政治学者のたそがれ?*1

昨日から微妙にアクセスが増えていたのでなんでかなぁと思ってたら,id:kihamuさんの政治学のたそがれ?というエントリにリンクが貼ってあったことによるらしい。エントリは興味深いと思いますし,一応政治学の関係者として名前とブログが出ていたので,お前が「政治学」を語るなんて◯十年早いと言われそうではありますし,僕もそのとおりだと思いますが少しだけ思ったことを。言い訳ちっくな話,普段ほとんど実名で好きなこと書いてるわけですが,関係ありそうな議論が出てると参加するのはやや躊躇しますねぇ。まあサクっと釣り上げられるのも仕事の一環ということで。
id:kihamuさんの当該エントリをざっとまとめると,まあこんな感じ。(1)ネットに政治学者(特にPolitical Scienceの専門家)はいない,(2)第一線で活躍する経済学者や社会学者がネット上で尖鋭な議論を交わしている,(3)誰もが政治を語りたがるのに,政治学者はお呼びじゃない,(4)代表制を考え直す「民主主義2.0」を考える中で政治学者は議論していくべきだがむしろ消滅しそう,ということでしょうか。このエントリを見て,一言でとりあえずお答えしておくなら…と思ったのとほぼ同じコメントがブクマの中にありました。「政治と教育は好き勝手言ひたい人には敷居の低い分野だなとは思ふ。」というコメントで,このエントリの現実的な肝は(3)のところで,その背景にはこのコメントのようなことがあるんじゃないかなぁ,と思ってます。それ以外の論点は,コメント書いてる政治学者の卵さんと重なるところが大きいですが,順番に。
まず,(1)の事実については僕もその通りだと思います。あんまり政治学者が自分の研究に関連することをブログとかで書いてるの見たことないし,ブログ書いてても身の回りの話が多いのかなぁ,と。いろいろなところでそういうのは重要だ,という問題意識は聞くのですが,実際動くとなるとなかなか難しい。その背景については以下の話ということになりますが。次の(2)はちょっと違和感がありますね。「第一線で活躍する経済学者や社会学者」の定義はまあいいとして,kihamuさんのエントリに上げられていた牧原先生や待鳥先生という例から類推して,僕が多少なりともわかりそうな公共経済学に関連するところだと,若手で著名な人がブログなんかでバリバリ政策の議論をしているといえば,鈴木亘先生という非常に優れた例外を除けばそんなに多くはないのではないかという印象があります*1。さらに言うと,鈴木先生の議論は理論的にもはっきりしているし,様々な実証研究を踏まえたものとしてとても説得的で,(若手)研究者がブログを書くならお手本にするものではないかと思いますが,じゃあその鈴木先生の議論がネットで流通しているかといえばとてもそうとは思えない。公共経済学という分野を選んでいるところがセレクション・バイアスだ,と言われるかもしれませんが,逆にネットで流通してる議論ていうのは,僕の印象としては飯田先生をはじめとしたいわゆる昔「リフレ派」とか言われてた人たち(最近はそう言っていいのかよく知りませんが)の議論くらいじゃないかと思うわけです。kihamuさんが状況規定をするときに挙げていた雑誌をほとんど読んでないので詳しいことは分かりませんが,社会学者にしても似たような状況ではないかな,と。タイトルや書き手を見てみると,貧困や格差の問題について,資本主義やいわゆる「新自由主義」に対して批判的な議論が多いという印象を持ちます。そういう現代を論じたもので,本として出版されたものについてはある程度目を通したいと思ってはいますが,正直なところ僕ではついて行けない議論が多い。社会学者でも例えば太郎丸博先生筒井淳也先生の実証的な議論には親しみを感じるのですが,kihamuさんが意識している「社会学者」は必ずしもこの辺りの方々ではない気がします。やや回りくどいですが,僕がこの点について感じている違和感というのは,研究者の側の戦略,っていうのもあるんじゃないかということです。現在「旬」とされている話題について,実証的にはやや危なっかしいと思いますが(あくまで僕の印象),思い切った発言をするというのは,やはり研究者の側としても自分自身を賭け金にして,「社会」に評価されることを意識して投企しているところがあるわけで,そうじゃない人たちと比べると積極的に露出していくのはそうだろうなぁ,と思います。で,ネットを観察する方も,そういう研究者の方が見つけやすいということもあるわけですし。
(3)の話は,ブクマのコメントを引用したように,直接的には現在のところそもそも政治の議論に専門性が登場することが(社会的に)求められてないというのが強いのではないかと思います。今日の日経新聞鳩山首相の政治資金疑惑にコメントしているのが典型的で,ご専門である日大の岩井先生はわかるとして,もうひとりがなぜか漫画家の倉田真由美氏だったし。これは極端かもしれませんが,現状で政治の専門性に対する需要ってこんな感じでしょう。で,一方供給の方についてみると,(2)の話の裏返しですが,まあ一般的な政治学者にはネットで発言するインセンティブってたぶん殆どない。新聞とか『中央公論』みたいな感じの雑誌,オールドメディアって言われそうですが,そういうのについてはそれなりに書くわけですよね。あと,特に行政学地方自治だと,自治体職員さんが読むような雑誌ってかなりたくさんあって,そっちの方で書くことはあるわけです。それはひとつには読み手がハッキリといて一定の評価がされるから,ということなんだと思います。それに対して,ネットで何か書いても評価されることって基本的にないと思います(こういうエントリを書くことで知らないところで評価を下げてる可能性はありますが)。僕自身,今思えば分権委の観察ってまあ年間論文一本書くくらいの時間・労力は使ってきたような気がしますが,それを業績に書いても意味ないでしょうし,最近の就職状況では若手研究者がブログに労力使うのはまあ酔狂なやつだと思われることを覚悟する必要があるわけで,要はネットで積極的に発信するインセンティブは基本的にはないと。もちろん(2)で書いたような,「社会」に投企する研究者たちは全く別のインセンティブを持つことになるわけで,それを考えると,投企する研究者たちが増える〜ネットで声が大きくなるのは社会学>経済学>政治学というのが現状だということだと理解しています。たぶんこれは,政治の議論の専門性に対する需要の話ともリンクしていて,そういう需要が少ないから投企する研究者も少ない(逆に「リフレ」とか「貧困・格差」の問題などではそういう需要が比較的大きいから投企する研究者も多い)という複数均衡みたいな話が背景にあるように思います。政治学者が色々発信しないといけない,という問題意識を持っていてもなかなかそういう動きにならないのは,こんな複数均衡が背景にあったりして,とか思っちゃうのですが*2
(4)については,「民主主義2.0」ってよくわかってないのでなんとも言えませんが(そこまでちゃんと調べる,っていのは勘弁してください),kihamuさんのエントリから判断するに,代表制の刷新とかそういう議論なんだと思いますが,選挙があるんだったら調査でわかる人々の考え方と選挙の結果の関係を議論するだろうし,選挙制度を大きく変えることで例えば専門家の独裁とかそういう現象が見られれば,政治学者もそのときの観察をもとに議論していくのではないかと思います。ただ,そのとき「どうやって制度を変えるか」について意見を言え,っていうのは難しい。話として僕なんかはふつうの「民主主義」のところでモノを考えている人間だし,そういう点からは,例えば公職選挙法の一人一票規定とか変えたら面白いかも…なんて思ったりはします。ただ「代表制の刷新」が行われる制度がどんなもんか,ということを提案できるわけではない。これはよく「公共政策学とは何か」っていうので議論になるところですが,新しい政策(メタ政策=制度も含む)をどう作るかっていうのはやっぱり「アート」の世界であって,こちらについては確かにネット上で夢のある議論が展開できるかもしれませんが,kihamuさんが物足りないと捉えているPolitical Scienceの研究者はその効果を分析する「サイエンス」の世界で生きてると思うんですよね*3。少なくとも後者を中心にしてる研究者から見ると,完全な制度ってほとんど考えられなくて,基本的には現状と比べて何らかのトレードオフが出現することが前提になってくるので,「(研究の結果)この制度がダメ/素晴らしい」っていうことを言うのはあんまり考えにくいのではないかなぁ,と。その点ではkihamuさんのエントリにコメントした政治学者の卵さんの,

