会を内閣に置くか省庁の一つと同格にしとくか,人事院会計検査院(さらには裁判所!)のように格別の独立性を与えるか,ということは大きな論点になります。

本書はこのような行政組織の新設・変更について,政権党が野党と合意するときに必要な「コンセンサス・コスト」が重要なんだ,という説明を行おうとするものです。一般に独立性が高い組織を作ろうとすると,その組織が政権の言うことに従わないかもしれないことでエイジェンシー・コストが生じると考えられます。アメリカの行政組織の研究だと,そのエイジェンシー・コストを低くするために新たな組織を強く縛ったり,独立性を低くさせたりすると立法コストやコミットメント・コストがかかることが論じられています。それに対してこの研究では野党との合意にかかるコストこそが重要なんだ,ということが仮説で,政権はなるべく独立性の低い組織を作りたいけども,コンセンサス・コストが高まれば(仕方ないので)多少なりとも独立性の高い組織を作る,ということが予想されます。それを金融監督庁・金融再生委員会,消費者庁,復興庁で検証しようとしています。

コミットメント・コストの説明って,自分でも授業でしたりするわけですが,「ほんとかな」と思うこともあるわけで,確かに本書で批判的に論じられるように,アメリカ特殊的な発想のような気もします。他方,「コンセンサス・コスト」の方も立法コスト都の違いをどう議論するか,というのはもうちょい議論の余地もあるような気がします。あと,出てくる事例は確かに興味深いのですが,これ全部内閣府の内側の話なので,内閣の外の省庁に関するような事例,具体的に言えば防衛庁の省「昇格」や東日本大震災後の原子力規制委員会の設置なんかも視野に入ってもよかったのかも,と思うところではありました。うまくやれば日銀の同意人事なんかも説明できたりするのかもしれませんし。 

政治権力と行政組織: 中央省庁の日本型制度設計

政治権力と行政組織: 中央省庁の日本型制度設計

 

 河合先生からはもう一冊,他の著者のみなさんとともに『現代日本の公務員人事』を頂いております。本書は稲継裕昭先生の還暦記念で編まれたというもので,各章では最近の公務員制度改革の効果や,人事慣行の変化について論じられています。ちょうど行政学の授業で人事関係のところをアップデートしたいと思っていたのでぜひ参考にさせていただきたいと…。個人的には,(授業で時間的に地方の話をできるのかよくわかりませんが)地方自治体の新たな人事慣行について扱った6章(小野英一先生)と7章(大谷基道先生)は詳しく知らないところだったので,非常に興味深く読みました。 

現代日本の公務員人事――政治・行政改革は人事システムをどう変えたか

現代日本の公務員人事――政治・行政改革は人事システムをどう変えたか

 

 もう一冊,行政組織の改革に絡む研究として,山口大学の西山慶司先生から『公共サービスの外部化と「独立行政法人」制度』を頂きました。どうもありがとうございます。個人的にも最近エイジェンシー化や民営化を含む行政改革に少し関心を持っておりまして,勉強になります。

本書では,エイジェンシー化という問題が出てきた理論的背景,国際比較,そして日本的に受容した「独立行政法人」の制度設計と運用,その変化というかたちで論じられています。雑ぱくな感想ですが,日本の場合にはやはり初めに「減量」ということが強調されたことが非常に大きくて,その後の運用や変化においても何というか「減量」できるものだ,するべきものだ,として扱われているような気がします。省庁の側もある種人身御供的に「独立行政法人」を切り出しているところがあってその傾向が強まっているところもあるのでしょうが。

個人的には,(民営化を含めて)公共サービスの外部化・民間化を考えるときに重要になるのはディマンド・サイドの購買力をどのように設定するかということではないかと思っています。本書にあるように,特に最近のNPMの議論の文脈では「市場化」は限定的なものとして捉えられる傾向にあるように思いますが,しかしやはり重要なのは(疑似的なものでも)市場による評価であり,サービス提供者が「利益」を出すことが重要で,それができないときにサービスが不要であるという判断につながってくるのではないかなと。そのためにはサービスの買い手(政府自身も含めて)が非常に重要であることは間違いなく,また必要なサービスを購入できるだけの購買力をどうやって保障するか,ということが制度設計上重要だろうと考えるところです。ただ,日本の場合には「減量」が中心であり,そもそも利益なんてとんでもない,という発想が強いことが,この制度の運用を難しくしているようにも思います。 

