最近のいただきもの(教科書・論文集)

なかなかきちんとご紹介ができておりませんでしたが、以下の書籍を頂いておりました。こちらは教科書や論文集になります。論文集はバラバラで出版が難しい、というようなことをよく耳にするのですが、今回ご紹介している論文集の多くは一貫したコンセプトのもとで著者の間での役割分担がきちんとなされているように思います。個々の論文だけではなくまとまった本として、それぞれのテーマにおける重要な貢献といえるのではないでしょうか。

まず、津田塾大学の網谷龍介先生から『戦後民主主義の青写真ーヨーロッパにおける統合とデモクラシー』を頂いておりました。ありがとうございます。専門外の政治学者から興味深いのは、やはり全体をまとめた網谷先生の1章で、現在の体制は個人の自由に基礎づけられる「リベラル・デモクラシー」と考えられるとしても*1、個人の自由という発想がその基礎にあるというよりは、キリスト教の保守的な人格主義や労働者の集団としての同権化要求が組み合わされた複合的なものとして構築されていったもの、という理解でしょう。このような発想を共有しつつ、本書の各章では、ヨーロッパ各国史の専門家がそれぞれの国における戦後民主主義の形成について描いていくものとなっています。 

戦後民主主義の青写真: ヨーロッパにおける統合とデモクラシー

戦後民主主義の青写真: ヨーロッパにおける統合とデモクラシー

 

 次に執筆者の皆さん(成蹊大学法学部の先生方)から『教養としての政治学入門』を頂いておりました。ありがとうございます。成蹊大学のオムニバス講義をもとにした初学者向けの教科書で、網羅的というよりは面白いトピックを並べて解説していくというスタイルになっていると思います。しかし美味しいところをこうやって書いちゃうと来年以降の授業が大変じゃないすか(笑)とか思いつつ。みなさんそれぞれの分野で大変ご活躍されている方々だと思いますが、12人の活躍する政治学者をそろえてる大学ってすごいですよね。 

教養としての政治学入門 (ちくま新書)

教養としての政治学入門 (ちくま新書)

 

 千葉大学佐藤健太郎先生・関西大学の若月剛史先生からは、『公正から問う近代日本史』を頂きました。ありがとうございます。経済(史)、政治(史)、社会(史)、思想(史)といった分野で公正というテーマを問うという、非常に重要な問題に取り組まれてた共同研究だと思います。何が公正か、フェアか、というのはいちがいに先験的に言うことは難しくて、文脈に応じて公正さを解釈していく必要があり、歴史的な事実を踏まえてそれを確認するのは非常に重要な仕事であるように思います。自分自身も最近住宅の研究などをしているわけですが、たとえば「公的賃貸住宅の経営における適正な利潤とはどんなものか」、といったようなイメージで、公共的な財・サービスを公正に(フェアに)利用するというのはどういうことか、ということを考えることが増えてきました。少し長期で取り組みたいと考えている課題ですので、本書をぜひ参考にして勉強してみたいところです。 

公正から問う近代日本史

公正から問う近代日本史

 

編者の岩崎正洋先生をはじめ、執筆者のみなさまから『大統領制化の比較政治学』を頂いておりました。どうもありがとうございます。以前、やはり岩崎先生をはじめとする研究チームでポグントケ&ウェブの『民主政治はなぜ「大統領制化」するのか』を翻訳されたわけですが、そのテーマを引き継ぎつつ、日本での「大統領制化」presidentializationについての研究を深化させるプロジェクトを進められているということかと思います。もともと議論の対象となっていたヨーロッパの国々だけではなく、日本を含めロシア・イスラエル・トルコなど周縁の国における「大統領制化」を議論しているのはこの本の貢献ということになるのでしょう。また、個人的には、岩崎先生の書かれた1章で、もともとの「大統領制化」論が、ヨーロッパにおける政党衰退論以降の政党政治におけるリーダーの位置づけをどう考えるか、という議論から始まっていたのに対して、もともと政党の弱い日本では政党研究というより執政制度の分析という文脈で論じられているのではないか、という指摘が興味深いと感じたところでした。

大統領制化の比較政治学

大統領制化の比較政治学

 

編者の品田先生・水島先生・永井先生をはじめ執筆者の先生方から『政治学入門』を頂きました。どうもありがとうございます。政治学教科書という「商品」を考えると「商売敵」になるのですが、個人的にはこの教科書は非常に面白く感じました。正直、どういう風に執筆者を揃えたのかよくわからないのですが(すみません)、本当に第一線でいろいろなお仕事をされているみなさんが、コンセプトを共有して教科書書いてる印象があります。具体的に言えば、序章で説明されている、方法論的個人主義の相対化、理論と実証のバランス、民主主義の強調、というような特徴が確かにどの章でも意識されているなあと感じたというか。だいたい一人一章にするとなんかバラバラになりそうなもんなんですが。一つの理由は、章の尺が結構長いっていうことがあるようにも思います。データやグラフもふんだんに利用されていますし、取り上げられてるトピックについてきちんと説明されている印象もあります。ひょっとしたら好みの問題なのかもしれませんが、教科書というだけでなく、読み物としても面白いものになっていると思いました。 

