100年前と現在

年度末,というのは今年は余り関係ないような気がするものの,報告が溜まっていたり論文書いたりでなんとなくバタバタする三月。こういうときに限ってFirefox/ThunderbirdのAdd-onをいじってカスタマイズしたりしてみる(と時間がすぐに経ってしまう…orz)。さっき,POPを使ってThunderbirdHotmailに溜まっていたメールをダウンロードするAdd-on(WebMail)を見つけて喜び勇んで試してしまう。どうやら「受信トレイ」以外からのDLはできないみたいだけど,これでこの数年分のメールを一元的に扱うことができてちょっと満足。
さて,少し前に「戦前のお勉強シリーズ」第三弾(第一弾第二段)ということで清水さんの本を読んでみました。前の二つの本もそうですが,明治維新がひと段落して,日露戦争あたりから政党政治の確立する1920年ころまでの状況は,現在の政治状況を理解するうえで非常に参考になると思われます。関心が現代政治にあるので,どうしても現代政治のことを意識しながら,の読みになりますが,まずは全体的な理解についてのメモを。

政党と官僚の近代―日本における立憲統治構造の相克

政党と官僚の近代―日本における立憲統治構造の相克

この本で議論されているのは,戦前における日本の政党が,官僚とのどのような関係を取り結び,統治機構の中に自らを組み込んでいったのか,というポイント。明治憲法下の統治機構が分立的諸機関がそれぞれ天皇を輔弼するという論理に基づいて構成されていたために,国会において多数派を占めることで内閣以下の行政機関を統合しようとする現在の議院内閣制とは異なり,各機関の政治的な統合というものが問題が浮上するわけです。この問題について,明治政府が様々なアプローチを試みてきたことが述べられていきます。まず元勲の一人である伊藤博文のアプローチとしては,総理大臣が強い求心力を持つ大宰相主義とその補佐機構を整備することによって,分立的諸機関を内閣で統合するということが試みられます。このとき,政党は内閣(総理大臣)が議会を統合するためのパートナーのような存在として,伊藤を中心とした政権で政党との連携が形作られていきます。ここでは,政党が行政機関に介入し,リーダーシップを発揮していくわけではなく,行政については専門性の高い官僚を登用していくことで,政党とは中立的に政府を運営していくことが志向されます。
一方で,このような総理を中心とした内閣による統合とは異なって,国会による立法を通じて行政に深く浸透し,民意を代表する政党が主体的に政府をコントロールするべきだ,とする考え方が生まれます。著者はこの萌芽を初の政党内閣である隈板内閣に見ていきます。つまり,政党が内閣を抑えることで,内閣主導による政党政治を目指すものであり,ここでは各省レベルの意思決定機能を解体して,その機能を内閣に集約することが志向されます(「進歩派モデル」)。しかし,隈板内閣によるこの試みは,政党人が政府のポストに大量に就く,いわゆる猟官批判が強く,このような志向は結果的には挫折して長く政権から遠ざけられることになります。代わって長く政権に近い存在となる政党(→政友会へ)は,官僚をコントロールしようとするよりも,その意向を尊重し,立法と行政の分業を進めていきます(「自由派スタイル」)。そして,政党政治の確立に至るまでの政治状況として,原敬率いるこのようなスタイルの政友会が政権の中心になっていく中で,藩閥勢力・官僚を中心とした勢力は,行政の独立性を保持するための様々な方策(枢密院の強化,文官任用令,軍部大臣現役武官制など)を打ち出し,当時から行政の専門性が高くなっていったこととも相俟って,自由派スタイルに基づいた政党・官僚の協調による政権運営が行われていったのが桂園時代であると理解できます。
ここで大きく状況が動いたのがやはり第二次護憲運動。ここで政党が政治の前面に現われたとき,政党政治の実際の運用に即した統治構造をどのように再構築するかが問題になります。このときに,政党化した官僚を次官など枢要な職につけるとともに,党務は党人派,政務は官僚派という役割分担の構造を作り出すことで,政党による立法と行政の横断的把握を志向する「政友会スタイル」と,政務と事務を官職によって区別することで官僚組織全体として中立を保持しつつ,政党が立法を通じて行政をコントロールすることを志向する「憲政会モデル」が出現し,「政友会スタイル」で官僚の政治参加が進んだ上で「憲政会モデル」を軸とした構造変化が行われたことが議論されていきます。そして,最終的には「政党と行政の間に内閣と政務官を入れてその峻別を図る」という分立的統治構造が実現していく,と。
