政府の秘密の仕事を信頼してもらうためには

森友学園につづいて加計学園の話が出てくる中で,共謀罪テロ等準備罪の話(少なくとも海外から眺めていると)すっかり後景に退いた感がある。しかし,刑事法を専門にされる慶応義塾大学の亀井先生が精力的にブログにまとめられているように,刑事法の観点から様々な論点や疑問点が出されるのは自然だが,政治学行政学の観点からも興味深い論点がいくつか存在するように思われる。
共謀罪テロ等準備罪の重要なポイントのひとつは,犯罪が組織的に計画されるものを処罰するということである。詳細は亀井先生のこちらのエントリに当たっていただきたいが,法案の6条の2では,「組織犯罪集団」が「団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第3に掲げる罪を実行することにあるものをいう」と定義されている。じゃあその「団体」とは何ぞやと言えば,「共同の目的を有する多数人の継続的結合体であって,その目的又は意思を実現する行為の全部又は一部が組織(指揮命令に基づき,あらかじめ定められた任務の分担に従って構成員が一体として行動する人の結合体をいう。以下同じ。)により反復して行われるものをいう」(2条1項)と規定されている。この定義からすると,「共同の目的」があり,「多数(複数)の人間による」「継続的なもの」であり,目的を実現するために団体の中に指揮命令系統が存在するようなものだと考えられることになる。
このような組織・団体の特徴は,すでに日本に存在する株式会社やNPO法人公益法人も同じように持っているところがある。とはいえ,犯罪を実行しようとする組織は,法律で認められている法人と同じように,定款やメンバーをそろえて政府に提出するわけではないから,その組織・団体自身が自分たちのことをどう「組織」として考えているかということよりも,取り締まる側の政府が当該組織・団体を認識しているかどうかというのが問題になる。単に人間が複数集まっていることと,組織であるということは基本的には見分けがつかなくて,目的を共有するとか上位者の指揮命令に従うというある種の「フィクション」の存在を,その外にいる人間が認定するかどうか,ということが問題になるわけだ。もちろん,この点についての批判が上がっていて,京都大学の高山先生は,「「組織的犯罪集団」には認定や指定が不要なのはもちろんのこと、過去に違法行為をなしたことや、過去に継続して存在していたことすらも必要ない。当然のことながら、それ以外の集団との線引きが事前になされているわけではなく、構成員の属性も限定されていない。」と指摘して,警察が恣意的に(=勝手に組織・団体の境界を定めて)個人を犯罪を実行しようとする組織のメンバーだとみなし,公権力を振るう可能性があると批判している。先ほど紹介した亀井先生のブログでも,処罰の早期化を行う同法では,6条の2でいうところの団体の要件の解釈をより厳格にするべきだという指摘がある。たとえば,団体として上位者が行った意思決定を下位者が実現するというプロセスがあるかどうかとか,その団体が別表で規定される共同の目的を達成するために存在するかどうかとかを精査しなくてはいけない,と。
さらっと書いたけども,その団体の共同の目的についての規定がある別表は,ちょっと違和感というか不思議な感じを覚える。そこに掲げられているのは刑法をはじめとした各法律の条項であり,要するにそれらの法律に違反する犯罪それ自体が「共同の目的」という扱いを受けることになる。しかしながら,一般的には犯罪それ自体が目的というよりも,何らかの目的を実現するために犯罪を実行するということになるのではないか。まさにテロリスト集団がそうである(と考えられる)ように,人を殺すのもだますのも,それ自体が目的というよりは,自分(たち)にとって有利な状況を作り出したり,金を奪ってそれを自分のものにしたりするという目的があるわけで。ただまあそういった組織の目的を具体的に定義するのは難しい(くどいけど定款出してくれるわけじゃないので)。『治安維持法』の著者でもある中澤先生が論じるように,1925年に制定された治安維持法は当時の国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰するものであり,当初は検挙者が少なかったものの,結社を支援するあらゆる行為が対象となる(=組織・団体の外の人間も含むことができる)目的遂行罪が追加されることになって検挙者が激増していったことを考えると,恣意的な理解が入る可能性がある抽象的な目的から組織を定義するのではなく,具体的な犯罪行為と結びつけて組織・団体を理解しようとするのは,歴史を踏まえた抑制的な方法と言えるところがあるのかもしれない。
しかし仮に以前よりも抑制的であったとしても,公権力による恣意的な運用の可能性・危険性を排除することは難しい。とりわけ,疑いを持っている人に対して信じてもらうようにすることは非常に難しい。これは,政府(ここでは警察)の仕事が公開されているわけではないから最終的に公の場で危険性のなさを確認できないことに起因することが大きいだろう。もちろん,公開されてようがいまいが政府の陰謀ということで不信を持つ人はいるだろうが,おそらくそういう人たちの不信を払しょくするのは難しい。結局,政府としては,「政府が陰謀を張り巡らしている!」というわけでもないが,「政府がやることはすべからく信用すべき」というわけでもない中間的な人たちに納得してもらうことを目指すわけだが,犯罪を予防するためには当然秘密裡の行動が必要になるわけで,人々を納得させるための重要な手段であるところの公開の場での確認という手続きを取ることはできない。実際に当該法律で検挙された場合に,裁判所がその団体性を厳密に考慮してくれて,警察による団体の定義とは異なる定義から有罪・無罪の判断を下してくれるという可能性はあるが,(文脈はもちろん違うが痴漢冤罪などでの批判も抱える)刑事司法に対してそこまで単純な信頼を置くのも簡単じゃないだろう。というか,刑事司法「のみ」を信頼することで,信頼を担保しようというのは難しいのではないか。
政治学行政学の観点から言えば,こういうときに問題になるのは「信頼できる第三者」の存在であると思われる。秘密裡の行動を行わなくてはいけない以上,すぐに情報を公開してそれを精査するということは難しいが,ある程度時間を置いたうえで,どのような組織・団体が監視の対象になっていたかについて,信頼できる第三者によって再検討される余地が必要ではないか。そのためには,どのような「複数の人々」を,犯罪組織として捉えたかについての理由やプロセスを記した文書の存在が必要になる。少なくとも,担当者の個人的な判断で組織の認定がされるものではない以上,実行機関である警察などが組織を認定したということについての文書は必要だろうし,また,警察のどのレベルでこれを認定するかということについての議論も必要になると思われる。このような話は,同様に政府による秘密裡の行動が問題となる特定秘密保護法でも同じようなことが言えるのではないか。野党としては,反権力の立場から,そもそもこのような権力行使を一切認めるべきではない,というのも一つの立論の仕方ではあると思うが,「抑制的に権力を使わせる」(自分たちが政権についたら同じように抑制しないといけない)という立論の仕方もあるのではないか。特定秘密保護法のみならず,現在問題になっている加計学園のような話も含めて,安倍政権では文書管理・情報公開という観点から権力の抑制を考える話が続くような気がする。「一強」と呼ばれる状態だからこういうことが続くという人もいるかもしれないが,衆議院での小選挙区制導入や中央省庁再編という統治機構の根本を変えたことによる変化・整理の時期だということを意味しているように思う。

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

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