政治学入門 (学問へのファーストステップ 1)

政治学入門 (学問へのファーストステップ 1)

 

 次はアメリカ政治の教科書です。編者の岡山先生・西山先生と、執筆者の西川先生から『アメリカの政治』を頂きました。どうもありがとうございます。本書では初めに総論として歴史・思想、統治機構、選挙と政策過程、という前提となる知識が扱われ、そのうえで争点として人種とエスニシティ、移民、ジェンダーセクシュアリティー、イデオロギー社会福祉、教育と格差、規制、財政と金融、科学技術、外交安保、といった問題が取り上げられています。アメリカは日本にとって最も関心を持たれる国のひとつなわけで、何が起きてるかについて内在的に理解することへの要請は少なくないわけですが、本書の総論を読んで理解したうえで、個々に問題になってくる争点をその時々に応じて読む、というような利用の仕方もできそうです。 

アメリカの政治

アメリカの政治

 

さいごに京都大学の近藤正基先生から、『教養としてのヨーロッパ政治』 を頂きました。どうもありがとうございます。「教養としての」とあるわけですが、カバーする国はいわゆる西欧諸国にとどまらず、旧社会主義国である中東欧や旧ソ連地域、トルコなども含んでいるうえに、それぞれの国の政治体制、社会経済政策、外交安保政策、移民政策などを基本的にカバーした本になってます。私なんて教養どころか知らないことばっかりですみません…という感じになってしまいそうですが。類書で思い出すのはやはり29国という多くの国を取り上げた『ヨーロッパのデモクラシー』ですが、あちらが主に政党政治、政党間競争について注目しているのに対して、『教養としてのヨーロッパ政治』は政策について半分以上のページを割いていることが特徴といえるように思います。

教養としてのヨーロッパ政治

教養としてのヨーロッパ政治

 
ヨーロッパのデモクラシー

ヨーロッパのデモクラシー

 

*1:我々の教科書を引用していただいてありがとうございます!

イデオロギーと日本政治

少し前ですが,早稲田大学の遠藤晶久先生から『イデオロギーと日本政治-世代で異なる「保守」と「革新」』を頂いておりました。どうもありがとうございます。もともと英語での著書として書かれたものを日本語に翻訳して出版されているもので,若年層と高齢層で政党のイデオロギー位置についての認識に差異が生じるという本書の分析結果は,2014年にその原型が論文(『アステイオン』80号)として発表されたときからすでに注目を浴びていたように思います。参議院通常選挙が近づいている中で,選挙での選択には直接関係しないかもしれませんが,イデオロギーという観点から政党の位置づけを改めて考えるのにも非常に有益になるのではないでしょうか。

本書では,様々な世論調査のデータを用いて,世代ごと・グループごと,あるいは章によっては国ごとに,有権者がどのようなイデオロギーを持っていると考えられるかが議論されていきます。「イデオロギー」とは定義が難しいですが,本書では「有権者が政治的な世界の意味を理解し,様々な政策争点について政党の立場の違いを理解し,それにしたがって投票所で選択をするための地図を構成する,その枠組み」(p. 14)と定義されています。もう少しざっくり言えば,色んな主張をしている複数の政党を一元的に比較する尺度という風に考えてもよいでしょう。そのようなイデオロギーは,「右派-左派」「保守-革新」「保守-リベラル」など色々な呼ばれ方をします。その違いは,対象とするイデオロギーが何に規定されているか――安全保障に対する態度,経済政策に対する態度,価値観に対する態度,中央集権・地方分権に対する態度などによって規定されると考えらていれます――によって異なりうるわけですが,呼ばれ方はともかくまあその軸はざっくり言うと重なっていく(=一元的な尺度として理解できる)と考えられてきたわけです。日本について具体的に言えば,改憲か護憲かという安全保障での「右派-左派」と,小さな政府か大きな政府かという経済次元での「保守-革新」,伝統的価値観かジェンダー平等のような新しい価値観かという価値次元での「保守-リベラル」みたいなものがまあ大体重なると*1。実際,イデオロギーの測定の仕方は違うのですが,長年にわたる朝日新聞の調査を見てみると有権者の政策位置は中道を中心に分布していて,自民党が「右」,野党が「左」という傾向にあることがうかがえます。

