新書・文庫いくつか

7月に入ってからまたいくつか本を頂いておりました。まず細谷雄一先生から『安保論争』を。ありがとうございます。細谷先生が,集団的自衛権を認める安保法制について新聞や雑誌などの媒体にかかれてきた内容をまとめたものになっています。歴史的な観点,地政学的な観点から日本の安全保障環境について論じた上で,安保法制についての冷静な議論を呼びかける感じですね。細谷先生ご自身は,安保法制の必要性を主張するお立場で,ブログフェイスブックなども含めてかなり広範に議論を呼びかける仕事もされています。こういった議論を読んでいると思うのは,政治学として一般化可能な議論を目指す一方で,どうしても個別性からは離れがたいところがあるわけで,両者の折り合いをどうつけるべきなんだろうかということです。最近の国際政治が,それぞれの分析対象の固有性を外してフォーマルセオリーや計量分析で議論する傾向があるのに対して,特に地政学なんかだと場所の固有性が全面に出てくるわけですが。政策担当者としては後者のほうがおそらくとっつきやすい話になるわけで,そのときに前者の研究者はどうすべきなんだろうかなあと。

安保論争 (ちくま新書)

安保論争 (ちくま新書)

中澤俊輔先生からは,同じくちくま新書の『昭和史講義II』を頂きました。ありがとうございます。ちょうど一年前に出されて好評だった前巻(こちらは英語でも出版されるとのこと)の続きということですね。しかし好評で一年後にきちんと出せるってのはなかなか素晴らしい…。執筆のみなさんがきちんと〆切を守ったのか,あらかじめ二巻目も計画されていたのかわかりませんが。この中で,中澤先生は治安維持法について書かれています。前著の『治安維持法』のときには,この法律が,結社の制限に係る法律として出現したことを詳細に論じられていましたが,今回は結社や政党の話よりも他の国での進行状況との比較のようなことが意識されているように思います。新書の1章ですから短いものですが,他国での状況についての言及が多かったのが特徴なのかなと。
治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

西川賢先生からは『ビル・クリントン』を頂いております。ありがとうございます。「クリントン」じゃなくて「ビル・クリントン」なんだなあ,と思いながら興味深く読ませていただきました。しかし『分極化するアメリカとその起源』(単著)『ポスト・オバマのアメリカ』(編著)に続いての単著ということでホントにすごいペースです。上記の細谷先生もすごい刊行ペースですが,やはり全体として業績を出すというプレッシャーがかかる一方で,出版業界が出版点数増やしているということもあって,書ける人はとにかく書くということになってるのかもしれません。
さて,『ビル・クリントン』のほうは,非常に読みやすいもので楽しく読ませていただきました。90年代というのは私などは中学生から大学生という時期で,まあいろいろニュースは見てたと思いますが,詳しく知らなかったことを改めて学んだ感じです。モニカ・ルインスキーの話なんかは,まあ率直に申し上げてすごいざっくりとしか知らなかったことがよくわかりました(苦笑)。全体としての印象は,(叙述のスタイルによるところもあるのでしょうが)クリントン自身が何を考えていたのか,言い換えると彼の人柄みたいなものを明らかにするのって難しいんだろうなあ,と感じました。本の中に出てくる「三角測量」(相手との関係の中で自分の政策ポジションを決めようとする話)とか典型だと思いますが,彼自身の確固たるイデオロギーみたいなものは見えにくくて,それぞれの場面で役割をきちんとこなす,競争に勝利するためのチームを用意する,というのが1つの特徴なのかな,と。政党にイデオロギー的な差異が薄いとき,やはりそのようなある意味で実務的なリーダーというのは重要だし,日本でもそういうリーダーがいていいんじゃないかと。…まあ逆にだからこそ「分極化」が強調される中でヒラリー・クリントンが苦戦している,ということなのかもしれませんが。
分極化するアメリカとその起源 - 共和党中道路線の盛衰

分極化するアメリカとその起源 - 共和党中道路線の盛衰

最後に,御厨貴先生から以前に出版されたものの再版である『後藤田正晴と矢口洪一』『宮沢喜一竹下登』を頂きました。ありがとうございます。いずれも再版ではありますが,もともと朝日新聞出版から出された時にカットせざるを得なかったようなところも含めて「完全版」という感じになっているそうです。いずれも2つのオーラル・ヒストリーの結果を交差させながら作られた本なのですが,前の版からこのようなオーラル・ヒストリーの使い方があるんだ,というのは非常に勉強になった本でした。自分自身もオーラル・ヒストリーに参加させていただくことがあって,これを論文でどうやって使うかなあ,といつも思うのですが,論文の中での「証拠」として使うよりも,ある種時代の雰囲気/時代認識みたいなものを描き出す手法として使うというのが面白いのかもしれない,と最近思っています。両著は(それが意識的に行われている)最も先駆的な試みの一つではないかなと。