暴力と適応の政治学/歴史認識とは何か

京都大学の岡本正明先生から、『暴力と適応の政治学』をいただきました。ありがとうございます。本書では、学術書としては珍しく、著者の個人的な体験(特にテーマであるジャワラ(ならず者)との関係)が書かれたりしていることからも感じられるように、政治をテーマにしつつ政治学という枠には収まらない文化人類学的な議論が行われています。実は岡本先生とは一緒に研究をしていて、いままでにも断片的にお話をお聞きしてきたのですが、そういうお話が全体の中でいろいろ織り込まれていて個人的にも非常に興味深いところでした。
中心的な議論としては、さまざまな社会的亀裂が存在する多民族社会のインドネシアにおいて、地方分権が進められた中で、政治の安定が維持されるのはなぜか、という問題についての議論です。岡本先生によれば、インドネシアにおいて、地方自治体の分割・新設が進められていることが、自治体内での深刻な政治的対立を生む前に対立の一方を独立(?)させてしまうことで安定を確保するような効果があること、そして、非常に複雑な社会的亀裂の存在が、シングルイシューでの深刻な対立を防ぎ、かえって安定をもたらすという議論がなされています。そういった議論を、ジャワラという地元の有力者による地域支配の歴史を補助線として描いている、という感じでしょうか。
こういった安定は、広範なパトロンクライアント関係に支えられているところがあるわけで(それにつながることで得られる利益を配分することが深刻な対立を防いでいる)、日本の経験を想起すると、経済成長が止まった後にどうなるか、という印象は持ちました。議会の選挙制度も日本の中選挙区制に少し似たところがある非拘束名簿式比例代表制なわけですし。ただ、インドネシアの場合には、地域レベルにとどまらず全国政党を作り出そうとするさまざまな制度的なしかけがあるので、それがこれから機能するか、つまり地域を超えた政党が、地域の利害を調整することができるかどうか、というのがポイントんあるように思います。

慶応大学の細谷雄一先生からは、『歴史認識とは何か−日露戦争からアジア太平洋戦争まで』をいただきました。読んだ人のほとんどがびっくりすると思うのですが、あとがきにあるように、これだけの著書を(原稿がない状態から)一か月くらいで書き上げてしまったというのは本当にすごい話です。ちょうど8月15日から、一気に読ませていただいたのですが、非常に読みやすい文体であるとともに、『国際秩序』のときと同様に、複数の同時進行的な関係を立体的に浮かび上がらせていると思います。
個人的には、特に日露戦争に おける国際法の順守や錦州爆撃など、日本にとって「ブーメラン」になるような展開は、やはり世界の中での日本という視点なしには示せないものだと思いました。軍人に対して教育として国際法や外交史などを教授することによって、近代世界システムの一員としての振る舞い(外交や戦争、なわけですが。もちろん戦争は違法なものであるとして。)をさせることが、日本にとって不可欠な国際主義の条件であるということが示されていると思いますが、そういった議論は、何よりも、国際法や外交史、国際政治の知識が政治の運営にいかに重要かということを示すお仕事になっていると思います。
少し思ったのは、(次巻以降のお話かもしれませんが)超大国が従来の規範では微妙なことをやってくるという問題をどう考えたらよいのか、というこ とでしょうか。原爆はもとより(これは従来の空襲の延長線上にあるのかもしれませんが)、最近でいえばアメリカがやってるドローンによる攻撃、などはかなり深刻な問題だと思います。「国際政治の世界では、純粋な正義が実行されるということはほとんどなく、通常はそれぞれの政治的思惑のなかから、そのような偽善を含む正義が唱えられている。かといって、純粋な権力政治が展開することもほとんどなく、多くの場合はそれを正義の衣で覆っている。」(189ページ)というのはまさにそのとおりだと感じましたが、そんななかで超大国の権力政治に対抗するタテマエがどうやって作られているか/タテマエをどうやって作り出していくかというのは考えないといけないところなのでしょう。コンストラクティヴィズムはそういった問題意識のもとにあるということなのかもしれませんが。