www.asahi.com

本書の分析を通じた発見は,日本におけるイデオロギーが,基本的に安全保障次元(改憲自衛隊容認か護憲・自衛隊否認か)の対立に基礎づけられていたこと,そして冷戦が終わり1990年代の政治改革を経て,高齢層は従来と同じような形でイデオロギーを用いて政党の政策位置を認知する傾向を持つのに対して,若年層はそもそもイデオロギーを通じて政党間の差異を認知するのが難しくなっており,かつ「保守-革新」のようなイデオロギーでは高齢層と異なるかたちで政党を配置している――伝統的に「革新」として認知されてきた共産党が「保守」の方に位置付けられ,「保守」と理解されがちな日本維新の会みんなの党などを「革新」として認知している――ことが示されています。イデオロギーのラベル(右-左,保守-革新,保守-リベラル)が重なっているかどうかを議論した5章・6章は特に興味深くて,右-左を使うと高齢層から若年層まで比較的同じような順序で政党を配置するものの若年層には「わからない」が頻発し,保守-革新が従来のイデオロギーと違って政党が改革志向かどうかという次元で捉えられていることが示されます。

これはちょうどこの前のエントリでの,参議院選挙の対立軸について経済教室に寄稿した内容とも重なってきます。伝統的な左右の定義に挑戦するような新しい対立軸――このブログのエントリでは生活保障-社会的投資ですが,現状維持-改革と重なるところもあるでしょう――が出現して,二つの軸によって政党の政策位置が理解されるようになるのか,と。もちろん,これまでも「脱物質的価値」のように,そのような新しい軸の議論はあったわけですが,左右のイデオロギーがその争点を吸収し,次第に直交ではなく一軸上に収斂するかたちで理解される傾向があったともされます(3章)。現状の日本を考えると,左派・改革(社会的投資),右派・現状維持(生活保障)というグループが弱くて*2,左派・現状維持(生活保障) vs. 右派・改革(社会的投資)という軸に収れんする可能性がないわけではないでしょう。とはいえ,現状で若年層が伝統的なイデオロギーとは違うかたちで政党の政策位置を捉えている中で,政党の方がどのようにその支持を取り付けるか,ということが焦点になることを,本書は示唆しているように思います。

このような対立軸だけでなく,本書は多くの読みどころがあります。とりわけ,しばしば指摘される「若年層の右傾化」というようなことはデータ的には全然言えなくて,むしろ(他の国と比べるとそれほどでもないものの)「左傾化」しているという指摘(8章)は非常に貴重なものではないでしょうか。しかし自民党も野党(民主党)と同程度に左派の票を獲得することができているような状態で,しかも若年層において従来のイデオロギーによる政党の理解が弱まり「改革」を訴える右派(自民党も含む)への投票もしばしば行われています。本書の見立てでは,野党の方がそのような若年層を取り込むことができない中で「若者が政党支持を決めるときには,自民党化他の政党か無党派かという選択ではなく,自民党無党派かという2択しかない」のであり,だからこそ投票参加した人のなかでは自民党への支持が大きくなり,「右傾化」しているようにも見えるのだろうということになります。個人的にも納得できる解釈であり,この若者との関係をどのようにつかむか,ということが野党にとって最も大きな課題となることを強く示唆しているように思います。 

イデオロギーと日本政治―世代で異なる「保守」と「革新」

イデオロギーと日本政治―世代で異なる「保守」と「革新」

 
Generational Gap in Japanese Politics: A Longitudinal Study of Political Attitudes and Behaviour (English Edition)

Generational Gap in Japanese Politics: A Longitudinal Study of Political Attitudes and Behaviour (English Edition)

 

*1:中央地方軸は微妙で,ヨーロッパなんかの文脈では一般的に右派は地方分権=身近な範囲での自治を主張するのに対して左派は集権的に福祉国家を進める,という感じなのですが,日本だと右派が集権を主張して左派が地方分権を主張するねじれみたいなのがずっとあるような気がします。

*2:右派の生活保障は,日本の文脈だと公共事業ということになるでしょうか。

経済教室への補足

7月2日付けの日本経済新聞・経済教室に『参院選で何を問うのか(下)将来を巡る対立軸 意識せよ』というコラムを寄稿しました。選挙前の記事という「ナマモノ」で,本来そういうのを書く能力に乏しいのですが,せっかくのお話なのでチャレンジしてみました。普段の地方政治や住宅などに関するコラムの場合には論文・本で言ってることをベースに書いてると思うのですが,今回は『二つの政権交代』以来細々と続けている研究がベースで,たまたま同じ日経新聞2年前の経済教室最近の記事*1でのアイディアを発展させて書いているような感じです。

まあ前半の参議院選挙制度がもたらす個人投票の話や各政党のマニフェストの話はいいのですが,後半の生活保障-社会的投資の軸については,2年前の経済教室でも取り上げたHausermannさんらの研究をもとにしています。最近のヨーロッパの福祉国家研究の成果ということで,現在大学院のゼミでも勉強しているThe Politics of Advanced Capitalismの議論――潜在的な支持層というのは,基本的にこの本のアイディアですね――と寄稿しているような人々,特にJane Gingrichさんの研究に依拠する感じで整理してみたつもりです。論文を一本紹介するなら,

Gingrich, Jane, and Silja Häusermann, 2015, “The Decline of the Working-class Vote, the Reconfiguration of the Welfare Support Coalition and Consequences for the Welfare State,” Journal of European Social Policy, 25(1): 50-75.

