入門 公共政策学

中央大学の秋吉貴雄先生から『入門 公共政策学』を頂きました。どうもありがとうございます。タイトルからわかるように,かなり教科書に近いスタイルの新書になっていると思います。各章で公共政策学の考え方を紹介しつつ,具体的な事例を用いてその考え方を当てはめるようなスタイルで進められています。それぞれの章で具体例となる政策を挙げられるのは,とてもわかりやすく勉強になりました。読みやすくされるために関連政策のリサーチをされるのは大変だったと思いますが…。特に一般医療品のネット販売の話は,政策決定のところということもあり,より突っ込んだ分析もぜひ知りたいと思いました。
個人的に,一番議論されていくべきだろうと感じたのは,最後の「合理的政策決定の呪縛からの解放」というところです。最近話題の『データ分析の力』を読んだのですが,この本では因果関係の議論が非常にクリアに説明されていると思いつつ,統計的因果推論だけで「合理的に」物事を決められないよなあという感想も同時に抱いていたところでした。単に外的妥当性の問題や議論が可能になるデータの制約というだけではなく,仮に期待される反応を最大にするような設計ではないとしても総合的に政策を議論する必要があるのではないかなあといいますか。もちろん,効果がないとか負の効果が出ているというのであればフィードバックされる必要はありますが。そのあたり,因果関係の議論を政策にどのように組み込んでいくかということを,より具体的にどう考えるかも「公共政策学」の今後の課題ということになるのかと思います。

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

住宅を持たせるか借りさせるか

日本でも,住宅を賃貸で借りるか,持家として購入するかというのは人生の大きな選択で,インターネットの掲示板での議論がしばしばまとめサイトに掲載されたりします。それはもちろん日本だけの問題ではなく,住宅難が社会問題になっているバンクーバーでも大きな問題です。人々が賃貸を選ぶか持家を選ぶかというのは,しばしば個人的な選択だと考えられがちですが,ジム・ケメニーという研究者は,賃貸住宅の供給に政府が責任を持つ傾向が強いかどうかが重要だ,ということを前提に,北欧など普遍主義的な福祉国家では政府が賃貸住宅の供給に責任を持つことで人々が賃貸住宅を選びやすく,イギリスなど自由主義的な福祉国家南欧などの保守主義的なところでは政府はあんまり賃貸住宅の供給に乗り出さないので賃貸はあんまり好まれず,最終的に持家で住宅更新がされるという議論をしています。なお,福祉国家をめぐる議論を勉強した人はすぐわかるように,この議論はエスピン・アンダーセンのいう「三つの世界」を意識していて,なんとなくその分類と同じ分類で議論できそうなものの,そこまでクリアではないちょっとぼんやりした議論になっているところがあります。
ケメニーは基本的にヨーロッパの国を比較した議論をしているので,日本もカナダも出てきませんが,色々な特徴を見ていると両方とも「二元モデル」,要するに政府が賃貸住宅の供給に責任を持つ傾向が弱く,最終的に多くの人が持家購入によって住宅更新をするタイプであると考えられます。日本の場合は,特に高度経済成長期のような住宅難の時代に,土地区画を細分化して大量の住宅供給を行うようなことをしましたが,カナダでは土地利用の規制が厳しく,人がたくさん流入するバンクーバーでは住宅難が厳しくなっているうえに,住宅価格が高騰して社会問題となっています。こちらでは,連邦政府ではなくBC州,あるいはバンクーバー市に主にその解決が求められているようですが,今週やや方向の異なる二つの提案がなされてきました。
ひとつは,広い区画の中で,裏庭の部分に作ったレインウェイハウスlaneway house(僕が住んでるようなところです)を切り離して売れるようにしよう,という提案です。詳細はまだよくわかりませんが,たぶん土地の一体性はそのままにして上物だけ売るということだろうと思います。大きさは,だいたい700−1000平方フィート(65-90?くらい)で,まあ正直言って狭いです。自分の家を見てる限りだと,母屋との関係で高さも少し制約があるんじゃないかなあ,と思いますが。記事の中ではこれを100万カナダドル(9千万くらい?)でって書いてましたけど,いやそら高すぎるだろうというのが実感です。いやもちろん,こちらの住宅としては相対的に安いし,給与も日本より高めなのでAffordableなのかもしれませんが…。また,記事で紹介されていたのは,比較的敷地が広い地域の話なんで,もう少し大きい家なのかもしれません。しかし,区画を割らずに持家社会を貫徹するというのはなかなか大変なことだと思ったものです。
他方で,バンクーバー市が賃貸住宅の供給を進めるという記事も出てきました。カナダで初めての試み,ということですが,バンクーバー市がオークリッジといううちの近くの最近再開発が進んでいる地域で,1000戸ほど市場価格より低い住宅あるいは社会住宅が入った集合住宅を供給すると*1。この話はテレビでもやってて,UBCのビジネススクールの教授が,何万人も入ってくるのに1000戸なんて焼け石に水だ(大意)って批判してましたが。日本の公営住宅も似たようなところがないわけではないですが,仮に市が所有して運営するとしたら,建設費や土地の取得代をどのように償却していくかということは問題になるわけで,赤字が出るようだときついようには思います。限られた1000戸のために税金使うのか,という話になりますし。そうじゃなくてももっと利益を上げられる土地なのに,逸失利益が発生しているぞと言われる可能性もあるわけで。しかし日本の公営住宅と違うところは,ホントに便利なところに住宅を作るということで,そこに入れる人はラッキーかつ不当に羨ましがられることが予想される一方,批判が強ければ売り抜けてしまうという選択肢もないわけじゃないと。
改めてつらつら考えると,持家社会はやはり強固であって,バンクーバー市の賃貸へのコミットメントの提案が「制度」を変えるほどのインパクトはないように思います。とはいえ,人口が流入している成長する都市からこういう提案が出てきていることは,単に住宅を「所有」することよりも幅広い「利用」を重視することであったり,持家と賃貸の不均衡を是正したいという普遍主義的な発想があるのかもしれません。

