『中国化する日本』

那覇さんに頂いた本だが,これは非常に面白かった。部分部分については,専門家ではないので議論の実証的な妥当性については評価できないけれども*1,おもに「近世」から現代にかけての日本通史を,「中国化」「江戸時代化」というキーワードで整理し,現代が「中国化」に向かう流れにあるということを論証しようとする議論はスリリング。政治学界隈というか,社会科学の方法論みたいな議論では,特に実証的な歴史学がやってることは禁欲的すぎて含意に乏しい,みたいな批判がされることもあるかと思うが,こういう歴史のダイナミズムを解釈するという仕事は,そういう実証史学とは違うところの歴史学の醍醐味なのかな,と思う(少なくとも僕は好きです)。

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

読んでいて,色々と考えさせられるところは多かったわけだが,ここで言われる「中国化」「江戸時代化」のうち,少なくとも「江戸時代化」の方は,政治学で議論がなされているところの「クライエンタリズム」というものに近いのではないかと思われる。「少なくとも『江戸時代化』の方は」という表現にもあるように,実は「中国化」の方をどういう概念に当てはめていいのかは,ちょっとよく分からないところがある。これは政治学の方での「クライエンタリズム」という概念の置きどころの悪さ,ということだと思うのだが,「クライエンタリズム」に対置されることが多いのは「プログラム」(あるいはclientelistic approachに対するprogrammatic approach)という概念なのではないかと思われる。「中国化」もこれで理解できるところもあり,しかし全く違うところもあり,というのが最も考えさせられたところ。
何が同じで何がどう違うか。たぶんそれは「選挙」みたいなものを挟んだ概念であるかどうかということに起因するんじゃないかと思われる。Kitschelt and Wilkinson[2007]によれば,「クライエンタリズム」というのは,条件付きかつ直接的な有権者と政治家のやりとりであって,関係者の中での高い予測可能性や,政治家の側から有権者がちゃんと約束を履行しているかどうかについてのモニタリング(の可能性),によって支えられる,有権者と政治家の関係と理解される。このような「クライエンタリズム」が広く存在する政治体制の中では,政治家から有権者へと供給される財・サービスは公共財というより私的財/クラブ財に近いものになってくると考えられる。他方,「プログラム」の方は,反対に条件なしでの有権者と政治家のやりとりということで,政府によって提供されるプログラムによって有権者は広く薄い便益を受け,政治家は有権者のモニタリングをしないような状態が考えられる。政治家から有権者へと供給される財・サービスは基本的に公共財(一部クラブ財)であって,特定の有権者に対して差別的に便益が供給されるわけではない,というのがポイントになる*2
那覇さんがいう「江戸時代化」っていうのがぴったり合ってるのかはよく分からないけど,「イエ」的な中間集団を媒介として,有権者と政治家がつながり,有権者が政治家に「票」を提供する見返りとして,特定の有権者の「利益」になる公共政策が実施される,というのはまあ典型的な「クライエンタリズム」だと理解されるだろう。本書でも,田中角栄が典型的に戦後の再江戸時代化を進めた政治家だとされてるから,たぶん大筋では間違ってないと思うんだけど。で,おおもとの江戸時代でも,「票」とは言わないけどある種の「忠誠」を人々(下位者)が見せる見返りとして,上位者から「利益」が分けられる,という点では基本的に同じモデルになる。「プログラム」の方は選挙というもの抜きに考えにくいところもあるけど,そのコアになるものが人々を差別なく扱うユニバーサリズムにあるとすれば,ある意味で「中国化」と言えるところはあると思う。ただ,選挙抜きのユニバーサリズムというのをどう評価すべきか,ってのは残ると思うけど。
