明治の政党論

9月9日に行われた大阪維新の会の「公開討論会」というやつは、まあその各論の内容は脈絡ない話が飛び交っていただけのような気がするが、ああいう会自体が行われたことに大きな意味があるということだろう。「地方政党」であった大阪維新の会という存在に対して、首長経験者や現職の国会議員が馳せ参じ、まあお追従のような「意見」をいい、将来はわからないけど「価値観が一致した」ことを内外に示すことになった。
まあもともとそういうことになっていたのだろうけど、馳せ参じてきた首相経験者や国会議員に対して、元からのブレーン/有識者*1が質問を浴びせるという形式は、まあ完全にテストみたいなもの。大阪維新の会の幹部はそろっていたものの、副代表・副幹事長・副政調会長といった面々が話をすることはほとんどなく、そもそも「参加者」として新聞などで紹介されることもない。そんな中、平議員たちはツイッターでテストされる参加者に文句を言うという、まあなかなか不思議な会であった。
全部聞いてたわけではないけど、唯一印象的だったのは、有識者として参加されていた北岡先生が冒頭にしゃべっていた内容。録画の1時間09分ころから始まる内容だが、アバウトに起こせば以下のとおり。

私自身は今日の会議はとても重要な会議だと思っています。明治13年に…そのちょっと前にできましたが愛国社によって明治13年国会期成同盟というのができるんですね、それがまさにこの大阪で行われた。さっき控え室で雑談をしてるときに、こういう会合っていままであったのかな、って。あったんですね。そのときに、まだ明治政府も完全にできていない時に、いろんな人が集まって…当時、民権運動の中心は土佐ですから、土佐からきやすいということで大阪だったんですが、もうひとつは東京ではないところで何とか運動が起こるのがひとつの意味だったわけですね。
西南戦争という武力反乱が潰れた。これが明治10年ですね。その後ちょっと時間を置いて、民権運動というのに一本化したんわけです。それがこの国会を作ろうという一つの運動になって起こってきた。これは言ってみれば、大阪維新が日本維新として全国化を目指すということで、改めて綱領・政策を考えようという時点かな、と思っています。

北岡先生が意識されているのかわからないが、ここのところの大阪維新の会の話を、明治初期の政党論とあわせてみるとなかなか興味深い。山田央子先生の『明治政党論史』によれば、立志社から愛国社を経て自由党となる組織形成過程を見ると、その組織形成原理には、二つの異質な面が共存していたという。やや長いが以下の引用は、まさにこれからの大阪維新の会を見るにあたって非常に重要な視点になるのではないかと思われる。

「人民の権利を伸長し、生命を保ち、自主を保ち、職業を勤め、福祉を長ずる」ことに志を同じくした者達が「相共に結社合力」してその志を遂げるために団結するという西欧における<自発的結社>のあり方が主張されると共に、そうした結社の範型として日本の「旧俗」、すなわち「組合」に象徴される<伝統的な社会結合>のイメージが想起されているのである。これは、単純に、新たに摂取しようとする西欧の慣習を、伝統的な慣習との連続洗浄に受容しようとする姿勢を示すものというよりは、むしろ西欧的な「結社」の観念に触発されて「自修自治の志」を立てようとする者によって、近世の「組合」の中に含まれていた、多くの同列的な関係間の、そして自発的契機に支えられた結合としての側面が再発見されていったものと考えるべきであろう。しかし、「組合」は自発的結合のみをその特色としたのではなかった。西欧から帰国した留学生たちがその見聞に基づき次々と設立した「社」や「会」が、相互に自由に交流する雰囲気を有していたことを<自発的結社>のもう一つの特徴とすると、一般に「組合」は、その相互扶助的な性格ゆえに内的結合を重視する排他的な傾向を有する集団であった。「組合」に内在していたこうした内向きの傾向は、この時点では意識されなかったのであろうが、それは自由党の結成、更にその展開の過程で次第に強まっていったと考えられる(35-36頁)

