アカウンタビリティと説明責任

ちょっと先に人前でしゃべる仕事があり、「アカウンタビリティ」概念を軸に話をしようと思っていたが、どうもこの概念は一般にきちんと理解されているとはいえないと思われる。そこで、日本で「アカウンタビリティ」という言葉がどう使われてきたか、ということをざっと調べていたらこれがなかなか面白い。
まず確認として国語辞典で「アカウンタビリティ」を調べてみた。ウェブで見ることができるデジタル大辞林では、「説明の必要な事柄、また、説明を求められた事柄について当事者が十分な説明を為すべき責任」とされていて、アカウンタビリティの訳語が「説明責任」とされている。しかしこの説明責任という訳語がなんというか非常に曲者なわけだ。責任を追及する者が納得する説明を当事者の「十分な説明」とした場合に、説明責任が果たされるというのは相当に高いハードルを超えることが必要になるわけで。
次に、朝日新聞の記事検索で、「アカウンタビリティ」と「説明責任」という言葉を調べてみた。まあそうだろうな、と予想はしていたが、この二つの言葉はいずれも1993年までの記事検索でひとつも引っかからない。1994年になってはじめて「アカウンタビリティ」という言葉が出てくる。この時点で説明責任という言葉はまだ。そして、転機が訪れるのが早くも1996年で、この年に制定された情報公開法や、社会問題となった住専問題に関係して「アカウンタビリティ=説明責任」という言葉が使われ始める。そしてこのまま順調にアカウンタビリティという言葉が使われ続けていくのかなあとおもいきや、アカウンタビリティという言葉は完全に失速し、2000年代に入るとほとんど使われなくなる。それに対して説明責任という言葉は隆盛を極め、2000年代には非常に広く使われる。2010年代に入って使用頻度が落ちているが、それはひょっとすると自民党政権(特に小泉政権)では毎回選挙で自民党が勝って政権が続いていたのに対して、2009年には民主党政権交代を起こして(その次の選挙でもきっちり責任取らされたので)、言葉の本来の意味での「アカウンタビリティ」が発揮され、あまり使われなくなったのかもしれない。
新聞記事を見ている中で、非常に面白いと思われるものがあったのでぜひいくつか紹介したい。まずは1995年11月29日のもの。ジェラルド・カーティス先生のインタビューが出ていて、これはまあまさに政治学で言われるアカウンタビリティ概念について説明している。

−日本訳ないaccountability
複数の意味がある日本語の「責任」だが、英語と比べると、決定的に欠けている部分がある。英語では(1)responsibility(レスポンシビリティー)(2)accountability(アカウンタビリティー)に大別される。米国コロンビア大のジェラルド・カーチス教授は、(1)は人間として規範に沿って、道義的に行動することで、内面的なもの、(2)は国民に、はっきり説明できるように行動することで、社会に対して外向きに作用するもの、だと分類する。そして「日本で語られる責任はすべてresponsibilityで、実はaccountabilityに対応する日本語がない」と指摘する。

面白いのは、「声」とか「オピニオン」という欄で、一般の人の意見として紹介されるものは、アカウンタビリティ=説明責任ということで、「なんでこんなわかりきった概念を英語で使うんだ」と批判している。例えば以下の様なもの。

カタカナ語はやはりいやだ(声) (1999年)
本紙の「日本語で説明して」を読んだ。文化庁の調査の結果、役所の白書に出てくる外来語のうち八つについて、スキーム、コンセンサス、アカウンタビリティーは、計画、合意、説明責任の方が分かりやすいと思う人が九割ということが分かったという。
それを聞いて私は、安どしたり、意外に思ったりした。英語が幅を利かせている昨今、若い人たちには当然、外来語の方が良く分かるだろうと思っていたのにそうではなかった。

(声)カタカナ多用、説明責任どこ 【大阪】 (2000年6月)
安倍首相の所信表明演説でカタカナが多用された。
本来、外国語は翻訳をする。しかし、日本にない概念や文化については翻訳が出来ない言葉がある。このような外国語には、新たに日本語を造語する必要がある。明治初期には福沢諭吉西周らの学者や作家が漢字の簡潔さを駆使して意訳し、知恵を絞ったという。
ところが昨今は、外国語を翻訳せずに、やたらとカタカナのままで表現してしまう。中には日本語に十分翻訳出来る言葉まで、そのまま表現する傾向がある。「アカウンタビリティー(説明責任)」などはその典型であろう。
カタカナを用いれば権威を誇示できるとでも思っているのだろうか。あるいは、感性で訴え、または事をあいまいにして、本質をごまかそうという意図があるのだろうか。

