中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年

年末年始の多くの読書案内で好評価がなされていた白川方明中央銀行-セントラルバンカーの経験した39年』を読んだ。参考文献入れると750頁を超えるまさに大著で,中身も非常に充実しており勉強になる(読むの時間かかった…)。中央銀行制度はもちろん,政策過程や組織運営についてもしばしば興味深い洞察がなされていて,政治学者にとっても重要な貢献。

本書では,「失われた10年(20年)」の間に日本銀行の金融政策がしばしば批判されてきたことに対する,実務家の立場からの反論が大きな位置を占める。パターンとしては経済社会の発展のために金融政策(日銀)にできることというのは限られており,重要な問題は日銀の金融政策よりも(だけでなく),グローバルな金融システムの構築や少子高齢化に直面する日本の場合経済・社会の構造改革であるというかたち。いわゆる「リフレ派」(本書では「リフレ派」と「期待派」が並べられていて,「期待派」のほうはアメリカのマクロ経済学の主流派の理解に近いものと位置づけられている)が主張するように,インフレーション・ターゲットを行うなどある種の金融政策のみで「失われた10年」の問題は解決しないということになる。他方で,中央銀行の役割として強調されるのは最後の貸し手機能を発揮することで,厳しい状況の銀行に公的資金を注入することが多くの人々に嫌われる政策であったとしても,中央銀行は金融システムの健全性を保つために必要に応じて機動的に最後の貸し手機能を発揮しないといけないということもしばしば強調されている。

こういった主張は,本書の中で非常に説得的に展開されていると思うし,だからこそ多くの研究者が良書として推薦したのだろうと思う。白川氏自身は,実務家であることを強調しているけれども,社会経済の変化や危機とそれへの対応についてとても理論的に洞察を加えているし,とりわけグローバルな金融システムについての洞察は傾聴すべきところが多いように感じる。データの制約などから制度的な分析はどうしても国ごとになりがちだけど,現状のように金融がグローバルに広がっている中では一国だけでできることは限られているわけで,まさにその対応のフロンティアにいた人が体系的に理解できるかたちで教訓を残そうとしていることは素晴らしい。

他方で非常に気になったのは,著者自身が強調する実務家としてのスタンス。ご本人が好む・好まないはともかく,中央銀行総裁というポジションは政治的な「リーダー」であることは間違いないと思うのだけど,その割には非常に受身的なところが強すぎるのではないかという印象を受けた。たとえば,まだ理事になる前の日本の金融システム危機において,著者は日銀の「先送り」が批判されるのは違和感がある,日本銀行にできる手当(使える「武器」)は限られていた,と主張する。それは多分そのとおりなんだけど,「先送り」批判にしても,日本銀行だけが批判されているというよりは,その背後の政治的意思決定の先送り自体が批判されているように思う。でも強調されるのは(そのときに)日本銀行にできたこととできなかったことを分けて,できたことはやっているしできなかったことは(日本銀行として)どうしようもない,というような傾向,というか。問題は,政治的なリーダーである総裁の場合,日本銀行にできることとできないことの境界自体に影響を与えることができる(あるいはそれが期待される),ということのように思える。総裁としての仕事はとても堅実で,分析も説得的なんだけど,その日本銀行のできることという境界については非常に受身的で,リーダーシップの発揮するという点ではどうだったんだろうか,と。

もちろん,本書を読んでいると著者のとても謙虚な人柄が伝わってくるので,リーダーシップを実際に発揮していても謙譲の美徳でそれを強調していないかもしれない。また,仮にすごく強いリーダーシップを発揮したとしても(著者が見るように)金融政策では経済社会に大きな影響を与えることができないし,そもそも我々はそういうスーパーマン的な業績に期待すべきではないのかもしれない。ただ,逆説的かもしれないけど,そういう叙述であるからこそ,日本銀行総裁のように政治的リーダーであることが期待される人物像やそのガバナンスについて,本書は非常に示唆的なところがあるようには思えた。

具体的に,読んでいてひとつ特徴的だと感じて,また個人的に違和感を感じ続けたのは,本書が日本銀行の「独立性とアカウンタビリティ」(これは第22章のタイトルにもなっている)を強調しているところである。著者は,民主主義体制下における中央銀行のあり方ということを強く意識していて,中央銀行が独立性を付与される代わりにアカウンタビリティを求められるとしている。しかし,その「代わり」ってなんなんだろう,と。個人的には独立性とアカウンタビリティというのはなかなか両立し得ないものであって,そこをバランスさせるとすれば,中央銀行(や裁判所)のような制度は長期的にアカウンタビリティを求める一方で(中央銀行総裁の再任もあるわけだし)短期的な独立性を付与しているようなかたちだと理解している。独立性とセットになって中央銀行の行動を制約するものがあるとすれば,そこは外的な「政治」によるアカウンタビリティではなく専門家としての「レスポンシビリティ」なのではないだろうか。反対にいうと,そのレスポンシビリティがあまり強調されないところが,受身的と感じた原因ではないか,と考えたところ。

もちろん,著者自身が非常に責任感に溢れた優れた実務家であったということは本書を読めば伝わってくるし,受身的であったとしてもそれが本書の重要な記録としての価値に関わるものではないと思う。というか,「アカウンタビリティ」にこだわり続けた政治的リーダーの記録として読むべきなのかもしれない。それは,中央銀行を下支えする専門家集団の基盤が(国際的にはともかく)国内でそれほど強くない中で,正統性の基礎をアカウンタビリティの方に求め続けなくてはならなかったことの裏返し,というところがあるのかもしれないけど。しかし非常にいろいろなことを考えさせられる読書だったと思う。 

平成バブル先送りの研究 (経済政策分析シリーズ)

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