『政治理論とは何か』ほか

この間何冊か書籍を頂いていました。ちょっとバタバタとしてご紹介できませんでしたが、いくつかまとめてということで。
まず、名古屋大学田村哲樹先生に『政治理論とは何か』を頂きました。ありがとうございます。詳しい紹介はたとえばこちらにお任せしますが、全部ではないものの興味深く読ませていただきました。政治理論について、規範理論とも「客観的な現実」を説明しようとする実証分析とも距離をおいた「政治的なるもの」についての理論としての議論の成果がまとめられているというように理解しています。ひとつひとつ勉強になるところは多かったのですが、ただ僕には結局ここで議論されている政治理論というのは一体どのようなものなのか、いまいち掴みきることができなかったような気がします(もちろん僕の不勉強のせいですが)。
一番気になったのは、道徳などに基礎を置く規範理論でも「客観的な現実」を説明しようとする実証分析でもないとすれば、政治理論の妥当性は何を根拠に議論されるんだろう、というところです。規範理論はもとより、実証分析をしている研究者にとっても、経験的な研究からさまざまなケースに当てはまるであろうという「理論」を抽出して規範的な議論をすることができるように思うのですが、そのときはやはり道徳や経験というのが妥当性の根拠になっているように思います。しかし本書で議論されている「理論」は何をもって妥当とされるのか−−なぜ他の人がその理論で説得されるのか−−がちょっとよく分からなかった、と感じています(もちろん、そういう問題じゃないかもしれないし、あるいはすでに説明されていて僕が理解できていないだけ、という確率の方が高いので恥を晒してる気がしますが)。この点について最も論じられていると感じたのは、西山さんの3章で、93頁の最後の段落だと思いますが、それでも「政治学者の科学的な関心に沿って構成さ れた問いに過ぎないが、それでもこの問題構成を経験的に研究するための適切な前提を用意することができれば、科学的にみてその政治理論は妥当であるといえる」という説明を理解できている自信はありません。実践によって「使えた」ものを良い理論として認めるというのはあるのかなあと思ったのですが、しかし何を「使えた」とみなすかどうかは経験的な分析の問題のような気がして、ちょっと自分の中で堂々巡りになってしまったというか。
そんなことをグダグダと考えているうちに少し思ったのは、ここで議論されている「理論」というのは、牧原先生が『行政改革と調整のシステム』で論じられていた「ドクトリン」に近いのかなあ、という気がしました。経験的に妥当かどうかは別として、組織改革の指針となるような説明、というのは似ていると思うし、『政治理論とは何か』の中で岡崎先生が議論されていたような政治家の「理論」というのもある種の「ドクトリン」ではないか、と。牧原先生は行政改革の文書からドクトリンを析出し、岡崎先生は国会の会議録の中から政治理論を抽出されているのを見ると、意外に行政学の方との接点があるのかも、と思ったりもしたのですが…(個人の感想です)。

政治理論とは何か

政治理論とは何か

行政改革と調整のシステム (行政学叢書)

行政改革と調整のシステム (行政学叢書)

それから、同僚の上川龍之進先生に『日本銀行と政治』を頂いておりました。ありがとうございます。上川先生は、これまで金融政策の決定過程を中心に、中央政府の意思決定過程を丁寧に跡づける研究をされてきたわけですが、今回のご著書では、それに加えて金融政策&金融政策論議についての評価に積極的に踏み込まれていて、色々と大変なところもあるかと思いますが、素晴らしいチャレンジだと思いました。その妥当性についてはなかなか僕が評価できるものでもないですが、 個人的にはほぼ同じ印象を持っております。それは、政治学者が意思決定を評価するときには、その意思決定の効果みたいなものをまとめて評価するというよりも、決定過程における正統性のようなものを中心に評価するからではないかと思いますが。また、野党が戦術的に中央銀行の独立性を擁護するものの、機会主義的に独立を侵犯しようとするのは地方分権でも同じような場面があるように思いました(中央銀行ほどに極端ではないですが)。民主党はどのように政権運営をしたら良いのかわからない党だったので、中央銀行のようにわかりやすいように見えるところに飛びついた、ということかもしれません…。そういう問題に対処するため に、中長期的に一定の独立性を付与するというのも同感です。
もう少しお聞きしてみたいと思ったのは、最後に展開されたウェストミンスター化の話です。最近、京都大学の待鳥先生が政治学会で報告されてましたが、日本の1990年代以降の改革では、レイプハルトの言い方で言うと政党次元では権力集中が進んでいるのに、連邦制次元では権力の分割が進んだ(ように見える)というのは一体なんだろうなあ、と。ただ安倍政権・黒田日銀でそんなに日銀が独立してないよ、ということが示されたとすると、連邦制次元の権力分割というのは実のところはちゃんと進んでいなくて、1990年代以降の政治改革全体としてもウェストミンスター化の進展として理解すべきだ、ということなのかもしれません。
日本銀行と政治-金融政策決定の軌跡 (中公新書)

