体制維新

前回のエントリは今までだらだらとブログを書いてきた中では圧倒的なアクセスを頂きました。はてなってブックマークによって読まれてる記事にポジティブ・フィードバックがかかるしくみになってるんですね。今回は前回の補足のような話。まあセンシティブなところがないわけではないので,書くかどうかはちょっと悩むところがありましたが,やはり少しでも読んで頂いた以上フォローするところがあってもいいのかな,と。
本書は,橋下徹氏が堺屋太一氏と共著で大阪都構想について訴えた本。堺屋氏のところはまあいいのですが,橋下氏の書いた部分については率直に言って驚いた。いや内容がメチャクチャで驚いたっていうわけではなく(実のところそっちの方が救いがあるような気もするが),あまりにもまともと言うか。僕なりに相当批判的に読んだつもりだが,時折出てくる大阪市批判にバランスを欠いたところがあるにせよ,全体として論理の展開は整合的だと思うし,議論されている内容,特に大阪府のマネジメントの部分(第4章 「独裁」マネジメントの実相)などは,他の政治家本もそれなりにたくさん読んできたが,そういうものとはちょっと比較にならない面白さがあって,つい引きこまれてしまった。たぶん,そんなのは成功事例しか書いてないんだから,割り引いて読むべきだという指摘はありうると思うが,そこに書かれているように政治と行政機関との間にある程度予測可能性のある決定ルールをしいて,政治の方がそれにコミットできていれば組織は回るかもしれない,と思わせるところがあるのは確か。また,少なくとも府庁組織の一部では,一定程度そのように組織が働いていると仄聞するところとも合致する。橋下氏の政治手法が「ポピュリスト」的である,というのは特に最近について納得するところはないわけではないが,だからといって,そういう人が書いたものだから全て批判するべきだ,というような姿勢も取りたくない。まあその辺がある種救いがないところなのかもしれない。
大阪都構想については第5章で議論されているのだが,これを読む前に前回のエントリを書いててよかった。内容は「大阪市が小さすぎる」「大阪市が大きすぎる」という問題意識を中心として,前半部分はほとんど同じといっていいくらい似通っている(苦笑)。ただし,前回のエントリで僕が強調したかったトレードオフという問題意識については全く触れられていなくて(ある意味当然かもしれないが),この点批判的なポイントは一応有効かな,と思うところ。
前回のエントリに対するブクマコメントなどを見せて頂いて改めて思ったのは,特に批判側の議論の焦点は橋下氏・大阪維新の会が集中した権力を握るというような状況を許すわけにはいかない,ということ。それはここでの言葉を使うと,基本的には「大阪市が小さすぎる」というような問題はないのだ,という理解になるのではないかと思う。ひょっとしたら,大阪府大阪市が(「大阪都構想」が主張するような統合なんてせず)連携することで解決できるんだ,という主張が来るのかもしれないが,それは権力に対する考えが若干ナイーブな気がする。連携って言ったって,高度経済成長期のように財政資源に余裕があるから余録で一緒にやりましょう,なんてことになるわけがなく,一定の権力関係が必要になってくると思う。だからこそ同日選挙や政党による調整というものが実質的な意味を持つ可能性があるんじゃないか,と書いてみたわけだが。
もう少し言えば,とにかくどこかに資源を集中させて(それは権力の集中も意味するのかもしれない),大阪の場合は都市機能を充実させていこう,というような議論に反対する側が,現在の大阪市という自治体における権力の集中をどう考えるのか,というのもひとつのポイントだと思う。それもやはり権力の集中が問題だから(言い換えると「大阪市が大きすぎる」から),権力の分散を図るべきだ,というとある程度筋が通ってくると思うが,こちらの方はたまに大阪市の方で行政区再編という話は出てくるが,権力を分散させるべき,みたいな哲学があるものともあんまり思えない。そこで出てくるのが「都市の一体性」という議論になるんじゃないかと思うわけだが,これは本当に難しい。橋下氏がツイッターなどでも批判しているように,どこで「一体性」の線を引くのか,というのが問題になり,現在の大阪市という領域に特権性を与えていいのか,という疑問が出てくるからだ。だからこそ,個人的には長期的な方向性を決めるふたつの哲学のうち,どちらに重きをおくのかについて,緩やかにでも対立軸があった方が,有権者としては選択しやすくなるのではないかと思うわけだが。残念ながら,現状の対立軸は,「どっちもできるよ」っていう人たちと,方向性がない人たちの対立になっているような気がする。

体制維新――大阪都 (文春新書)

体制維新――大阪都 (文春新書)

しかし,こんな議論をできる人が扇動家として非難されているというのは,ある意味で不思議で仕方がない。昨日から理由を一生懸命考えていたのだが,僕なりには,公的なものに対する理解(の違い)が根底にあるのではないかと思った。橋下氏に対する批判として多い類型は,「言ったことをすぐに変える」というものだと思う。逆に本を読むと,それなりに理由があって発言し,それなりの理由があって変えるということは分かるのだが,社会としては公的なものにおける一貫性というものに重きをおくところがあって,その感覚に不協和を生じさせるところに問題があるのではないか,と。これまでに積み上げてきた現状というものに対する尊重が感じられず,さらに簡単に自分の発言をひっくり返してしまうというようなところ。公的なものというのはもっと重くてそんなに簡単に変えることはできないはずだ,しかし簡単に変えてしまいそうで,それが(公的なものを積み上げてきた)社会にとって脅威に映るのかもしれない。
手前味噌ですが,それは僕がずっと考えてきたことでもあって,博士論文とその後の著書では「決定の一貫性」や「現状維持点」という言葉で表現しようと試みたものだったと思うところがある。

本書で整理した政策選択のメカニズムについての理解のポイントは,決定の一貫性と「現状維持点」の関係にある。決定の一貫性が保持されている限りにおいて,政策選択に関連するアクターが政治的論争の中心たる「公益」についてどのような想定を持つかに関わらず,地方政府における政策選択が「公益」を志向し続けているという側面を捉えることができる,と考えられる。ある時点における「現状維持点」は,それまでの「公益」に基づいた決定の積み重ねである。「現状維持点」からの変化を提案するアジェンダ設定にもかかわらず,最終的にそれが地方議会によって「公益」に見合わないと判断されて変化が発生しないのであれば,それまでの「現状維持点」が「公益」の実現を図る状態として存続することになるのである。すなわち,「現状維持点」が存続することは,以前の決定における「公益」への理解が持続することを意味する。
首長によるアジェンダ設定と地方議会の議決を経て決定された「現状維持点」からの変化は,全ての関係者が合意するような単一の「公益」に近づいたことを意味するものではなく,新たな「公益」への理解が設定されたと整理することができる。地域住民から包括的に「公益」の実現を委任される地方政府の政策選択について,このように「現状維持点」という概念を導入して分析を行うことで,単一の「公益」についての定義に依拠することなく,地域住民と地方政府の委任関係を軸とした分析を進めることが可能になると考えられる。

自著の引用って,ちょっと恥ずかしいですがすみません。実はここのところ,今まで誰にもコメントされたことがないところなのですが,僕が理屈の部分について色々報告する中で,佐藤俊樹先生にもらったコメントでヒントを得た所で(そんなの先生は忘れてるだろうけど),個人的にはもっとも衝撃を受け,思い入れのあるところだったのでした。

地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択

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