『農業保護政策の起源』『天皇の近代』

北海道大学の佐々田博教先生に『農業保護政策の起源』を頂きました。どうもありがとうございます。日本の農業政策といえば,政治家・農協・農水省が作る「鉄の三角形」が重要だと言われたり,農業補助金を増やすことを志向する農水省が国際交渉を梃子に省益を拡大する,などと言われることがしばしばあります。それに対して本書では,そのように大雑把なかたちでアクターの選好を決めて分析を行う方法はとりません*1。本書では,政策アイディア(とその発展)に注目する構成主義的制度論を取りながら,農業経営規模を大きくしていくことを重視する大農論か自作農中心の独立した農家を育成することを重視する小農か,あるいは後者のどうやって小農論が発展してきたかという話を軸に,戦前の農政の意思決定について史料を用いて丹念に議論されています。戦前で農業保護・農村保護が論点になる様々な局面では,どのような行動が「合理的」であるかについては必ずしも明らかではなく(著者はこれを「ナイト的不確実性」の大きい状況と呼んでいます),農林省(当時)の官僚が小農論に由来する政策アイディアを発展させつつ意思決定に反映させてきたことを明らかにしています。

私自身はまあ本書で批判されている「合理的選択論」者なんだと思うんですが,その合理性の水準って自分自身の仕事に限ってみてもなんかいろいろバラつきがあると思うんですよね。国際比較をするときや予測みたいなことを念頭に置くときは,割と雑に制度からアクターの行動を仮定して分析しますし,政策過程を見るときは個々のアクターの合理性(というか意図)をより詳細に見ることになりますし。最近の住宅の話では,基本的に利益中心のアプローチなのでそこは違うのでしょうが,佐々田さんの本と同様に制度のオフパス(=たとえば採用されなかった大農論)を意識して議論しているので,その意味では重なるところもあるのかなあ,と。ただ戦後の住宅の場合は,制度のフィードバック効果みたいなものが重要なところがあって,その意味で「ナイト的不確実性」が重要ではなくなっていくわけですけど,逆に戦前農政でその特徴が重要であり続けたのはなんでだろう,と考えてみると面白いのかも,と思いました。
本書を読んで改めて思ったのは,強い強いと言われてきた日本の政府はホントはずっと弱かったんじゃないかなあということです。私の方はもともと自分の住宅の研究でそう思ってたのですが,佐々田さんの農政の話を読んでその思いをより強くしたといいますか。何ていうか現状に働きかけて大きく変更しようというのがずっと難しくて,一応議論としては出るんですが結局採用されることはない,という感じ。官僚の方は,そんなに強く権利義務を変更するようなことはできないという前提のもとに,feasibleな中で一番望ましい政策を選好するようになるというか,そういう理屈を編み出していくような気もします。もちろん強い強いと言われてきたのは産業政策が本丸なのわけですが,その辺に新たな研究が生まれてくるとまた違う話が出てくるのかもしれません。 

農業保護政策の起源: 近代日本の農政1874~1945

農業保護政策の起源: 近代日本の農政1874~1945

 

同じく北海道大学の前田亮介先生から『天皇の近代』を頂いておりました。どうもありがとうございます。前田さんは去年から在外研究で(去年LSE今年プリンストン),歴史的資料に当たるのは相当大変なのではないかと思うのですが,力作ぞろいの本書の中でも一番長い論文書いてます。どうやって資料集めてるんだろう…。

前田さんは,「「皇室の藩屏」は有用か?」という論文で,天皇の権威に依存しつつ政治的にはなかなか主体的な存在になれなかった貴族院の位置づけについての議論を分析しています。特に近衛篤麿の「正義の女神」としての貴族院谷干城の「補導の臣」としての貴族院,という見解が論じられつつ,基本的には能動的に動かない君主が動かざるを得ない「非常時の大権」の行使について論じることを通じてそれらの構想について評価する,という感じでしょうか。

前田さんのだけではなく,他のいくつかのものでも見られましたが,「形式的には代表していないものが実質的に何か(国体?)を代表する」ということを考えるのは面白い話だと思います(難しいですが)。近年の統治機構改革論でも,そのような実質的な代表をどう設定するかというのが重要な議論になっているような気がします。以前はそれこそ宮中関係であったり,審議会みたいなものがそういう機能を果たしていたところがあると思いますが,それが難しくなっている中で新たにどうするか,と。まあ近年だと,そもそも何かを代表すること自体いろいろと難しくなってるわけですが…。

天皇の近代―明治150年・平成30年

天皇の近代―明治150年・平成30年

 

*1:いやもちろん大雑把に決めることにもいいことがないわけではないのですが。