山田先生によれば、自由党は「一揆」の伝統に基づく組織原理、あるいはそれを引継ぐ幕末以降の脱藩浪士によって結成された共同体の観念を引き継いでいるところがあるという。本来自発的なものであっても、「日常的諸関係を断ち切り、誓約をかわして結合し、その結合を神的なものにまで高めた一揆の伝統」が想起される結合のあり方である。そんなことを考えると、今回の「公開討論会」で、「価値観の一致」が何よりも焦点化されているのは、ある意味で当然というか、極めて伝統的なスタイルでの結合の仕方であることがよくわかる。引き続き山田先生の本から愛国社の合議書の冒頭を引用すると、以下のようになっている。

我輩此社を結ぶの主意は、愛国の至情自ら止む能わざるを以ってなり。(中略)今此会議を開き、互いに相研究協議し、以て各其自主の権利を伸長し、人間本文の義務を尽くし、小にしては一身一家保全し、大にしては天下国家を維持するの道より、終に以て天皇陛下の尊栄福祉を増し、我帝国をして欧米諸国と対峙屹立せしめんと欲す。乃ち今此の主意を達せんと、為に約款を立諚する者左の如し。*2(37頁)

まあ非常にわかりやすい「価値観」。ていうか、これ、現代語で書かれたら今の話だと信じる人は続出するのではないか。
なお、自由党はこのあと分裂し、解党していく。大きな分裂の原因は、<自発的結社>の原理と<伝統的な社会結合>の原理の矛盾が先鋭化し、結局<自発的結社>の原理を重視する人たちが脱党することにあった。それは<伝統的な社会結合>の原理が勝利したことを意味し、このあと自由党の中で「大義への献身」への要求が強まっていく。軍隊のような「組織」の論理が「結社」という自発的行為をはるかに凌駕して、党員には全人格の没入を要求していくのは必然的な流れだろう。
山田先生が指摘されているように、解党は、まさに軍隊組織としての行き詰まりを示すものであった。引用されている「解党大意」は以下のようになっている。

彼の軍旅を見よ(中略(分隊−小隊−大隊−連隊−旅団という編成))。而して其根本の号令は一に旅団長より出づるといえども、之を分司挙行して進退開閉聚散の万機能く其意の如くならしめ、整然として紊れざる所以のものは、部将各其職務を尽くし、声息の全体に貫通するを得るが為めなり。有形的組織の一大政党を治むるの理、何ぞ亦之れに異らんや。然るに集会条例の行はわれてより、分社分局を地方に置くことを得ずして、我が党派は実に彼の一旅団が唯其大将ありて各部将あらざると一様の有様を生じ、相乱れて殆ど復た拘束すべからざるに至れり。我党之を憂へざるに非ず、唯統治の術なきを悲むのみ(41頁)

ただ、組織化すること自体が悪いわけではない。政党政治の中で組織を作るのは極めて重要なことである。しかし、明治期にはこのあと、ざっくりといえば観念的な結合を重視する「政党」と組織としての有り様を重視する「政社」という概念の対立が起こり、「政社」が問題視されて「政党」であることが求められるようになる。「政社」というか、明治期において自発的な結社の組織化をすることは、政府から危険視されたからである。この辺正確にはわからないけれども、結社を規制する「治安維持法」が施行されていく文脈とも関連するところは大きいだろう。「政党」を標榜する人たちが、組織ではなく観念の結合を重視し、組織としての側面が落ちていくのである。この辺りは自由党の「解党大意」からも伺えるところ。
僕なんかは、政党法などによって政党を公的な組織として法的に位置づけるべきだと考えているけれども、それはある意味で「結社」を規制するという、明治において政党人たちが忌避してきたところでもあるのだろう。今回結成されることになった「政党」の推移は、歴史に学びながら観察されるべき、ということなのではないか。

明治政党論史

明治政党論史

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

*1:大学教授はみんな「大学教授」と紹介されたのに、なぜか高橋洋一氏のみが「経済学者」として紹介されていたのがちょっと面白かった。

*2:このあとは引用されてないけども設立メンバーが並べられると考えられる