ですかね。前にもツイッターで触れたことがありますが。また,社会的投資については,最近同じ経済教室での田中拓道先生のコラムが出ていたほか,現在日本で精力的に研究されている濵田江里子先生のコラムがちょうど昨日発表されていました。後者についてはヨーロッパで論じられている社会的投資を超えて,「社会への投資」を,という意欲的なものだと思いました。

The Politics of Advanced Capitalism

The Politics of Advanced Capitalism

 

コラムの中ではあんまり細かく触れることができなかったのですが,従来の左派-右派という軸が,日本で護憲-改憲という軸と重なってくるのと同じように,新しい生活保障-社会的投資という軸は,これもヨーロッパで論じられているGAL(green-Alternative-Libertarian)vs TAN(Traditional-Authoritarian-Nationalist)軸とも重なってくるように思います。GAL-TANの方はきちんと研究を進めているというわけでもないのであくまでも印象論ですが。これはいわゆる左右でのポピュリズムみたいなものとも絡めて議論されることがあるようですので,ここから日本におけるポピュリズムの位置づけ,みたいなものを考えることもできるのかもしれません。

最後のところ,財源はともかく一度社会的投資の分政府を大きくしてみるという論が立たないか,ということを書いています。これは財政赤字が深刻な中で非常に書きにくい話ではありますが,投資によって将来のリターンを得るという考え方とセットであれば議論の余地が広がるのではないか,ということです。もちろんこの手の賢い支出Wise spendingについてはずっと主張されつつも政治過程でのゆがみが入るために難しいということはしばしば指摘されています。しかし政党の主張として,政治過程における個々の政党の思惑を統制して賢い支出をするんだ,という議論自体はできるんじゃないかなと。

蛇足ですが,経済政策については専門外で,もう20年くらいこのよくわからん議論の観客をしているだけでしたが,それでも最後に触れてみたのは,最近のリチャード・クーさんの『「追われる国」の経済学』を読んでいると改めて示唆されるところが多かったからというように思います。本質的には彼が言ってることは20年前と変わってるわけではなくて,長年の一観客としてはRichard Koo is baaack! という感じを受けたのですが*2,そこで示されている理論的展開は政治学者としても非常に興味深いものでした。追う国と追われる国という「質的な違い」が経済政策の違いをもたらす,というような議論は,今の経済学ではなかなか受容されないような気がしますが,特に質的な変数に興味がある政治学者としては裨益するところが少なくないと思います。直接論文に利用することができるのかはよくわかりませんが…。

*1:こちらは関連記事をまとめたものを本として出版されるそうです。

令和につなぐ 平成の30年

令和につなぐ 平成の30年

 

 

*2:個人的には,最近のMMTの議論とリチャード・クーさんがどう絡むんだろうということにもやや興味があったのですが,現在のところ絡んでいる様子は全くないような感じでした。観客の感想としては,支出先についての関心が違うということなのかなあ,というところでしたが。この辺の話はやはり昨日発表されていた元日銀理事の早川英男氏のコラムにもあってなかなか興味深いところです。

(行政)組織の実証研究

主観的には仕事をしてるつもりでも,何かやってもやっても終わらない感じになっていて,そのために頂いた本の紹介も滞ってるんですが久しぶりに。

もうずいぶん前になってしまいましたが,首都大学の伊藤正次先生はじめ著者の先生方から『多機関連携の行政学』を頂いておりました。どうもありがとうございます。本書では,しばしば伝統的な行政学で強調されがちな行政機関の一元系統化,つまり組織の担当と責任を明確にして二重行政が発生しないような状況を作り出すことではなく,行政における「冗長性」redundancyの意義を強調する研究となっています。日本的な感覚だと複数の担当者の「調整」が大事だよねー,というのはあるわけですが,いわゆるNPMの世界でも機関間の競争が積極的に評価されることにもなります(責任を持つ機関が1つだけだと競争が起きずモラルハザードが起こりうる)。その割に,日本では「二重行政」に対しては批判や嫌いという声一辺倒という感じで,その状況に一石を投じる研究ということにもなるのではないでしょうか。

