『失われた民主主義』

ちょっと仕事の関係でシーダ・スコッチポル『失われた民主主義−メンバーシップからマネジメントへ』を読んでいたのだが、今回の選挙を意識しながら読むとなかなか趣深い本であるように思われる。本書は、アメリカの建国以来地域的なボランティア団体/結社が全国的な政治と深く関係しながら発展したことを主張しているものであり、1960年代以降にアメリカの全国的なメンバーシップに基づいた結社が衰退し、一方で「ソーシャル・キャピタル」に溢れた地域共同体を強調するコミュニタリアンや専門的に運営される全国的なアドボカシー団体を重視するリベラルが出現する現状について批判的に描き出している。
ボランティア団体なんて日本とはあんまり関係ない話だ、と思いがちだが(少なくとも僕もそう思ってた)、言うまでもなく地域的なメンバーシップを積み上げて全国的な組織に連動させていくというのは日本/自民党政権にとって非常に重要な基盤であり、今では逆にそのような組織化が弱くなっている傾向があると考えられる。スコッチポルの批判を参照するならば、地域共同体を強調するような人たちは確かに一部で出ているが(彼女が批判するように)政治とはなかなかつながらずにあんまり政治的には実効性がないように見える。他方で全国的な組織化を目指すようなアドボカシー団体はぜんぜん弱い、というのが現状ではないだろうか。彼女は(政治からは距離を置く)地域共同体の「再興」よりも、団体・組織が全国的な政治とつながっていくことを重視しているように読めるし、個人的には日本でもそういうことを考える必要があるんじゃないかと思う。いろいろと学ぶべきところは多いが、一節を備忘として。

我々は、金持ち、上層中流階級とそれ以外の人々の間にギャップが開きつつある国――特権階級が、要塞都市、ポテムキン村休暇スポット、特権地域にある、あるいは彼らの子弟向けの学校、ばか高いボックス席からのスポーツ観戦に引き籠もるような国――に住んでいるのだ。アメリカの市民生活は、メンバーシップ動員からアドボカシーとマネージメントへ、また共有された価値観や目標から専門化した利害の追求へと変化したのだ。高等教育を受けた者と裕福な人々が、あらゆる種類の別立ての特権的な編成(アレンジメント)の内で快適で安全な家での生活を重視している時代に、金と、上層部が多すぎるイニシアティブが組織化された政治や結社生活で重要性を高める時期に、我がナショナルな民主主義は、いかなる、あるいはあらゆる種類のローカルな社交とご近所らしい慈善の手あたり次第の増加を通して、いかにして再興できるというのであろうか。地元コミュニティと「社会資本」論を最も真剣に受け止めそうな人々――それらで得をし、自己満足を感じる人々――が、ただの古い資本主義のかつてなく政府が軽視されたバージョンの中で私事化をいっそう進めたやり方ですでに活躍中である連中と同じ輩ではないかと恐れている。地元コミュニティを、またより一般的には社会生活を改善したところで、一致団結したナショナルな関与がなければ、問題に取り組むのに十分な民主的な梃子力は出てこないであろう。(221-222)

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