興味深い論点はたくさんあるのですが,やはり分立的諸機関のインターフェイス(最近この言葉をよく使う…)である内閣(特に総理)と次官(あるいは政務官)の議論から,官僚の政治化に至る議論でしょう。内閣については,当初の伊藤博文はその創業者的なカリスマからも立法と行政のインターフェイスとしての役割を果たすことが可能であったものの,その後の非政党系の総理大臣は必ずしも同じ役割を果たさず,立法と行政は分立したままであったこと,また後に政党の支持を背景とした総理大臣が出現していくことから,立法と行政の主要なインターフェイスは次官(あるいは政務官)に移っていくことになったと思われます。初期の政党は,このインターフェイスの部分を完全に政党が牛耳り,意思決定を政党に集約していくことを志向していたものの,その姿勢に対しては「猟官」批判が付きまとい,結局挫折します。それに代わる「自由派スタイル」は,政党と行政の協調を図るところから,次第に官僚の政治化を進める「政友会スタイル」へと進化を遂げていきます。この「政友会スタイル」が結局のところ採用されなかったのも,「猟官」と似たような話で,官僚の政治化が進みすぎると政権交代のときにかなり激しく人員の交代が起こって行政の一貫性を確保できない上,それぞれが相手のいないうちに党勢を拡大しようとすることによる「党弊」が強すぎるために,事務の官僚については政務から独立させて党派政治が官僚に及ぶことを防ぐ「憲政会モデル」に落ち着いたと考えられるわけです。ここでの議論っていうのはものすごく機能主義的に考えると,まさにコミットメント・コストとエイジェンシー・コストの話で,コミットメント・コストが大きすぎるのでエイジェンシー・コストを払うかたちで落ち着いた,というように理解できるのかもしれません。第二段にもあげた,Ramseyerの1994年の論文では,この時期の日本は長期的に政党政治が続くことが想定されなかったために,官僚の中立化が進まなかったということが議論されているのですが,それに対する反論になるとともに,もともと「党弊」の激しい政党政治(コミットメント・コストの方がエイジェンシー・コストより小さいと理解される状態)から,官僚を中立化させるような状態(コミットメント・コストの方がエイジェンシー・コストより大きいと理解されるような状態)へとどのように変化していくのかについて示唆を与えるものであると思われます。
さらに,現代政治との関係を考えるとこれまた興味深い。同意人事で妙なごね方をしている某政党は,2003年総選挙のマニフェストで,「局長以上全員政治任用」というまさに隈板内閣がやったこととおんなじような話を掲げていたわけで(2007年のには書いてませんでしたが),典型的な「進歩派モデル」みたいなものでしょう。まあインターフェイスが次官だけである必然性はないので,可能性としてはありうると思いますが,「猟官」批判が出るかどうかは結構興味深いところです。余談ですが,同意人事を見るにつけても,本当にコミットメント・コストを小さく感じて仕方がない政党だなぁ…と。
一方で,自民党でもなかなか面白い動きが見られます。それを言うのは強すぎるのかもしれませんが,「官僚の政党化」です。若手官僚が出馬するのはまあいいのですが,最近の動きを見ている限り,かなり上の方まで来た官僚が選挙に出る動きが強まっているような印象を受けます(現在整備中のデータでこれが見れるといいのですが…)。昔から職域団体の支持を得て参議院で立候補するということはよくあるわけですが(前回で言うと国交省の次官とか),特に注目されるのは,内閣にかなり近くにいた官僚の出馬でしょう。小泉政権時代の小野次郎議員であったり,今度山口の補選に出るとされた内閣官房の高位の官僚のような出馬の仕方は,戦後直後はともかく,近年ではほとんど見られなかったのではないかと思われます。厚労省幹部人事で垣間見えた,内閣の官僚に対する影響力を併せてみると,政党−内閣と官僚の関係も変わりつつあるのかもしれません。現在議論されている「内閣人事庁」についても,こういう戦前の日本が経験した政官関係のモデルに照らして理解される必要があるようにも思われるわけですが,どうなんでしょうか。