私塾と政党

大阪維新の会の「維新政治塾」をはじめ,滋賀県嘉田由紀子知事の未来政治塾,愛知県の大村秀章知事の東海大志塾河村たかし市長の河村たかし政治塾,そして最近は大阪府知事選挙に敗れた倉田薫前池田市長薫風政治塾なんてのを始めた,という報道もあるなど,政治塾がやたらと華やかになってきたこの頃ですが,この手の私塾の歴史って,政治思想史的にどうなのかはわからないですが,現代政治をやってる人間が思想史をつまみながら読むのには面白いかも,と思ったり。
というのは,日本政治の中で私塾ってちょっと政党みたいな役割を果たしてきたんじゃないかと思うところがあるわけで。もちろん,幕末の松下村塾なんてのはその典型でしょうし,その後の立志社とか,あるいは初期の慶應義塾だって,政治活動を意識して特定の方向性を持った思想を教育するというところがあったんじゃないかと。そういった「教育機関」で教育を受けてきた人々が,ある程度のまとまりとして動くみたいなイメージ。いま乱立してる政治塾だって,そこで教えられている内容はどうであれ,とりあえずは卒業生がある特定のイデオロギーを体得し,そのもとで行動するという前提で作られているように思われる。だからまあ卒業生たちのまとまりはある意味で「政党」みたいなところが出てくることが期待される,と。
理念的な「政党」との比較を考えてみるとちょっと興味深いかな,と思う。「政党」というものは共通の目的を持つものというイメージなわけだけど,近代的な観点から言えば,一定の教育を受けてきた人たちが,自分自身で(社会的な)目的というものを認識し,共通の目的を持つ人達と組織・団体を作ることが想定されている。それに対して「私塾」の方は必ずしもそうじゃないのではないか。つまり,もともとは白紙だったひとたちが,教育を受けて共通の目的を持つようになる,と。まあ雑な整理ですが。
そういう整理が妥当だとすれば,「私塾」と「政党」では,目的や組織・団体に対してコミットするタイミングが違ってくる。「私塾」の場合では,共通の目的みたいなものがはっきりしてない時点で「私塾」に対してコミットし,まあ脱落する人もいるだろうけど,塾を終了した人たちは基本的にある政治課題に対して同じような反応をすることが想定される。その意味ではもともと多様性なんて期待しづらいところがある。それに対して「政党」の場合には,あらかじめそれぞれが受けてきた教育をベースにしたうえで,選択的な「共通の目的」にコミットすることになる。だから,共通の目的はあるとしても,他のところではそれなりに多様性があることが期待されるのではないか。
違うところのポイントは,やはり意見の多様性だろう。各個人の主張の根拠が教育にあるとすれば,私塾の場合は教育のソースが同じだから,いちいち同じ政策課題に対して構成員はみんな同じ反応が期待される。同じ反応をできなかったヤツは,要するに「わかってない」ってことで,場合によっては追放の対象ともなるだろう。他方,政党の場合はもちろん別々に教育を受けてることになってるから,当然ある政策課題に対する反応は様々になるはず。だから,同じ政党の中でも個別の問題で意見の対立はありうるだろうけど,大義というか共通の目的を実現することが重要だから,そこじゃないところで意見の対立があっても放逐されることはないだろう。まあ政治状況との兼ね合いにもよるだろうけど,政党内で反対を表明した上で,自分の意思は自分の意思として所属している政党全体の意思に従うこともできる。どうしても妥協できないところで揉めたなら,政党から出ていくこともできるわけだし。
僕自身は近代に毒されてるとこがあるので,「政党」というようなモデルに魅力を感じるわけだが,それが難しいこともよくわかる。「共通の目的」を持ってるはずの政党が中で割れるっていうのはなんだかよく分からない感じがするし,いまの民主党みたいに結局「共通の目的」って政権の維持だけやんけ!ってツッコミもありうる。利権だけでつながるように見える政党がいやになって,「私塾」が一糸乱れぬ規律を維持できて魅力的,っていうのもわかるような気もする。ただまあ「私塾」みたいな感じになってくると,組織・団体を越えた妥協ってのが難しくなるだろうなあという気はする。「私塾」同士ではなかなか足して二で割るような解決はできないだろうし。
眠い頭で書いてて思ったけど,「私塾」っぽい政党?が求められてるとしたら,それはちょっと政治学教育の問題でもあるよな,自戒を込めて。たぶん「政治学」があんまり客の来ない「私塾」っぽいところもあったんじゃないだろうか。最近のリベラルアーツ教育で言われる「良き市民」みたいなモデルって,「政党」の基盤になるようなものであるはずだけど,それもすぐに何とかなるってわけじゃないし。しかし,大学は「私塾」ではないので,それがすぐに何かの役に立つかわからんにしても,「共通の目的」みたいなものは,いつも疑った上で,それを抱えながらコミットできるような意志決定の仕方−それは「政党」が想定してる人間像でもあると思うけど−を助けるような教育ができればよいのかな,と思ったり。