ルポ 虐待

発覚した時から気になっていた事件でもあり、一気に読んでしまった。一応幼い子持ちの父親としてはかなりしんどいところがあり、読後感は相当苦い。事件が報道されている時から被告となった母親−判決が確定しているから受刑者というべきか−を社会的に責めるのは難しいだろうとは思っていたけども、本書を読むと、それ以外の関係者だって簡単に責めることはできないだろうなあという気になる。もちろん、読みながら部外者としてこのときに何とかなっていればと思わせるところはあるけども、まあそれは言っても詮無いことで。
著者も強調しているように、ポイントは、母親がその責任を強く感じるあまりに助けを求めることができず、他方で周りも積極的に介入することをためらっているという構図なんだろう。母親が責任を感じている、というのは結果から見ればそうではないと理解すべきなのかもしれないが、成長過程や人格障害等の影響を積み上げた本書の議論には納得させられるところが大きい。周りにしても、多くの人がシンパシーは持っていて、何とかしたいとは思いつつ、自分の生活を抱えながら自分から深く介入は行わないというのは理解できる。その「周り」は親族や友人というだけではなく、行政も含まれると考えるべきなんだろう。湯浅誠『反貧困』の有名な主張である「社会から溜めが失われている」というのが引用されていたが、それはまさにそのとおりで、個人にも行政にも溜めがないからこそ介入することができない、という事態になっていて、それが悲劇に結びついたと。
本書を読むと、この事件をめぐって社会的信頼をどう考えるかについて非常に考えさせられる。周りの介入が最終的にうまくいかないのは、介入される側である母親が「信頼に値しない」と判断されるからなのだが、母親の側では障害(確定したものではないのだろうが)を含めた事情がありつつ、「信頼に応える」行動をとり続ける行動がなかなかできず、周りは自分の信頼が裏切られたとして介入を諦めてしまうことが多い。他方で、母親の側も、周りに頼りたいと考えていても、途中で周りとの間で信頼関係が崩れることでそれを放棄してしまう(周りから見れば、母親が信頼に値しないからこそ関係が崩れることになる)。
かつて山岸俊男先生が、『安心社会から信頼社会へ』の中で集団内の人間関係を感知する能力を重視する社会から、集団外で信頼できる人間を感知できる能力を重視する社会に移りつつある/移るべきという議論をしていたと思うが、この事件はまさにその移行が問題であり、現実にうまく行っていないことを示すもののように思われる。本書を読む限りでは、母親は集団内の人間関係を感知することはできていて、それゆえに言うべきことを言えなかったり、現実から離れてしまうことが少なくなかったように感じた。
ひるがえって、自分の周りにそういう介入が必要とする人が現れたとき、介入できるかといえば率直に言ってその自信はない。個人的には、どちらかと言えば、誰が信頼できるかを見極めることが重要だと思っているところがあるわけで、むしろ信頼に値しないと判断してしまう人との関係を取り結ぶことを放棄することは少なくないように思う(自戒を込めて/しかしそれが責められるべきとは思わないが)。そういう態度は、山岸先生が議論する移行において適応的な態度だと考えるけども、しかしその能力において分極的な社会ってのはそもそも維持可能なのだろうか、というのは非常に難しい。まずは自身を愛し他者を尊重する教育が重要だ、というのはそのとおりなのだろうけども…。

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

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反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

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