日本銀行と政治-金融政策決定の軌跡 (中公新書)

それから、首都大学東京の松井望先生には、『ここまでできる 実践 公共ファシリティマネジメント』を頂きました。個人的に最近は都市や住宅の研究をメインにするように移行しようとしていて、その文脈で「ファシリティマネジメント」といった言葉もよく聞くのですが、その方法論や効果についてはまだまだ勉強が足りていません。ぜひ本書を読んで勉強させていただきたいと思います。
ここまでできる 実践 公共ファシリティマネジメント

ここまでできる 実践 公共ファシリティマネジメント

神戸大学の近藤正基先生からは、『現代ドイツ政治』を頂きました。僕などがドイツ政治に触れるのは基本的にはいわゆる小選挙区比例代表併用制を採用している選挙制度の話くらいで、その中で政党がどのような運営をなされているかについては本当に知識が足りていないのですが、本書では主要な政党についての説明とEUとの関係を踏まえた上でドイツで焦点となっている政策について論じられているので非常に勉強になります。しかし、政治力学として、政党・労使関係という説明に加えてEUとの関係が入ってくるところは、やはり現代のヨーロッパにおいてEUの存在感が非常に強烈なものなのだと改めて思わせるところがありました。
現代ドイツ政治

現代ドイツ政治

最後に、以前国際日本文化研究センターの研究会でご一緒した松宮貴之先生から『政治家と書』を頂きました。以前から出版をお聞きしていて楽しみにしていたのですが、非常に興味深く読ませていただきました。『政治家と書』というタイトルですが、内容は漢詩をはじめとした教養について深く論じられているもので、とても勉強になります。自分の研究では、政治家の行動について結果を踏まえて後追い的に解釈することが多くなっていて、政治家がどのようなことを考えているかというのを人格や精神の面から考えるということは少ないのですが、しかしやはり政治家の精神性というものは それ自体研究の対象であるべきですし、本書では「書」の分析を通じてそれが可能であることを改めて示したものだと感じました。
終章では、それまでの内容を基礎として、戦前と比べて東洋的教養が断絶した戦後教育のあり方にかなり踏み込んだご議論をされていると思います。教育によって涵養される精神性の強調は非常にセンシティブな問題であることを十分に認識された上で、抑制された筆致で重要なことをおっしゃっているのが非常に印象的でした。政治家についての分析それ自体とも重なりますが、自由民主主義を成立させるためにはある精神性が必要であり、それはそれぞれの社会・文化に根ざしたものであるべきという指摘は考えるべき問題だと思います。

忠、孝への偏重は、是正されるべきだろうが、そもそも漢文の中核にある四書五経漢詩のような教養は、徳目の多彩さに限らず、その魅力は容易に計り知れず、偏狭な解釈こそが問題なのである。またその学は、本来為政者の学であって、戦後民主主義の下で盛況した大衆文学である小説や戯曲などのような俗文学にも関心を持つべきことは、言を俟たないだろう。
ただし、モラルなき民主主義の中で、封建主義が残した文化遺産である東洋思想は、必ずしも無意味ではない。国民主権という現在の民主主義においては、国民一人一人が為政者の学を修め、各人が「君子」を目指すことも、求められているのではなかろうか(211-212)

東洋文化の淵源である中国」や、「それを受容して発展させた日本」の伝統を無批判に賞賛するのではなくて、批判するべきところは批判して継承するべきものは継承する、というのは当たり前のような話ですが、戦前的価値観の賛美と取られないようにするために精神性の議論を避けるというところがなかったわけではないでしょうし、前世紀末には「アジア的民主主義」のような議論が提出され、批判されるというようなこともありました。僕自身は、西洋近代的でリベラルな価値観を重視して政治学を勉強しているつもりですが、民主主義が十分に規範として定着していると考えられる現在において、改めてその基礎を考えさせるご著作は非常に真摯で論争的なものだと感じたところです。

政治家と書―近現代に於ける日本人の教養

政治家と書―近現代に於ける日本人の教養