政治改革

期待していた,NHKスペシャル証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 第1回 1993〜1995“政権交代” 誕生と崩壊の舞台裏」を見る。当時は中学生くらいだったので当然リアルタイムな記憶はほとんどとどめておらず,改めてまとめて映像を見ると非常に興味深い。やはり連立政権がうまくいかなかった非常に大きな原因は小沢−武村の関係がうまくない,という筋だが,武村氏のコメントを聞いていると,そもそも情報がうまく流通していなくて,意思決定のための「調整」がほとんどなされていなかったことがよくわかる。省庁間の調整については既にある程度以上制度化されていたわけで,問題は政治家同士の調整ということ。従来の自民党政権では,政治家同士の調整を官僚が行う(そしてそれが高級官僚の主要な役割のひとつ)ことになっていたが,自民党以外の政権の場合には突然そこが機能しなくなると。今回の民主党政権で,新たな「総合調整」の機関ともいえる国家戦略局行政刷新会議を強調するのはその反省も大きいということだろう。しかし,最近の行政刷新会議の人事でもめた事例は,実際のところさらに上位の「調整」がうまく機能していないことを意味していると思われる。ただこれは逆に,「調整」以前に誰がどのような権限を持っているか(権限配分)がそもそもはっきりしていないことが重要な背景なのかもしれないが。
それからもうひとつ,大きなところとしては前回のエントリにも通じるが,小選挙区制の導入という政治改革に対する自民党政治家の態度として重要な要因に,社会党左派との関係をどう見るか,というのがあるような感想を持った。小沢氏が何度も自社の55年体制で馴れ合いの中で社会党にも分け前を与えながらなあなあでやってきたと何回も強調していたのは象徴的か。自民党としては小選挙区でも構わない中で(実際細川内閣時代の小選挙区制導入時は連立政権自民党が妥協している)社会党(特に左派)は小選挙区制絶対反対だった。政治改革は単なる何らかの「アイデア」による帰結なわけではなくて,政治システムのなかで社会党(左派)をどう位置づけるかという問題と密接に絡んでくる。やや短絡的ではあるが,自民党の中でも社会党(左派)とのつながりを資源にしうる集団と,逆に社会党(左派)を重荷に感じる集団がいて,政治過程において後者の利益が実現されたと考えられるのかもしれない。しかもそのとき,自民党は一部で分裂したが,なんだかんだ言って割と政党が凝集的なのは面白い。最終的に自民党でも多くの議員が政治改革に賛成したし,社会党もまとまって連立から離脱し,自社さで連立を組むことになってた*1
あとは特に今まで気が付かなかったことをいくつか備忘として。

  • 経世会旗揚げのパーティーでは垂れ幕が「竹下派発足」となってる。時代が違うとはいえ,今から見るとやはり違いを感じる。違いを感じるといえば,幹事長代理が陳情団の前で主計局長に電話をしていた。その手の話はAnecdoteとしてよく聞くが,テレビの前でもやってたとは…。
  • 1993年政権交代当時の官邸の微妙な関係:武村官房長官と先輩に当たる石原官房副長官。VTRでも石原氏は「武村君」と「小沢さん」と言っていた。
  • 野中元幹事長のコメントwww「借金は退陣を迫るほどの問題じゃない」とか「村山さんをこの場に引っ張り出したのは申し訳なかった」まあこれは他でも書いてるが。
  • 1995年自社さ政権。塩田潮氏の『出処進退の研究』でも,亀井静香氏が社会党左派の伊東秀子氏を引っ張ったと言う話が出てる。自民党社会党左派を引っ張る,という構図自体は既に言われている通りだが,実際社会党左派は連立政権より自民党によっぽど近かったわけで,今回のVTRを見ると,Pivotal voteを持っているのが社会党右派であったことがよくわかる。登場した政治家のコメントでは,「人間関係が優先した」という話だったが,それ以前にイデオロギーがグタグタで,利益で動く側面がかなり強いような気がする。

*1:基本的にこの間は左派主導だったと思うが。社会党の左派と右派の関係も非常に興味深い。右派はいつでも独自行動取れそうなもんだけど取れないというか。この辺は,森裕城,2002,『日本社会党の研究―路線転換の政治過程』木鐸社,が非常に参考になる。

日本社会党の研究―路線転換の政治過程

日本社会党の研究―路線転換の政治過程