具体的に対象としているのは児童虐待防止,児童発達支援,少年非行防止,公共図書館,労働基準監督,消費者保護,就労支援,地域包括ケアシステム,といった分野です。とりあえず見えてきた傾向としては,海外の先行研究では行政機関で働く「人」の要素が注目されるようですが,本書の分析結果によれば日本では関係機関間の連携を規律する「制度」や会議体という「場」の果たす役割が大きい可能性があると論じられています。もちろん今後の研究が必要,ということになるわけですが,発展がとても期待できる分野なのではないかと思います。 

多機関連携の行政学 -- 事例研究によるアプローチ

多機関連携の行政学 -- 事例研究によるアプローチ

 

 東北大学の青木栄一先生はじめ著者のみなさまから『文部科学省の解剖』を頂きました。どうもありがとうございます。本書では,幹部に対するサーベイ調査の結果を軸としながら,省内に地方自治体も含めた他の機関との人事的な関係,そして庁舎の配席図などもデータとして使いながら文部科学省について検証がされています。もちろん,文部科学省だけのサーベイではわからないことも多いわけですが,分析から明らかになった傾向としては,「国益に基づく判断が可能であると考え,効率性や政策評価に対して消極的であることや,関係団体やいわゆる族議員との関係は良好だが,官邸との距離は遠く,財務省との対立が深いといった姿」(2章要旨)が浮かび上がります。官邸との距離の遠さは5章でも描かれていますし,全体として普及しているイメージに近いような気がしますが,回答に技官が多いことや局長級の回答が少ないことなどでこのような姿がもたらされている可能性もあるという留保がされています。

その他,地方自治体をパートナーというより規制対象と捉えがち(3章),政策面では他府省との関係で消極的・内向的であるものの人事的には一定の自律性を持つ(4章),文部系と科技系の分立的な状況が続いている(6章・8章),旧科技庁の機能が総合調整から「司令塔」へと性格を変えつつ予算を増やしている(7章),といったところでしょうか。近年,政策過程の研究はともかく,個々の行政組織の研究が少なくなっているところがあり,それは一般的・理論的な意義を見出すのが難しいということと関係しているとは思います。他方で2000年初頭の省庁再編の成果を検証して次に生かすという時期でもあるはずで,難しいとしてもこういう研究が積み重ねられていくことは重要であるように思います。 

文部科学省の解剖

文部科学省の解剖

 

 もうひとつ,関西大学の坂本治也先生から共編された『現代日本市民社会』を頂いておりました。どうもありがとうございます。このタイトルの書籍が「組織の実証研究」として紹介されることに違和感を持つという方もいるかもしれません。しかし,坂本先生が以前編者として出版された『市民社会論』でもそういう傾向があり,この本ではさらに強調される形になっていると思いますが,政府や企業と異なる社会における組織-具体的にはNPO法人であり公益法人・一般法人,協同組合,学校法人など-を検証・分析することで,日本の市民社会について論じられています。データとして,経済産業研究所が4回にわたって行ってきた「サードセクター調査」の結果が利用されていて,様々な研究者による興味深い知見が提出されています。

日本のこの手の組織というと,従来の公益法人が,主務官庁の規制のもとに官庁の延長として仕事を行う,といったことがイメージされやすいと思います。本書では一方でそのような「主務官庁制下の非営利法人」を分析しつつ,近年存在感を増している「脱主務官庁制の非営利法人」,そしてもうひとつ伝統的な「各種協同組合」に類型化して,属性や人的資源,財政状況,政治・行政との関係,持続と変容などを分析しています(第1部)。そのうえで,歴史的な観点から非営利法人を分析する2つの章を挟んで,それぞれの関心からデータ分析を行う章が続く構成になっています。

市民社会」と言えばどちらかというと「市民参加」,ひいてはボランティアや無償の奉仕みたいなこととすぐに結び付けられやすいように思いますが,前著と同様に「組織」に注目して議論するのは「市民参加」の方にやや偏りがちな印象もある日本の市民社会論でとても重要な貢献のように思います。個人的にも,一般法人や公益法人というちょっと捉えどころのない組織のガバナンスに興味を持っているところがあり,興味深く拝読しました。ちょうど最近この分野の古典的な著作であるThe Ownership of Enterpriseが翻訳されたこともありますし,改めて市民社会セクターにおける組織についての関心が高まるとよいのですが。 

現代日本の市民社会: サードセクター調査による実証分析

現代日本の市民社会: サードセクター調査による実証分析

 
企業所有論:組織の所有アプローチ

企業所有論:組織の所有アプローチ

 

