境界を設定すること

ちょっと前に松沢裕作先生の『町村合併が生まれた日本近代』を読んだ。以下これに関連して考えたことをつらつらと備忘のため。本書については、実のところはじめは明治の大合併においてどのような町村合併が行われてきたのかを分析するものだと思ったんだけど、メインテーマはそこではない。町村合併を可能にした条件として、町村合併の前段に人々が生きるために「村」に帰属し、「村」の単位で外の世界と接触していたのが、個人という単位として扱われるようになっていたことを議論するところにある。それは要するに人間が「村」ではなく個人として国家との関係を結ぶことを求められるようになったという変化を描くということで、実のところ「明治維新」よりもラディカルな社会革命を描いたものだと思う。
一番興味深いと感じた議論は、村役人という近世村のリーダーたちが「村」をめぐる負担−「村」単位で税金を納め村請制のような制度−に耐えかねる中で従来の制度(近世的な「村」)を壊していかなくてはいけないという事態に直面し、またその点で中央官僚と同じ方向を向いていたという議論。要するに、自立できる個人が、自立できない個人を振り落とす過程でもあったのではないか。なんかこう書くとすごく悪いことが起きていたようにも読めてしまうが、一定の財産を築いている人たちが個人として「余計な」負担を負わずに済むようになったことで資本蓄積が進んでいくような面もあったように思える。本書では、個人が「村」から自立して生きていくために「市場」が徐々に成立してきたことを背景として議論していて、それは確かに何もなしでは自立できない人たちを救うというか無理やり自立させるための条件になったと思うのだけれども、個人的には相対的に裕福な村役人などが「自立」(というか個人化)していこうとしたことが変化の条件であったように読めて非常に面白かった。
まあ僕の関心はいいとして、本書の議論で重要なのは、町村合併というのが従来の「村」から切り離された「個人」の集合、「自治」の単位を引き直す試みだったという指摘である。町村合併以前の発想では、あくまでも「村」という共同体の中に人々がいたわけだが、その人々が「個人」となってきたときに、新たに「個人」が集まって公共財を供給するような「自治」の単位が問題になるわけだ。そこで、従来の「村」とは違う、新しく必要な公共財供給を考えたような「自治」の単位として町村合併による相対的に広い自治の単位が生まれることになる。著者はそこに権力的な作用を見るわけで、それは非常にうなずかされる指摘である。
明治の町村合併以降、昭和の大合併・平成の大合併を代表とする市町村合併で起きてきたことは、「個人」の集まりである「自治」の単位を設定し直すことにほかならない。基本的に「自治」の単位は単線的に拡大を続けていて、その背景には基本的な「自治」の単位において供給されるべき公共財が高度なものになっているとともに、なるべく効率的に供給を行うことが求められているからだと考えられる。それが「真実」かどうかは別として、20万人とか30万人っていう単位が効率的な自治の単位だとされていて、それを目指して合併が進められたりもする*1。まあ要するに、効率を基準にして「自治」の境界を引き直しているわけだ。
こんなことをつらつら思っていたのは、『来るべき民主主義−小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』という本を仕事の都合でざっくり読んでいたからだろう。「住民投票制度を考えました!」みたいな話は正直言って読むのが苦痛だったのだけど、ここであんまり議論されてないことが面白いなあ、という感じは持った。それは山下ゆさんも指摘しているんだけど、「自治」の範囲の違いである。この本で議論されている住民投票は、東京都というより広域の「自治」体の事業について、小平市という相対的に狭い「自治」体の範囲で意思決定をするというちょっと不思議なものになっている。まあ「ちょっと不思議」、と書いたけど、実はそこまで不思議でもなくて、自分たちの「自治」を侵されようとする人たちの異議申立てについては認められるべきだと思われる。拙著『大阪』でもこれに近い話を書いたわけだが、都市としての成長を促して将来の自分たちにとっても望ましいものであると考えられなくなったような事業では、それによって被害を被る人たちを十分に補償できるものではなく、厳しい反発を受けることになるのだろう。日本全体でフロンティアが消えている中で、ヒトの流動性が低下して、大きな移動を伴うような事業が難しくなっているということもあるかもしれない。
ちょっと思ったのは、むしろ小平市という単位をより小さい「自治」の境界に引き直したらどうなんだろうかと。もちろん、この道路一本をテーマに分市するような話は馬鹿げてるので、単に思考実験だけだけど、現在よりももっと「自治」の単位が小さくなれば、その単位では住民が考えていることはより一致していて、この都道のケースなどでも投票率50%を超える!とかあるのかもしれない*2。しかしそうは言っても、現在の「自治」の単位を分割するプロセスっていうのは明らかではないし、そもそも合併と違って分割の場合、だれが新しい「自治」の主体になるのかもよくわからない。その辺の町内会が正統性を持つかといえば話はそんな単純でもないだろう*3。そう考えると、「自治」の範囲を大きくするかたちで境界を引き直すこと自体が非常に権力的な振る舞いであって、「自治」があんまり強くないイギリスや日本で基礎自治体が大きいというのはまあむべなるかなという感じなのではないだろうか。
じゃあこれからどうするか、と考えると難しい。大きく分けると2つ考えられるのではないかと思うけども。ひとつは書いてきたように、より小さい境界で「自治」を作りなおそうとすることではないだろうか。とはいえ、どういう手続がありえるのかよくわからない。まあ「喪われた共同性を回復する試み」というのは個人的にはちょっと距離を取りたいところがあるけども、基礎自治体でも小学校区・中学校区単位の共同体の再生みたいな取り組みをさんざんやってるし、そういうより小さな「自治」が機能する将来はありうるのかもしれない。もうひとつはまあ現状の境界を所与としてその中の自治を活性化するという発想で、個人的にはこっちの方にシンパシーがあるかなあ。ただそのためには自治体の議会や政党というのが決定的に重要になってくる。合併の当初は、大選挙区の地方議会でそれぞれの地域(元の「自治」の領域)を代表する議員たちが選ばれて利害の調整をする、ということもあったのかもしれないけど、今ではそれが機能しないというのがこの間の様々な問題の原因になっているんじゃないか。「自治」の領域が広くなり、住んでるところが遠くても、同じような利害で結びつくことはあるし*4、ゆるやかな政党というかたちで結びつくことになれば、住民も政治参加に有効性の感覚を持つことができるのではないだろうか。そのためには、個人的には例えば現在の大選挙区制をやめて、比例代表制−現実的には投票方式にほとんど変化がないかたちで移行できるように非拘束名簿式比例代表制が現実的ではないかと思っている−のような制度で議会や政党を活性化することを考えてはよいのだろうかと考えるところ。…なんか『町村合併から生まれた日本近代』からエラく遠いところに来てしまった。

町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ)

町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ)

*1:そう考えると、「効率的」でない規模の自治体にいる人たちが、「効率的」な規模の自治体にいる人たちと同率の地方税を払っていて、それで足りない分は国から交付税として補填されるというのはある意味で不思議な話ではある。

*2:なお、東洋経済の連載ネタに使えるかなあと思って、小平市選挙管理委員会に投票所ごとの投票率データを問い合わせたのですが、一番投票率の高い地域でも35%程度でした。

*3:ずいぶん前にも書いたようにインドネシアではこの手の分割が進んでいるのだが、どういう感じになってるんだろうか

*4:この点で言えば、先ほどの小平市の投票所別投票率で、最低が20%くらい、というのはそれなりに驚きではないだろうか。