戦国大名論−暴力と法と権力

実は副題に誘われて購入したのだが,非常に面白かった。歴史家である著者が,戦国大名の形成について論じているのだが,僕がイメージしているような「歴史学」とはちょっと違っていて,まさに「政治学」の文献と言ってよいのではないかと。著者によれば,戦国大名のイメージとして「イエ」を支える人格的・私的な主従関係による支配と,領域の裁判権などをもつ統治的・公的な支配が二元論的に分けられていて,前者のほうが中世的で暴力を強調するもの,後者のほうは近世的で法を強調するものというようにとらえられるという。著者は,このような二元論を排して*1,暴力と法が分かちがたいかたちで戦国大名の権力を構成していることを,実際の文書の解釈などを通じて示している。
とりわけ面白いと感じたのは,領域にさまざまに存在する個々の権利である「知行」を超えた領域支配の枠組みである「領」という観念が広がっていくところで,それが公共性を持ち,「私的な利害を超えた公的な利害調整を行う場」(57頁,これはもともと国人一揆がそういうものであったとされる)として大名権力が形成されていくというところ。社会的・経済的に結びつく範囲が広がっていく中で広域的な利害調整が要請されることで権力ができていく,というのは,略奪国家の議論みたいなものを考えてみても面白い。単に経済的な結びつきが広がっていくだけではなく,ライバルに勝利するために結びつきを広げる中で,どうしても利害調整を行う必要が出てくるということもあるだろう。実際本書でも,「「領」は,事実関係としては,公共的な利害調整のために成立するのではなく,軍事的制圧などによって,一定の規模の「領」が成立した結果として,その土地の公共的利害調整が行われるようになり,事実上の公的領域支配として機能するのである」(130頁)とある。
最近出版した著書である『政治学の第一歩』では,正統性と強制力という概念を軸として利害調整や集合行為問題の解決について議論しているわけだが,ほぼ同じようなかたちで歴史家が権力について議論しているのは非常に興味深いし勇気づけられる。ただ細かいことをいうと,本書の議論はティリーの略奪国家のような話をホッブスの契約国家の枠組みで説明しようとしているように見えるところがあって,一般の農民が暴力に自分の生命を付託するってのはなかなかと思うところはあった(130頁あたり)。まあ実質として暴力が先にあってそれに従うというのは,いやいや(機会主義的に)従っているのと付託して積極的に従っているのと外から見ると区別ができないわけだが。そのあたりに関連して,フーコーの議論(4章)が出てくるのも非常に面白い。権力は偏在するのではなく遍在する,というような話で,だれか個人に付属するのではなく,すべての人々を絡める関係性の網の目みたいなものとして概念化するという議論はまさに政治学でも出ている話である*2。それから,面白いというわけではないけど,言葉の使い方が違うんだなあと。特に気になったのは「正当性」と「正統性」,「自立」と「自律」。前者が本書の用語となっているが,個人的には後者を当てたい。
というわけで,この本の読み方としてはあんまり筋がよくないのかもしれないけど,一応著者の一人としては宣伝を兼ねて『政治学の第一歩』を3章くらいまで読んだうえで本書を読んでみると非常に面白いのではないかと思います。

戦国大名論 暴力と法と権力 (講談社選書メチエ)

戦国大名論 暴力と法と権力 (講談社選書メチエ)

*1:たとえばルーマンの権力論として「正当性と暴力や,合意と強制を対立させたり,一時限的な両極におく見解が広まっているが(中略)このような見解は誤りにつながるということを確認しておかなければならない」という言葉が引用されている

*2:Clarissa Rile Hayward, 2000, De-facing Power, Cambridge, UK: Cambridge University Press

De-Facing Power (Contemporary Political Theory)

De-Facing Power (Contemporary Political Theory)