戦争指導と政党政治

以前から政治史ものを読むのがほとんど趣味のようにやってきたが(書いて貢献できないし),最近は学部1年生のゼミで『失敗の本質』を読んだこともあって,電車の中の読書は戦前の政治,とりわけ戦争関係のものが多い。特に,比較的年齢の近いお二人の書いた本は興味深く読ませていただいた。

「終戦」の政治史―1943-1945

「終戦」の政治史―1943-1945

特に鈴木さんの『終戦の政治史』は,あんまり考えてなかったことを考える機会となって,蒙を啓いて頂いたような感じ。あんまり考えていなかったこと,というのは,本書で扱う主要な問題である「戦争は,いつ,なぜ,どのようにして終わるのであろうか」という問題。これまで歴史モノを読むときでも,通常事実に即しながら「戦争がどうやって終わっていくか」というのを読んでいく,という感じになっていたと思うのだが,本書で扱うようにもっと一般的な問いとして議論することは当然可能なはず。「終戦」あるいは「継戦」というのは,あくまでも政権が選択する手段であって,様々な局面における「継戦」の判断の裏には「終戦」というものがありうるし,当然逆もそう。これは単に僕自身の見方が単純だったという話以上のものではないが,太平洋戦争の集結,というと,どうしても鈴木貫太郎内閣での御前会議における「聖断」に至るまで,「和平派」が最終的に勝利?するプロセス,というようなフレームで捉えてしまうところがあった。「継戦派」と「和平派」という対立は,もちろん分かりやすいわけだが,本書で議論されているように,中身はそんな単純なものではなく,最終的に「和平」を考えるグループも,戦争を有利に終わらせるために,局面によっては「継戦」を主張するということは,非常に説得的だと思う。
とりわけ,本書の2章で議論されている,1944年に太平洋戦争の開戦から続いてきた東条英機内閣が倒れ,小磯国昭内閣が成立した意味を,「和平運動」と「戦局打開運動」の合流,そして「東条・嶋田(繁太郎海相軍令部長)では戦争に勝てないという人事刷新運動になった」(93頁)というのは個人的には非常に説得的だった。最後には宮中の判断というのは出てくるとしても,政治においては一定の多数派工作が行われるわけで,ある種の党派性のようなものに沿って多数派工作が行われると考えるのは自然だと思われる。
そこで焦点になっていたのは,どれだけ有利な条件をアメリカに対して提示できるか,というところであって,それは戦争の展開に対する日・米政府の期待,裏表になるが「継戦のコスト」と「継戦によって得られるベネフィット」に依存することになる。たぶん後者の方をどう考えるかというのが難しいんじゃないかと思うが(こちらの方は本書では明示的には議論されてなかったと思う),講和を持ちかけるのが(劣勢の)日本からだとすれば,アメリカ側から見れば,ある時点で日本から出される条件で講和することと,戦争を継続することでその条件をよりよいものにすることができる期待を天秤にかけることになる。おそらく,日本軍の初期の攻勢を食い止めてから,いわゆる絶対国防圏を破って制空権を獲得するような辺りまでは,このベネフィットは非常に大きく増えていくだろうが,本土決戦が現実的になってくる中で,アメリカから見ても「継戦によって得られるベネフィット」が逓減することになると考えられる。他方で本土決戦となると「継戦のコスト」の方は逓増していくので,(限界的に一致して)講和の契機が生まれる,ということになるのだろう*1
そうすると,日本の政権にとっては,どうやってアメリカに「継戦のコスト」が高いように,「継戦によって得られるベネフィット」を低いように見せるか,ということが問題になる。そのために重要視されるのが,まず「アメリカに一撃を与えること」である。たぶんこれはホントに「一撃」だと意味がなくて,そういう「一撃」がまた来るよ,という期待を抱かせる事が重要なんだと思う*2。そして外交,具体的には「ソ連との関係が強くなる」ということを見せることがカードとして重要になる。アメリカから見れば,戦後を考えて日本がソ連の方によってしまうと,それを生み出す「継戦のコスト」が高くなるから講和に応じるのではないか,ということになる。まあ共産圏であるソ連とくっついて天皇制の維持ができるかが分からない,という状況ではブラフにしかならないという可能性もあるわけだが。