専門家・専門知識

東京大学の若林悠先生に『日本気象行政史の研究』を頂きました。どうもありがとうございます。本書は,気象行政というややマイナーな領域を対象としつつ,その領域において官僚制がどのようにその専門性を発展させていったのかについて非常に刺激的な議論をしているものです。重要なのは社会における「専門性」の評価であるところの「評判」で,「専門性」と「評判」はまあ先行研究でもしばしば結び付けられる話ですが,それを考えるにあたって「エキスパート・ジャッジメント」と「機械的客観性」という聞きなれない言葉が本書の鍵概念となっています。前者は専門家としての(優れた)判断であり,後者は専門家であればいわば誰がやっても同じ結論を出すという判断,ということになるかなと。気象行政における官僚制は,もともと他にいない専門家としての「エキスパート・ジャッジメント」を社会に評価される(=評判を高める)ということを重視してきたものが*1第二次世界大戦後の気象行政の再構築の中で防災官庁としての意義を強調し「機械的客観性」を重視するようになってきた,と。しかし,1980年代ころから天気予報解説などに関わる民間の気象会社が存在感を増している中で,それとの競争のなかでの「エキスパート・ジャッジメント」を意識するかたちになっている,という感じでしょうか。 

このような議論を行うときに,気象行政というのはとてもうまい題材だったと思います。その一方で,他の分野についてはどうなんだろう,という感じもありました。普通の「専門性」といえば,まあ伝統的には技官ですし,最近であれば本書で最後にちょっと触れられている経済学者みたいなものも入ると思いますが,そういうものの場合,官庁が独占的に「専門性」を保持していたり,まあその言いかえですが,官庁の外部よりも優れた「エキスパート・ジャッジメント」ができるということはやや考えにくいのではないか,という気がするところです。多くの「専門性」が出てくる領域では,官庁の外に養成機関や試験などがあって,必ずしもその中のベスト&ブライテストが官庁に入ってくるとも言えないわけで(まあ日本はそれでも比較的優秀層が入ってたんでしょうが)。
そういう前提のもとで,「専門性」をもった領域が必ずしも自律的であるというわけではなくて,その領域の中に存在する行政組織の内と外に強い境界がある,という問題が出てくるんだと思います。専門家が行政組織で働いているというのではなくて,行政組織で働く人を専門家と呼ぶ,みたいな。日本の官庁の場合,ふつうに「エキスパート・ジャッジメント」で戦うと民間(というか官庁組織の外)に負ける可能性が低くない中で,官庁が情報を独占することによって別の土俵で競争することにしていたようなところがあるのではないか,という印象があります。気象庁の場合にはウェザーニュースに「指導」できたりするわけですが,それはやや特殊なところがあるのではないか,と。とはいえ,その特殊性自体は本書の中でも認識されているように思いましたし,うまく浮彫にされているとは思いましたが。

今後という意味では,民間の気象会社が衛星を打ち上げたりして情報を独自に獲得するようになるでしょうから,そのときにどうなるかというのが論点かもしれません。ただ個人的にはそれに加えて「防災官庁」としての行く末が気になるところです。正直,本書を拝読するまでは気象庁が「防災官庁」であるという意識はあまりなかったのですが,確かに防災においては重要な役割を果たすと思います。現在防災(復興)庁も含めていろいろ議論が出ているわけで,その中で気象庁はどういう位置に置かれるんだろうか。

日本気象行政史の研究: 天気予報における官僚制と社会

日本気象行政史の研究: 天気予報における官僚制と社会

 

もうひとつ,アジア・パシフィック・イニシアティブの船橋洋一先生から『シンクタンクとは何か』を頂きました。どうもありがとうございます。アメリカを中心とした他のシンクタンクとの比較を踏まえつつ,ご自身がシンクタンクを立ち上げるという経験をされている中で考えられたことを中心にシンクタンクについて論じられています。海外のシンクタンク事情については知らないことばかりですし,何より登場するシンクタンクの人々が活き活きと描かれているのを非常に面白く読みました。

本書で扱われているのは,基本的に社会科学系の「専門性」に依拠したシンクタンクで,そこで重要になってるのはまさに「評判」なんですよね。若林先生の分析枠組みを借りると,経済学については自然科学っぽいところもあるかもしれませんが,政策アナリストや特に国際政治に関するシンクタンクの場合は「機械的客観性」を担保するのはほとんどムリなわけですから,そこで重要になってくるのは「エキスパート・ジャッジメント」ということになってくると思います。シンクタンクにとっては他より優れた「エキスパート・ジャッジメント」ができるといったような評判を作ることが組織を維持するのに大事になるわけで,それをめぐる競争というのを垣間見ることができます。

本書では基本的にシンクタンクの方に焦点を当ててるわけですが,やはり若林先生の本を踏まえて考えてみると,そういうシンクタンク間の競争が重要だというときに,官僚組織はどういう役割を果たすんだろうというのも気になるところです。官僚組織にしかない情報やデータというのがあって,(もちろんシンクタンクが独自に情報を取るとしても)それがシンクタンクにとっても死活的に重要になってくるのだと思うのですが,官僚組織としても競争相手なので喜んでディスクローズしたいってわけでもないと思うんですよねえ。「回転ドア」という労働市場を通じてつながってるからこそ情報の流通が起きるのかもしれませんが…と,読んでるときはあんまり考えてませんでしたが,二冊一緒に読むとより面白いかもしれません。 

