「フクシマ」論

というわけで,「フクシマ」論について。他のところの評価でも出ているところだが,歴史や地元の様子をしつこく書いてる3章・4章が読ませるし,非常に興味深かった。逆に言うと,5章・6章がやや残念というか,微妙な一般化っぽい議論が乱暴な感じがする。地方自治の研究をしてる人間からすれば,そんな言い切り方するのは怖いなぁ,というところが少なくないので。しかしそれにしても,修士論文でこれくらい書ける筆力があるというのはホントに立派だと思う。最近では,修士論文を出版したあとで論壇デビューみたいなことも全く珍しくないわけだが,敢えて戦略的にそういうことを考えるとすれば(著者がそう考えているかどうかは別に),一般化できる薄いことを言うよりも,この本で扱うように,ひとつの重要なテーマについて世に問うというのは重要だろう。最近の政治学とか経済学は,とにかく投稿しろということになるわけですが,社会学ではこのように本として提示できるところがひとつの魅力だし,また,そうじゃないと伝える事ができないこともあるはずなんだと思う。

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

内容については,本書で議論されるように「ムラ」が原子力を「抱擁」する,というのは,敢えて政治学にひきつけて言えば,村松先生の「水平的政治競争モデル」の議論とか,稲継先生が論じられているように,戦前の地方長官に象徴されるような中央のエージェントのような「出向官僚」が,次第に地方の事情によって呼ばれるようになっていく,というような話に近いような気がした。ただ,政治学の議論と違うのは,本書でやっていることは,「水平的政治競争モデル」が提示した世界に何が残ったか,というような話なのかな,と。政治学では「水平的政治競争モデル」の後,地方の自律性について議論するとか(例えばリード先生),伊藤修一郎先生の仕事に代表されるように,単に「水平的政治競争モデル」ではなくて政策波及というものがある,というような展開になっていったと思う。でも,「水平的政治競争モデル」の帰結については,中央での(地方の代理人たる国会議員による)補助金の獲得競争のようなところは議論されるが,地方での帰結というのがあまり提示されてこなかったんじゃないか。
本書の鍵となるのは,おそらく「メディアとしての原子力」というところだろう。過疎の原子力ムラと,中央で政策決定を行う<原子力ムラ>(「反対派」を含めて)を「メディアとしての原子力」でつないで,両者が対称だ,という議論はなかなかに興味深いし魅力的。ただ,両者が「近代の先端」を夢見て共鳴してた,っていう話は分かるような分からないような…。このあたり,経済成長の議論と併せてもう少し展開されるとよかったのかな,と。
地方自治 (現代政治学叢書 15)

地方自治 (現代政治学叢書 15)

人事・給与と地方自治

人事・給与と地方自治

日本の政府間関係―都道府県の政策決定

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自治体政策過程の動態―政策イノベーションと波及

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