大学における民主性と専門性

大阪市立大学法学部法律相談所の『知法会誌』に書いた記事です。市大法学部では、法律相談所の学生のみなさんがこういう雑誌を定期的に発行していて、教員も簡単なエッセイを寄せるということが行われています。私が書いたのは初めてだったのですが、〆切が2013年9月末だったので、大阪市大の教員として書いた最後の文章になるかと(まあ〆切遅れましたが…すみません)。当時ちょっと思ったことを書いたエッセイですが、せっかくなので。内容はやや違いますがより洗練された論考を読みたい方は、同じ市大法学部の守矢健一先生による「理論と自由」『UP』2014年1月号をどうぞ(『書斎の窓』のように『UP』をウェブで読めたらいいのになあ…と言ってみる)。)

私が専攻する政治学の一分野である行政学にとって、最も重要な任務のひとつは、政治家と官僚制の関係――政官関係――について分析を行うことである。人々の中から選ばれる政治家は、社会の雰囲気や人情の機微に通じ、決断力を持っているかもしれないが、個別具体の政策について細かい了解を持つわけではない。それに対して行政を担う官僚は、それぞれの専門分野のエキスパートとして情報を蓄積し、政治家の指揮のもとで人々にとって望ましい政策の実現を目指す。政官関係の分析とは、人々の負託を受けた政治家が、専門家によって成立する官僚制を適切に指導監督しているかを研究するものということになる。
分析のポイントは、専門家集団である官僚制の自律性である。自律性とは自らが関わることについて自ら決定を行うことを意味するが、官僚制は政治家からどの程度の自律性を持つべきなのだろうか。政治家の意思とは独立に自ら行動の目的を設定し、それを追求することは許されるべきだろうか。反対に、官僚制は一挙手一投足を政治家によって縛られるべきだろうか。その答えは簡単ではないが、仮に官僚制が政治家から独立してその目的を設定するようになれば、人々による民主的な統制とは名ばかりのものになるし、他方で官僚の行動のすべてを政治家が規制すれば専門家など存在しないことと同じである。政官関係についての分析とは、このような民主性と専門性のバランスを考えることでもあるわけだ。
このような専門家の自律性が論じられるのは、官僚制だけではない。社会が複雑化して専門分化が拡がっている中で、社会における様々な専門家集団をどのように統制するか、言い換えれば、専門家集団にどのような自律性を与えるかが非常に大きな課題となっている。例えば東日本大震災では、原子力発電に関わる専門家集団の自律性が大きな問題となった。原発事故による放射性物質の汚染がひとたび出現すれば、それは原子力発電に関わる専門家が手に負える範囲を大きく超えて被害が拡散する。しかしそれにもかかわらず、事故が起こるまでは原子力発電に関わる専門家は高度な自律性を保持しており、民主的な統制を拒否してきたところがあった。特に原発事故後の日本では、専門家に色々と委ねきりにするのは非常に分が悪い状況である。

翻って専門家の端くれを名乗る自分の身を考えると、大阪市立大学はまさにこの民主性と専門性のせめぎあいのさなかにあるように見える。府市統合を推進する執行部によって提示される論点は、ことごとく専門性を標ぼうする大学の自律性を否定することばかりである。(本当かどうかは別として)強力な権限を持つ教授会が専門性を盾に民主的な統制を拒否する組織だから、その組織の要諦である人事権――新任教員人事や学長・学部長に関する選挙権など――を奪い、「民主化」しなくてはいけない、という主張はその筆頭であろう。他にも、専門家として所属する組織の再編成や、金銭的なものをはじめとした研究のための資源――確かにこれは税金によって賄われるものが多い――の使い方をコントロールすることなどは、望ましくない自律性を発揮してしまう専門家を民主的な統制に服させる重要な手段であると考えることができる。
全国に数多く存在し、一括りに考えることが難しい国立大学とは異なって、基本的にひとりの首長がひとつの大学と向かい合うかたちになる公立大学では、民主性を象徴する首長が専門家を統制しようとする構図が特にあからさまになりやすい。そのような動きに対して、この専門分化した時代に、素人である政治家が専門家を細かくコントロールしようとするのは時代錯誤のポピュリズムであるという批判は非常に簡単だろうし、実際そのような批判は絶え間なく行われている。また、過剰に専門家を統制しようとする府市や大学の執行部の意思が、人々の意思と乖離しているのではないか、と問うことも不可能ではない。何よりも、もはや純粋な地域住民の負担だけで大学を成り立たせることができず、研究成果や教育の成果(卒業生)が地域内にとどまるわけではないという現実の前で、地域住民による地域のための大学というのはフィクションでしかない。
とはいえ、この構図が、専門家として大学に所属する教員たちに、その活動の帰結を考えることを迫るのも事実だろう。大学という制度自体が社会的に重要な機能を果たしていることは確かだとしても、個々の大学という単位を専門家の集団として捉えたとき、政官関係によって統制される官僚や、例に挙げた原子力発電に関わる専門家と比べて、社会に与えるインパクトは心許ないのではないか。純粋に専門的な研究機関ではなく、学生の教育を担う大学という機関では、特定の専門分野に属する多くの研究者を集めるよりも、フルラインで多様な研究者を集めることが要請される。フルラインで研究者を集めることが求められる中で、集めた専門の微妙に異なる研究者に無理やり「コラボ」させるのも、悪く言えば組織単位で何かが生み出されることを示すためのアリバイに過ぎない。そのような大学が、そもそも統制されるべき「専門性」を抱えているのだろうか。
曲がりなりにも大学に籍を置く身としてはややラディカルな物言いになるが、要するに、研究者というヒトではなく、大学というハコの問題として専門家の統制を考えることに無理があるのではないだろうか。研究者の「専門性」を判断しうる大学の枠を超えた研究者コミュニティとは別に、個々の大学自体が大学という単位で研究者の「専門性」を評価することはできず、「民主性」の観点から大学に改革を求める動きは、結局のところ個々の大学という単位でのあやふやな「専門性」を世間に晒すだけに終わるかもしれない。反対に言えば、ハコを統制することは、必ずしも(世間に悪い影響を与えうる)専門家の集団を統制することにはならないのだ。
大学が普遍的な知識を生み出す拠点であり、そこに「専門性」の意義があるとすれば、一国の国民や限定された地域住民への奉仕を求める「民主性」の理念とは相性が悪い。一研究者としては、大学というハコを通じて研究者の統制を図るよりは、一定の自律性をもった研究者を集めるハコとしての魅力を高めることを考える方が生産的であるように思える。ただし、既存のハコがその存在意義を問われずに永続するわけはない。口幅ったい言い方だが、われわれ大学に勤務する研究者を統制するのは、大学という制度を通じた政治からの直接的・民主的なプレッシャーではなく、真摯に研究に向き合うことで自らを律しようとするプレッシャーであるはずだ。言うまでもなく、それはどの大学に勤めていても同じことなのである。
ガバナンスということばで端的に表現されるように、最近の大学改革は、「専門性」を抱えた大学という機関を統制する行政学的な発想が強い。しかし、(行政学者が言うのもどうかと思うところはあるが)ここまでに指摘したように統制されるべき「専門性」が何かということを問い直すことによって、その行政学的な発想の限界を理解し、大学という機関により適した統制のあり方を考えることができるようになるのではないか。