*1:まあ結局軍部との「エキスパート・ジャッジメント」の競合があってうまくいかないという話になるわけですが。

地方自治研究3冊

東洋大学の箕輪允智先生から『経時と堆積の自治』を頂きました。どうもありがとうございます。博士論文をもとにした出版で,旧新潟三区の三条市柏崎市栃尾市加茂市を対象に,詳細な自治体の歴史を描くことで,それぞれの地域での「自治」のあり方がいかに形成されてきたか,ということを分析しようとするものです。私なんかもそうですが,近年の地方自治研究では,一般的に妥当する理論を検証することを念頭に置きつつ,自治体そのものの個性を重視するというよりは,何らかの変数で特徴づけられた存在として認識することが多くなっています。それに対して,本書は都市ガバナンスの先行研究をふまえた上で,個々の自治体がそれぞれに歴史と文脈をもって「自治」を作り出してきたことを論じようとしています。それぞれの自治体がもつ地理的環境や人的資源,組織・伝統的資源などの影響を受けながら自治体の来し方行く末が決まっていくと。

本書を通じてわかることのひとつは,全ての自治体を一般的に捉えるということはまあある種のフィクションであって,それぞれの自治体が固有の歴史を持ち,経路依存を前提に意思決定をしているんだ,ということでもあります。まあ私なんかはそういう研究してるわけですが,一定の仮定を前提に自治体の一般的な行動や決定について分析していることを忘れてはいけないということでしょう。本書でも,一般的な理論・仮説の妥当性を検証するような研究を否定しているわけではなく,自治体の個性が重視される時代にはその個性の源泉である歴史や文脈について確認する視点が必要になることを強調しているわけです。もちろん,原発立地自治体で様々な研究の対象になっている柏崎市をはじめそれぞれの自治体の多様性の「特異的な因果関係」について教えてくれる著作ではありますが,バランスを保ちつつ他の視点に学ぶ姿勢が大事,ということを改めて示すものとしても読めるように思います。

経時と堆積の自治――新潟県中越地方の自治体ガバナンス分析

経時と堆積の自治――新潟県中越地方の自治体ガバナンス分析

 

大阪市立大学の阿部昌樹先生から『自治基本条例』を頂きました。どうもありがとうございます。元同僚ですが私は前からのファンの一人で,『ローカルな法秩序』『争訟化する地方自治』ともに本当に好きな著作です。その阿部先生が自治基本条例について研究をされているのは知っていて,本書の出版をとても楽しみに待っておりました。本書はおそらく初めて自治基本条例を体系的・実証的に分析したもので,この「自治体の憲法」と呼ばれる(呼ばれたがる?)条例が自治体において住民が相互に結びついているような感覚,「集合的アイデンティティ」の構築に関わるという議論は非常に説得的だと思います。自治基本条例の歴史的な経緯を説明するだけではなく,調査時点での全条例を用いた計量テキスト分析,米原市で行われた住民アンケート調査を利用した二次分析,阿部先生ご自身による自治体担当部局を対象としたアンケート分析を用いて実態への接近が図られていて,政治学行政学への貢献も非常に大きいと思いました*1

実は私も大学院生のときにある市で制定された自治基本条例の初期段階に関わっており(まあ引っ越しでそこからは離れてしまいましたが),また就職してからもいくつかの自治体でこの条例の評価・チェックに携わる審議会等のお手伝いをさせていただいたので懐かしく読んだところもあります。本書では,社会運動論のレビューなども踏まえた議論がなされていますが,まさに「運動」のようなところもあり,また一度「制度」として出来上がったものをどうやって運用するかというのが重要な論点にもなります。本書でも,自治基本条例を根拠として住民が行政に提案・要求を行うというような可能性,そしてそれが「集合的アイデンティティ」を作り出していくのではないか,という可能性についても論じられていますが,以前「運動」の中で自分もそんなことを漠然と思ったことがあるなあ,と懐かしい気分になりました。 

なかでも,阿部先生が独自に集められたアンケートデータを利用した「インパクト」の分析をされた5章を興味深く読みました。主要な論点のひとつとして,自治基本条例が制定されてからの時間がたつことが住民や職員の行動を変えた可能性について論じられています。ただ,それで満足するのではなく,探索的に色々な分析を行うことで,単に時間が経過しているだけでなく,何かの試みをしていること時間との交差項が効果を持つ可能性があることを論じられているのは個人的には説得的でした。結構独立変数間の相関があるのである程度整理してもよいのかなあとは思いましたが,そういう相関を踏まえつつ推定結果を「読む」というのは,技術的にとても優れている研究者でも簡単ではないことで(なんていう僕は全然だめですが),そういう点も大変参考になると思いました。 

