戦前の「地方利益」

前田さんの『全国政治の始動』に触発されて,松沢さんの『明治地方自治体制の起源』を改めて読んでみた。やはり両著はつながっているところは大きいし,合わせて考えてみたい。まじめに両著を追っていくほど時間がないので気になったことを備忘として。
「地方政治」がどのように存在しうるのか,というのは考えどころ。松沢さんの本は非常に示唆的で,再分配を扱う5章では富裕な農民と貧しい農民の対立に触れられていて,地方税と道路の関係を議論する6章では地域間の対立について触れられている。終章は抽象的で理解しきれていないように思うけども,近代社会が出現する動因として,近世社会の行き詰まり―ここでは個別の村の中での富裕層と細民層のゼロサム的再分配が矛盾として顕在化することだと思う―を議論するとされている。それぞれの村の中での富裕層と細民層の対立というものがそれほどに大きなものだとしたら,それが村を超えた「政治」というものになっていかなかったのか,というのがおそらく1つの問いになるのではないか。
なぜか,ということにちゃんと答えていることになるのかよくわからないけども,そのような村を超えた境遇での連帯というのは生まれなくて,結局のところ同じ村という結合のほうが強く出ることになったのだろう。それは松沢さんの6章で書かれている話という感じか。「以上の認識(市場に依拠した福祉と,その実現に寄与する政治権力という認識)と制度的編成を通じ,一方でそれに反対するそれに反対する個別利害を抑圧することによって,一方でそれが社会全体の「公益」であることを承認されることによって,ある特定の道路が「利益」として提出されることが可能になる」というのはなるほどと思わせる。結局のところ,市場とは別に福祉を作り出すような政治権力も期待できず,個別利害の場所である地域社会なしに回らないという状況があって,「地方利益」が統合の鍵ということになる。ただその地方利益は,誰かにNIMBYを押し付けることで成り立っているというか。
前田さんの3章の議論を重ねあわせるとどうなるだろうか。治水という問題は裏返しみたいなところがあって,誰かが大きな被害を受ける可能性があることを前提にそれを予防する,そのために負担が求められることになるわけだ。そのような地方利益を地方官→政党という主体が受けとめていく,けれども(地方官がそうであるように)政党は特定地域の利益だけを代表することはできなくて,より抽象的な「地方」の利益を代表しようとすることになるというべきか。これは全国だけではなくて,各府県でも相似的なところがあって,府県のみの中での特定地域を代表する政党というのが出てこず,松沢さん風に言えば府県という単位全体の「公益」の追求として議論されるようになるという感じ。
Nationalization of Politics,という観点から言えば,繰り返しになるけれども,なぜ富裕層/細民層がそれぞれに村を超えた連帯ができなかったのか,というのは1つの疑問。社会関係の中で細民層が抑圧されていて,それを伝えるリーダーやメディアもなくて…というとマルクス主義政治学の香りもしてくるのかもしれない(よくわかってない)。他にも都市的地域と農村的地域というような連帯も不可能ではなかったはずだが,それにしてはあまりにも農村的地域が多かったということになるのだろうか。農村中心で,人々がほとんど移動せず,それぞれの村が生活の単位になっている中で「地方利益」というものが前面に出てくる様子を両著は違うかたちで捉えているのではないかという気がする。しかし,近代化の進展とともに都市が成長し,人々が移動するようになってくるわけで,そこでもそういう地方政治が継続してるとしたら,やはり何か理由があるんじゃないだろうか。松沢さんが最後の最後に書いてるようなシステムの綻びと「地方改良運動」というところに繋がるんだろうけど,そこでの「地方」あるいは「地方政治」についてどういう議論がなされるんだろう*1

全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家

全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家

*1:戦争が始まってくると,市川先生『日本の中央―地方関係』の議論に回収されていくような気がする。

日本の中央―地方関係: 現代型集権体制の起源と福祉国家

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