一般的には,経済発展が進むとともに,中間集団を維持するのが難しくなってきて,クライエンタリズムが崩れていく,というのがありうるストーリー。その辺は『中国化する日本』でも議論されているわけだが,もうひとつ,僕なんかはそう思うけど,そもそも「クライエンタリズム」自体非常に特殊な環境でしか成立しないんじゃないか,という風にも考えられる。まずもちろん「票」とか「忠誠」についてのモニタリングを可能にする中間集団の存在,というのが重要な条件になる。それに加えて,ちゃんと提供できる「利益」が存在することが必要なのではないかな,と。現代に即して言えば,財政資源の制約がきつすぎると,クライエンタリズムを維持するのが困難になってくる。日本でも1990年代以降の自民党の凋落にはそういう背景があるし,與那覇さん自身が書かれているように,1970年代以降世界的に「中国化」が進んでいるのは,結局のところ特定の集団に対する差別的な優遇をするにも資源が少なくなってきてるから,良くも悪くもみんな同じようにしか扱うことはできませんよ,って話のようにも思われる。
そういうわけで,本書を更に展開していくなら,(日本以外で)どういう条件で「江戸時代化」=クライエンタリズム??が進みうるのかという一般化もありうるのかな,と。個人的には中間集団や財政資源の余裕というのは必要条件のようなものだと思うけど,そこから先に,何らかの「文化」みたいなものを考えるべきなのか,というのは,わりと射程の広い政治学の研究としても成立するような気がする。
反対に,どうしてもよく分からなかった点は,「中国化」の中身。僕の感じでは,梶谷懐先生が指摘しているのとちょっと重なるところもあるけど,やはり「西欧化」あるいは「近代化」「資本主義」との関係がいまいち分からないところが問題なのかな,と。もう少し敷衍して考えていくと,本書の「中国化」の議論では,以前に佐藤俊樹先生が『近代・組織・資本主義』で書かれていたような,ある社会を走らせる「一次モデル」がよく分からないというところかと思う。佐藤先生の本では,日本と西欧のそれぞれにおいて異なる一次モデルを背景とした「近代」が成立することが議論されていて,その日本についての理解は実は本書の「江戸時代化」と近いところもあるんじゃないかと思われる*3。佐藤先生の本を補助線にすれば,「江戸時代化」を可能にする一次モデルというのは何となく理解できるような気がするけど,中国化の方は,僕に中国史の知識がないこともあって,ほとんど分からない。例えば,本書で議論されているように,「戦争中だから逃げないほうがアホ」(202)という中国人が,なんで正戦論で動きうるのか,というところあたりがどうも見えてこないわけです。あくまで素人の印象を言えば,きっと「中国化」というのは,佐藤先生が議論していた西欧社会的な一次モデルとは違うものがある何かなんじゃないか,と思うわけですが。ここが見えてくると,議論がより説得的になると思うし,敢えて言えば,政治学でいうちょっとよく分からない「プログラム」を考えるうえでも面白いんじゃないかな,と。
近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平

近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平

*1:例えば,僕がわかる範囲で言えば,「二大政党制の崩壊」が「世界中どこを探してもたぶん類例がない」のいうのはちょっとどうかと思う。少なくとも,最近ではカナダやNZは明らかに二大政党制から変化があるだろうし,イギリスも多党化とか言われてる。大正期の政党政治の崩壊は,「二大政党制の崩壊」という以前に,例えば竹中治堅先生が議論していたような「民主化の挫折」として議論されるんじゃないかな。

戦前日本における民主化の挫折―民主化途上体制崩壊の分析

戦前日本における民主化の挫折―民主化途上体制崩壊の分析

*2:Kitschelt and Wilkinson, 2007, Patrons, Clients and Policies: Patterns of Democratic Accountability and Political Competition, Cambridge UP.

Patrons, Clients and Policies: Patterns of Democratic Accountability and Political Competition

Patrons, Clients and Policies: Patterns of Democratic Accountability and Political Competition

*3:ただ,『近代・組織・資本主義』では,日本社会における「中国化」=その他の近代の可能性(でいいのかな?)が議論されているわけではないから,本当に「似てる」っていう理解がうまく成り立つかは分からない。