介護市場の経済学

名古屋大学の角谷快彦先生による著書。もとはシドニー大学の博士論文だったということ。政治学では博士論文の出版は最近ふつうになってきたけれども,経済学だと査読論文数本をもって博士論文にすることが多いので,歴史系以外だと博士論文を著書として読むことは極めて珍しいように思う。ただ,本書は経済学というだけでなくて行政学にも非常に近い分野の研究であり(JPARTとか行政学系の雑誌の引用も多い),日本だと経済学者より行政学者の読者が多いかも。日本で行政学で博論を書く人はこういう研究が増えていくように思う(希望的観測込み)。
前置きが長くなったけど,本書の主張を極めて完結に言うと,介護のように「質」の低いサービスが利用者にとって大きな問題となる公共サービスを市場化する場合には,(1)ユニバーサルな給付,(2)利用者の状態に合わせた標準化,(3)価格競争の制限があると望ましいのではないか,さらにそのような市場がうまく機能するためには,(4)質についての評価が公開されて利用者がそれを元に選択すること,が重要である,というもの。そして,実は日本の介護サービスはこのような条件を実装したと評価できるものであり,国際的にも成功事例として発信することができるのではないか,という主張になる。介護については最近だと施設での虐待みたいな事例が報道されていたり,介護サービスに従事する人の賃金が低すぎてサービスが悪くなるという議論が多い中で,外国との比較を踏まえながら積極的に評価するというのは,それが全く正しいかどうかということとは別に重要な試みだと思う。
実証しているところは,日本のグループホーム供給において,情報の非対称の問題が大きくなくて,利用者が介護サービスの質に基づいて選択してるというところ。情報の非対称があれば想定されるような非営利への志向や競争の激化による質の低下,新規参入による質の引き下げなどは見られず,むしろ政府がサービスの質を公開する場合に競争が激しいと質が高まる,というような観察がされたというもの(4章)。このようなユニバーサルな給付を財政的に成り立たせるためには,収入格差が小さいことが要請されるということも,国際比較から議論している。
もうひとつ,介護サービスの供給者の側についていえば,最近は低賃金の問題がしばしば指摘されていてこれは本当に深刻な問題だと思うわけだが,本書の議論だと,日本のプロセス重視の評価や訓練の方法は,アウトカム重視のアメリカと比べて高いパフォーマンスをあげていて,また介護の分野で専門性を上げていくようなキャリアパスがある程度用意されていることで訓練(と特にキャリア初期の労働)を可能にするという議論も興味深い。これは必ずしもそのまま受け入れられるものでもないような気はするし,年功序列企業のように人が滞留してきたらどうするんだ,という話もありうるだろうけど,悪くない側面についてもある程度データを使いながら確認していくのは重要だろう。
全体としての論点は,やはり(3)のところだと思う。(1)と(2)を実装している国は少なくない,というか,対人社会サービスを市場化するときにはこの二つの条件は割と自動的に入ってくると思うのだが,(3)については日本特殊。教科書的には利用者が価格をシグナルにして選択をすることで,望ましくないサービスが淘汰されるという話になるが*1,日本の場合は介護に限らず保育所でも基本的に同一価格だし,対人社会サービス以外の民営化事例でも価格競争を導入することはそれほど一般的ではないように思う。たとえば最近のケータイの事例のように,価格競争が働かないということは非難の対象になることが多いわけだが,介護のような対人社会サービスにおいて「安かろう悪かろう」になるのは利用者の厚生に直接影響するので,質についての情報を公開したうえで利用者が選択して,それを元に競争するというのは確かにひとつのモデルという感じはする。
この季節になると話題になる保育サービスもやはりこれに近いかたちなわけだけど,これまた特殊と理解すべきか。子どもの場合には,(2)利用者の状態に合わせた標準化というのはまあ基本的には年齢であって,(4)質についての評価の公開は認可/認可外/認証といったものがざっくりだいたいしていることになると。で,おそらくこのような標準化や質についての評価があまりにざっくりしているので,その後のことを考えて0歳児保育+認可のところに集中してしまい,それは人手を大量にとられるサービスでもあるので,そこからパンクしてしまうという状態が起きていると理解できるのかもしれない。反対に言えば,価格競争が入っていれば,その0歳児保育+認可のところがすごく高くなるので需要も少なくなるわけだからもう少しさばけるようになるのかもしれないわけで,ある意味で価格の付け方に失敗しているということなのかも。まあだからといって0歳+認可のところの価格を上げるだけではだめで,1歳以降の供給を増やしたり,0歳児の親/0歳児でも働かないといけない低所得世帯への給付を増やしたりする必要はあるだろうけど。

介護市場の経済学―ヒューマン・サービス市場とは何か―

介護市場の経済学―ヒューマン・サービス市場とは何か―

*1:質についての情報がない利用者は価格という情報を元に選択することになる,と言っていいかもしれない。