公共サービスの外部化と「独立行政法人」制度 (ガバナンスと評価 6)
 

Dynasties and Democracy

Daniel Smithさんの著作,Dynasties and Democracy: The Inherited Incumbency Advantage in Japan の書評を依頼されて書きました。年度末〆切だったのに遅れてしまいご迷惑をおかけして本当に申し訳ないです…。相変わらず英語は下手でしょうがないのですが,最近は適当に日本語で書いたものを英語にするという技術を覚えて多少の省時間化を図ることができるようになってきた気が…(意味なくポジティブ)。それはともかく,本自体面白いものだと思うので,一部をご紹介したいと思います。

世襲」は日本政治ではしばしば観察されるもので,固有の文化によるものだと解説されることもあるわけですが,本書で著者は比較の視点から,世襲が日本における文化を反映しているものというよりも,選挙制度を中心とする政治制度の配置によって生み出されているものであることを明らかにしています。そのために,第二次大戦後の日本における国政選挙の候補者について,血縁の国会議員が存在したかどうかを含めた詳細なデータを集めるだけでなく(下のリンク),12の先進国について国政レベルの議員がDynasty出身かどうかについての膨大なデータを集めて検証が行われています。

dataverse.harvard.edu

本書の議論の特徴は,世襲候補者を求める需要側の要因と,世襲議員・候補者の側の供給側の要因を分けたうえで,それぞれについて様々な角度から検証していくことです。供給側の仮説として設定されるのは,長く選挙で勝利し続けた現職がその家族を自分の後に続く候補として送り出しやすくなるとか,Dynastyに所属する人が政治の世界に出やすいとか。他方需要側の仮説として設定されるのは,そもそも現職議員であることの選挙上の有利さを後継者に引き継ぐことができるかということである。さらに,システムレベル-個人投票重視の選挙制度かどうか,政党レベル-市民社会における組織との関係・候補者選定プロセスの性格,個人レベル-前任者の死亡といったことが具体的に世襲候補の擁立につながるという仮説になってます。読むまで知らなかったんですが,アイルランドでは日本以上に世襲が多くて,それがやっぱり個人投票を招くSTV(単記移譲式投票)とつながっているだろうというのは面白いところ。

比較分析を踏まえて,日本についての詳細な検討をしてるわけですが,SNTVからFPTPへと変更された選挙制度改革によって世襲候補に対する政党からの需要が大きく変わったことが論じられてます。まあこれ自体はそうだよねーという感じなわけですが,面白いのは供給側の方の変化で,本書によれば,選挙制度改革後は一般的に世襲候補が擁立されにくくなっているものの,一部強いDynastyの候補者は擁立される傾向があるということ。制度改革後の世襲が単に慣性によって決まるのではなく,明確な傾向を持って決められているとすれば面白いように思います。

更に関連して,個人的に最も面白かったのは,選挙制度改革後,一部の有力政治家のDynasty出身の政治家が昇進しやすくなっている,というところ。世襲議員が相対的に若い時期から政治の世界に参入できることから,単にシニョリティ・ルールを反映しているだけではないかという疑問はあるわけですが,本書ではそれを反証するデータを提出しつつ,有力なDynastyにおいて政治の世界に特殊な資源やコネクション,知識などが直接的に重要であることを示唆してます。もちろんさらなる検証は必要でしょうが,知識や経験を共有した有力なDynastyがコアを担うようになっているとすれば,その観点から自民党の変質に迫ることもできるんじゃないかと思ったり。

本自体すごく面白いと思いますが,それは著者が日本語のものも含めていろいろ読んで日本政治についてすごい詳しいから,ということがあります。アネクドートとか,なんでそんなん知ってるの?みたいなこともあるし,ある面で現代日本政治の通史風になっているところもあって,大学院生が日本政治の展開について説明するときに参考になるんじゃないかなあ,という印象も受けました。ご関心のある方はぜひ!