まあそれでも「有権者をよりよく代表するために選挙制度比例代表性にすべきだ」とかいうナイーブな主張を聞くと,自分の専門からはちょいと外れますが,小一時間問い詰めたくなるし自分の論拠は政治学系の人間は同意してくれると思うので,それなりに需要はあるし,誰かがやるべきなんだと思いますが.すいません,自分が定職についたら考えます.

っていうのは完全に同意で,それに近いものについて僕自身文句を言ったりもしてしまうわけです。
最後にもう少しエントリの実質的な内容に関連して書くと,kihamuさんが,「政治学のたそがれ?」を見て取る中には「民主主義2.0」という中身の中で資源の適正配分が議論される中で政治学が必要ないのではないか,というのはわかる気もするけど,それは「政治学」をどのようなものとして理解するかによるのではないかと思う。確かに「アーキテクチャ」を議論する中で,「工学と経済学のタッグでもって、法学・政治学に取って代わる」という野心が聞き取れる」というのはわかる気がするけど,それは従来の法学・政治学的な全体論的な啓蒙が難しいっていう話なんじゃないかな,と思う。いわゆる「戦後政治学」に対して,社会の高みから啓蒙的に議論することが批判されてきたわけですが,もう90年代を過ぎると,そういう全体論的な「あるべき姿」っていうのを構想すること自体(「大きな物語」とかなのかもしれません)がすごく難しいのは夙に言われている通りで,そういう「政治学」は正直なところ就職と言う観点から非常に難しいw。で,結局個別論的に望ましい姿を目指すとなると,リバタリアンパターナリズムっていうのは非常にわかりやすい考え方であって,Political Scienceの人たちとの親和性もあると思うところです。「政治学は対象の学問,経済学は方法の学問」とよく言ったりするけど,そういうかたちでの収斂も起こりうるし,また,「リバタリアンパターナリズム」を意識した制度設計がなされれば,その制度が本当にきちんとワークしているかを検証していくのはひとつの政治学者の仕事になるようにも思う。ただ,これはこれで非常に難しい。というのは,kihamuさんもコメントで書いているように,従来の日本の政治学っていうのは法学部に「従属」して,いわば管理の学問として扱われてきたところがあるけれども,ロースクールができて政治学が浮いてるのとも相俟って,今度は方法を扱う経済学に「従属」するハメになってしまうかもしれない。印象としては,独自性のポイントは実務との連続性(逆の端っこが経済学)のような気がするけれども,まあこれもずっと言われていることですが。

*1:もっと年上で著名な先生だと,例えば岩本康志先生とか他ある程度いらっしゃるのでしょうが。

*2:てことは状況を変えるとなるとBig Pushが必要ということか。ただ,じゃあネットに走れっていうとそうじゃないと思う。この優れた記事を読むと,この辺は新聞社の話に近いことがわかる。

*3:たぶん「制度」ではなくてそれ以前の「言説」レベルで検証を始めてみようとしたのが菅原さんの試みだと思う。この観点からも読まれるべきでしょう。

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