東条内閣から小磯内閣への交代は何を意味するか,というところに戻ると,まあ戦争指導の方針が手段として継戦を行うとしても,長期的な「和平」に変わったということになるのかな。実はここのところはよく分からない。確かに,「東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは,反東条運動が必ずしも和平運動・終戦工作ではなかったからである」(93頁)というのはそうなんだろうと思う。でも外形的には戦争を続けているのは同じなわけで,「中間内閣」っていう小磯内閣の性格自体はどういうふうに定義されるんだろうか,という感じはした。
当たり前なのかもしれないけど,今現在がそうであるように,内閣の交代っていうのがなんで起こるのかよくわかんないんですよね。いや正確に言えば,内閣の交代が起こるのは,政権内の多数派が変わったからだということなんだろうけど,多数派が変わったとしてその目的が何かハッキリしないし,それが選挙の洗礼を受けているわけでももちろんない。まあ戦争中に総選挙をするのは難しいのだろうけど(アメリカはしてたが),本書で議論されている東条内閣から小磯内閣への交代という出来事が,(僕自身は非常に説得的に感じたけれども)実際のところ本当に戦争指導において意味があったのか,小磯内閣が東条内閣とどのように違う方針を立てて実行していたのか,という検証は必要なのかもしれない*3
実際あんまり関係ない話かもしれないし,すぐに現代と結びつけて読むのは悪いクセかもしれないが,読みながら多湖さんのJPRの論文を思い出した。これは,イラク戦争に参加した「有志連合」の国が,「有志連合」から撤退するタイミングが選挙サイクルと関係ある,という話をしているもの。選挙で政権交代した新政権が「有志連合」から撤退するというよりも,選挙で撤退を訴える挑戦者(野党)がいる政権が選挙に勝つために「有志連合」から撤退するという主張になっている。なんていうか,すごく突き放したような言い方かもしれないが,「戦争を継続するかどうか」というのは目的ではなく(政権を維持・獲得する)手段である可能性もあって,それはもう本当に切羽詰っていた太平洋戦争末期の日本でも当てはまらないわけではないのではないか,と思ったりして。
ちょっと疲れたのでまたの機会にしたいが,森靖夫さんの『永田鉄山』で描かれる,陸軍内の派閥抗争が,あくまでも陸軍内の派閥抗争であって,国民の代表を巡る競争−政党政治−とは必ずしも同じものではないのに,結局国家の戦争指導を決めることになっていくという話も興味深かった(いや何か本の趣旨とは違うかと思いますので,あくまでもそういう読み方として)。でも実は,この二つの本を読んでる中で一番興味深かったのは,梅津美治郎という人だったりする。すごく重要なところにいたはずなんだけど,全然キャラが見えてこないんですよね(小磯国昭もややそういうところがある)。あんまり評伝ばっかり読んでる場合じゃないと怒られるかもしれないが,ちょっとこれから期待したいと思ったり。

*1:日本については,多分かなり早い段階で「継戦のコスト」が「継戦のベネフィット」を凌駕したと思われるが,問題はその乖離をなんとか最小化しようとしつつ,「今より将来の方が乖離を小さくできるのではないか」という誘惑に勝てなかったという風に整理できるんだろう。損切りできなかったというとそれまでかもしれないが,単にカネの問題だけではないので「損切り」のような単純な話でもないのも事実。

*2:その「一撃」で本当に全てを使い切ってしまうと,アメリカ側としては継戦の方にメリットが出てくると思うんだけど。

*3:本書では,第三章のはじめのほうで,陸軍参謀や重臣である近衛の話が講和も含めて打開策を考えていたことを議論しているけれども,小磯内閣の戦争指導についてはあんまり書かれていないように思う