『「平等」理念と政治』ほか

東京大学立教大学佐藤健太郎先生から『「平等」理念と政治』を頂きました。どうもありがとうございます。戦前の地方税財政について、個人間・制度間・地域間などでの平等という観念を手がかりにその政治過程を分析された博士論文をもとにされた著作で、私自身その現代版を研究しているようなところがあるので非常に勉強になりました。はじめの思想史的なところはどこまで正確に理解できているかは分かりませんが、地方行政調査委員会議で馴染みのある神戸正雄の人となりに触れることができて興味深かったです。その折衷主義には、個人的に共感するところも多々ありました。
個人的に最も面白かったのが(本書全体から言えば本筋じゃないんですが)、第3章の知事公選論のご議論です。知事の公選は、いわゆる政治的分権の議論として、比較政治の分野でも関心を持たれるところです。本書では、知事を任命できない野党が知事公選を求めるという仮説をベースとして議論していて、それに知事公選を重要政策として掲げる国民党・革新倶楽部に官僚を政治化させる政友会、政治/官僚の分離をとく民政党といった政党間競争や、同じ政党の中でも(将来の知事の座も視野に入れて)公選を主張する若手議員、というような利害関係が絡むかたちになっています。この辺り、個人的には知事の位置づけをどう考えるのかなあと思ったとところです。知事を政治的決定を行なう主体として捉えるのと、あくまでも決められたことを執行する存在として捉えるのとではずいぶん扱いが違ってくるわけで、政治と官僚の峻別を旨とする民政党ならば公選が重要だという話になるでしょうし、政友会であれば公選はいらないということになるのかなあと。政友会の方は、田中義一が党派的に知事を替えてしまうというようなことをするわけです。特に民政党の側からすると、まず知事が政治的主体なのか行政的主体なのかを確定した上で、政治的主体であれば公選にするかどうかという議論が出てきそうで、なんか場合分けが必要なのかもしれません。
面白いのは、こういった知事公選の議論と地方財政の話が絡みそう、というところでしょうか。2章では、本書のメインの議論であるところの両税(地租/営業税)委譲(国→地方)についての議論に関して、高橋是清地方自治観ということで、全国画一的な行政をするのではなく、まあ要はそれぞれの地域で身の丈にあった行政を行なうべきだ、みたいな話があるのですが、こういった地方自治観と知事の公選の話は深く関係あるように思います。全国で画一的に行政を行なう、というのはまさに行政の論理って感じなわけですが、それに対して(特に教育なんかで)それぞれの地域で身の程に応じた事務を行なうというのはまさに政治的な決定であるように思います。公選という地方側の受け皿ができないことには、なかなか両税委譲(=財政的分権?)ができなくて、結局のところそれを財政的な格差を埋めようとする財政調整制度の方に流れたのかなあという感じを持ちました*1
あと、この両税委譲が農村部の救済、地方の利益につながるという話(横田千之助とか)が出ていて、その辺の議論も興味深いところです。最近の地方財政改革の議論から言うと、税源移譲はだいたい補助金削減がセットなんで都市部に有利という感じなわけですが、この時代はそもそも補助金を出してないから単純に税源移譲をすることによって地方が潤う、という話なのかもしれません。ただそうすると、両税委譲の議論が基本的に地方に有利なものに流れ過ぎかなあ、という感じもするところです。そんな感じの分権は、中央政府の力を弱めて地方自治体を強くするわけですから、本来はそれを好む政治家は少ないような気がします。ただ、政党の中で長期的に地方の公選首長に転じてやろうという議員の勢力があって、その議員たちが地方有利の税財政改革をするというという話だと面白いかもなあと。国会議員が地方に転身することを考えていろんな政策を決める、という話になるとブラジルの政治に近いような印象も受けるところです*2。この両税委譲は結局貴族院にブロックされるかたちで潰えるのですが、単純に考えるとその手の公選首長から最も遠いところにいそうな貴族院が反対するのもむべなるかな、という印象です。
というわけで、やや強引な感じもしますが、戦前日本の思想史/政治過程を扱っているわけですが、テーマとしては現代の比較政治にも通じる議論のように思います。個人的にも、共同研究なんかを積み重ねながら、比較政治的な問題意識で歴史的な分析をしてみたいなあと思ったりするところです。

もうひとつ、首都大学東京の谷口功一先生から『海賊と資本主義』を頂きました。どうもありがとうございます。
海賊を資本主義の周縁にある組織と位置づける、というような議論で興味深く拝読したのですが、ポストモダン的な話とかは正直なところよくわからないところもありました。解説で谷口先生が書かれているところとtよっと重なるように思うのですが、何が海賊組織になるかは結局定義問題ではないかなあ、と。組織として議論する以上、本来は資本主義における組織と連続的な連続的なものとして扱えるのに、敢えて0か1か(海賊かそうでないか)で扱うというような感じと言いますか*3。まあそうやって捉えることでネガ(ポジ?)として国家や企業組織が見える、ということもあるのかもしれません。また、われわれの理解の仕方として、なんかよくわからないけど海賊みたいなものを0か1で捉えてしまう、という問題設定はできるのかもしれない、と少し思いました。
海賊と資本主義 国家の周縁から絶えず世界を刷新してきたものたち

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*1:政治的分権と財政的分権の順番が重要、ということだとFalletiの話に近いのかもしれません。

Decentralization and Subnational Politics in Latin America (Cambridge Studies in Comparati)

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*2:やや強引な感じもしますがSamuelsの議論ってことで。

Ambition, Federalism, and Legislative Politics in Brazil

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*3:きちんと言語化できないのですが、この辺りは佐藤俊樹先生の『近代・組織・資本主義』の話とつながってるような気がしました。

近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平

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