 最後に,京都大学の曽我謙悟先生から『日本の地方政府』を頂きました。ありがとうございます。何というか,この構成や展開はすごいですね。読んでいる文献も相当程度重なっていて,議論のもとになる理論を共有しているわけですから,ほとんど違和感なくすぐに読んでしまったのですが,そもそもこういうかたちで議論を組み立てる俯瞰的な目線が本当にすごいと思います。20年くらい前から曽我先生がリードしてきた研究が,20年後に回収されるとこんな感じになるんだ,という感慨を持ちつつ読んだところもあります。まあ教科書とは違うわけですが,地方の研究する多くの若い人が初めの方で読む一冊になるでしょうし,かなり長く地方政治研究を規定するものになるような気がします。その意味でも上の箕輪さんのような観点も改めて重要になると思いますが。

統一的な視点から極めて見通しよく「日本の地方政府」について整理し,問題を析出されているわけですから,本書は改めて自分の研究を見直すときにも非常に有益になります。私の場合,本書の5章(中央政府との関係)のところから研究を始めて,1章(首長と議会)と3章(地域社会と経済)に大きく関連するところで著作を書き,次の本は2章(行政と住民)と4章(地方政府間の関係)に絡むところかな,と感じつつ,関連文献を見直そうか,などと思いました。また,最近他の仕事との関係で,2章の行政改革の部分の実証的な研究が実は少ないんだろうな,という印象も受けていて,このあたりについて掘り下げることもできるかな,という感じもします。もちろん,新しい研究の助けになるだけでなく,析出された問題についての議論を呼ぶものにもなるでしょうから,そのためにも広く読まれることを願いたいと思います。

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

 

*1:阿部先生のご専門は法社会学なので/政治学者・行政学者と一緒に仕事されることも多いですが。

番号を創る権力

東京大学の羅芝賢先生から,『番号を創る権力-日本における番号制度の成立と展開』を頂きました。どうもありがとうございます。最近,私自身がマイナンバーのような番号制度に関心を持っていることもあり,本当に面白く読ませていただきました。これは番号制度や電子政府はもちろん,広く社会保障行政改革に興味を持っている人必読といっていいんじゃないですかね。

本書を通じて勉強になることばかりでしたが,特に日本における医療や年金,運転免許の番号の発展を分析した1章の3節には感銘を受けました。それぞれの分野において一定の統合が図られる契機があり,それには事務の膨張や行政の電子化が関わっている,という議論です。私自身,番号制度に関心を持つ中で,これらの番号についても考えることがありましたが,本書で批判されているような,分散的な性格を過度に強調するような発想があったことを否定できません。ただ他方で,それぞれの政策分野が自律的に発展していく傾向にあるのではないかとは感じており,その点については本書の議論とパラレルな部分があるような気がします。

他の章についても,重要な示唆がたくさんありました。2章では革新自治体の台頭と番号制度導入の失敗というのはなるほどと思いました。しばしば労働組合が電子化に抵抗する,という話があるわけですが,電子化の初期の時点と革新自治体の隆盛の時期が重なっていて,しかも議会に対して劣勢に立ちがちで住民へのアピールを考える革新市長が「プライバシー保護」を強調しようとするのは納得できます。さらに,3章は日本において本来もっと研究が進んでいるべき電子政府化の歴史についての重要な貢献になっています。電子政府化というのは重要なテーマでありつつ,なかなか切り口が難しいような印象を持っていましたが,本書のような形で整理されて番号制度とリンクされたのは慧眼だと思います。よく考えれば,管理のために電子ファイルを作る時点でどうやっても付番されるわけですから,電子政府と番号というのは切っても切れないものになるわけですし。

さらに,4章・5章について,本書の主要なメッセージである,「本人確認が極めて権力的・暴力的な営みである」ということにもついても考えさせられました。日本のマイナンバーは,結局のところそのような暴力的な営みを可能な限り回避しようとしている結果として,全く使えないもの,あるいは統合どころか単に制度を追加しただけのものになっているのかもしれません。これは今後の番号制度を考えるうえでも非常に示唆的で,日本のような国家においてはこれから統一的な番号を付与するのが難しいということなのだと思います。結局のところ年金番号のようなものを追加していった方がよいのではないかと。他方で,小選挙区制の導入以降の多くの政党が掲げる普遍主義的な方針が貫徹すれば(ある面でスウェーデンのように)強い本人確認の制度もありうるのかもしれない,と思うところもあります。もちろんそれは本書の結論で指摘されるように,福祉国家を縮退させかねないものでもあるわけですが。また,日本においても外国出身の方が増えている中で,強い本人確認の制度については慎重に検討されるべき事項なのは間違いないでしょう。 

番号を創る権力: 日本における番号制度の成立と展開

番号を創る権力: 日本における番号制度の成立と展開