2000年ころに国語審議会で問題になった「外国語表現の日本語言い換え」の対象になったこともあり、日本語(説明責任)で違和感がなくなったという理由でアカウンタビリティという言葉が消えていくようになるらしい。カーティス先生が言うように、「英語と比べると、決定的に欠けている部分」であるにもかかわらず、日本語で違和感がなくなったということで使われなくなるのは非常に面白い(面白がってばかりもいられないが)。
ただ、やはり「日本語言い換え」でアカウンタビリティ概念が用いられなくなるのは非常に大きな問題であると考えられる。カーティス先生のところまで戻るわけにもいかないが、朝日新聞の記事検索では、2011年に井上達夫先生がこの概念について説明している*1

−答責性とはなんですか?
アカウンタビリティーは説明責任と訳されますが、単に説明すればいいのではなくて、責任者に腹を切ってもらうことまで含む概念。私はそれを答責性と呼んでいます。政治的な答責性は2種類。一つは『誰が間違っていたのか』という主体的答責性。もう一つは『何が間違っていたのか』という主題的答責性です」(朝日新聞2011年2月22日)

二種類、というのは若干オリジナルな感じはするが、アカウンタビリティ概念については基本的に「責任者に腹を切ってもらう」あるいは腹を切らせるかどうか、というところまで含めた概念ということになるだろう。僕も授業では「答責性」という言葉を使っているが、たまに「問責性」でもいいのではないかと思ったりする時もある。
ちなみに、アカウンタビリティの概念(アカウンタビリティという言葉は使われていないが)もきちんと説明されていて、なんというか全体が非常によく統合された優れた教科書として阿部斉・有賀弘・斎藤眞『政治』東京大学出版会(1967年)がある。この教科書は非常に優れた教科書なので関心ある方にはぜひ読んでいただきたいが、その中ではこのアカウンタビリティ(答責性)については以下の様な言及がある。ちょっと長いが引用して閉じたい。

指導者の責任が個々の国民によって認識されることと、それが国民全体によって有効に追及されることとの間には大きな距離がある。責任の追及が有効に行われるためには、国民主権の原理が確立され、さらに選挙・議会などの制度が整備されていることが必要なのはいうまでもない。しかし同時に、制度を運用する国民の側にある種の伝統が共有されていることが、一層必要とされるのである。個々の国民による指導者の責任の認識は、指導者のある特定の行為(不作為も含めて)がある特定の政治的効果を生み出す上で何らかの役割を果たしたという判断の形で行われる。すなわち、そこではある行為とある結果との関係に因果関係が設定されるのである。…(中略)…
政治責任を追及する過程に横たわる困難は、この因果関係の設定の仕方にある。…国の政治に生ずる諸問題は複雑で因果関係も幾通りに設定できる場合が多い。…(中略)…一般国民にとって、どの見解が正しいかを問うことはほとんど不可能に近いであろう。いずれの見解も問題の一面をいいあてている場合が少なくないし、また仮に全くのこじつけであるとしても、社会全体にかかわる問題を見通すことには高度な専門的知識が必要とされる場合が多いからである。
こうして、多くの場合政治上の問題をめぐる因果関係の判断はいくつかに分裂してしまう。そして、その場合には国民が有効な責任の追及を行ないえないことは明らかであろう。それゆえ、責任の追及が確実性をもちうるためには、国民の間に共通の基準がなければならない。いわば指導者の責任を計る物指が同じ目盛りを持っていることが必要なのである。かつてイギリスの首相であったチャーチルは、「イギリスの各政党の五分の四までは、解決すべき諸懸案の五分の四について一致している」と語ったという。国民の間にこうした一致がみられることが責任ある政治の前提である。もとより、この一致は利害の一致である必要はない。政治上のことがらを考える場合の「考え方」における一致であればよいのである。いいかえれば、物事を考えす際の「枠組」が同じであればよいのだ。それはコモン・センスと呼んでもよいであろう。かくして結論的にいえば、国民の間にコモン・センスが存在することが責任政治の基本的前提なのである。(151-153)

政治: 個人と統合 (UP選書)

政治: 個人と統合 (UP選書)

*1:「オピニオン」欄で、メインは一票の格差の議論