民主主義を装う権威主義

東京大学の東島雅昌先生から、『民主主義を装う権威主義-世界化する選挙独裁とその論理』をいただきました。ありがとうございます。こちらは、東島さんが英語で書かれたThe Dictator's Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies をもとにしているものですが、日本語では権威主義の歴史に関する説明なども加筆されているということです。東島さんは、権威主義体制の研究で国際的に活躍されている比較政治学者ですが、本書は権威主義体制の分析でありつつも、現在世界的に「民主主義の後退」が叫ばれる中で、民主主義国の人々にとっても極めて示唆に富むものになっていると思います。

本書で扱っているのは、権威主義体制における「選挙のジレンマ」、つまり、選挙は権威主義体制のリーダーである独裁者にとって、その支持を明らかにして体制を強固にしたり、独裁者を支持しないのが誰かを可視化したりするというような便益をもたらす一方で、反対勢力が大きいことを示すことで独裁者を窮地に追い込む可能性もあるという選挙の機能です。独裁者は、自分に対する支持がどの程度か、言い換えると「ガチ」で選挙したらどのくらい支持を調達できるかということを考えながら、選挙に対する介入を戦略的に行う存在であるとされます。そのうえで本書では、十分な資源をもってそれを分配することで支持を調達できる独裁者は不正に頼らず(比例代表での選挙でも勝負できて)、逆にそれが困難となる場合には露骨な選挙干渉も含めた介入を実施するということが論じられていきます。もちろん、過剰な介入を行うと国内の反発を招いて指導者交代につながることもあるわけですが。

このような主張について、数多くの権威主義体制の国を含めた多国間データの計量分析で検証していくわけですが、本当に様々なデータセットを利用し、何重にも頑健性を確認しながら進めていくやり方は本当に勉強になります。さらに、比較歴史分析として、カザフスタンキルギス共和国という二つの国の歴史を検討し、独裁者が天然資源のコントロールを確立した前者では、比例代表制が導入されて以降広範な動員が行われてあたかも「民主主義国のように」公平な選挙が行われ、それによって独裁者が信任されていく一方で、後者では財政資源の不足などによる弱体化の中で動員が難しくなり、小選挙区制のもと過剰な選挙操作が行われて大規模な抗議運動につながると指導者の交代に至る、ということが例示されています。

自分自身が日本政治を研究しているので、本書を読みながらどうしても日本政治と重ねながら考える部分がありました。本書でも書かれているように、民主主義体制と権威主義体制は全く質的に異なるものというよりは、重なって区別しがたいような部分もあるわけです。現状の日本では、あからさまな選挙不正こそないものの、全体として野党がまとまりにくかったり、現職が有利だったりという、政権党に有利な選挙制度の構成になっていて、それを利用しながら政権党が大差で勝利して信任を得る、という部分があるのは一定の類似性を感じてしまうところです。とりわけカザフスタンは、選挙制度的にも財政資源的にも、政治改革以前の日本政治とも重なるところが大きいなあ、と。とはいえ、カザフスタンとクルグスタンのような比較可能性はないわけですから、安直な連想に浸るのは慎んだ方がよいとは思いつつ、民主主義国においてもそれを「装う」ことになる危機感を感じながら本書を読むことはできるだろうと感じるところはありました。