追記

より詳細な内容がまとめられていた。Five things about Vancouver new housing planを見ると,賃貸住宅の供給に力点を置いたものになっていることがわかる。紙の新聞記事とやや順番が違うのがなかなか興味深いが図表がついているのは素晴らしい。その右の図を見るとよくわからるけど,年収が5万ドル(400万円くらい)ない人は社会住宅とかが用意され*2ボリュームゾーンである5万-15万ドルあたりは賃貸か,買うならコンドか新しいレインウェイハウス・タウンハウスであり,15万ドルを超えたらまあ適当に買ってね,って感じか。普通の戸建てはほっといても市場に出るから政府がかかわる新規供給としては議論されないということだと思う。しかし今サレーやリッチモンドに住んでる比較的低所得の人(5万ドル以下)は,バンクーバーで働いているとすれば,新たな社会住宅にアプライして何とか住みたいと思うだろうなあ(すでに市民じゃないと権利がないかどうかはよくわからん)。その分交通費とか時間も浮くわけだし。そういう意味では,日本の公団が都心から遠い郊外に分譲住宅を建てた,というのと正反対に,政府が都心に賃貸住宅を建てよう(たぶん狭いのは同じ)という趣旨なんだろう。日本の経験を踏まえると,個人的にはその方が良いと思うけども,入居する権利を獲得した人とそうでない人の不公平感っていう問題はあるかもしれない。日本の場合は結局そこがどうしてもネックになってたように思う。


From Public Housing Soc Market

From Public Housing Soc Market

なおこの本はどうも絶版になってるらしく,図書館くらいしかありません…。日本語で読めるものとしてはこちら。
ハウジングと福祉国家 居住空間の社会的構築

ハウジングと福祉国家 居住空間の社会的構築

福祉資本主義の三つの世界 (MINERVA福祉ライブラリー)

福祉資本主義の三つの世界 (MINERVA福祉ライブラリー)

*1:まあその「市場価格より低い」価格はウチの家賃より高いくらいなんですけどねっ

*2:日本の公営住宅の感覚から見るとものすごい高い。もちろん給与水準の違いはあるが

The Democratic Party of Japan in Power: Challenges and Failures

お送りした拙著のご感想についてのお手紙とともに船橋洋一先生に頂きました。もともと中公新書で出版された『民主党政権 失敗の検証』を翻訳し,Routledgeの日本研究シリーズの一冊として出版されたものです。実はまさにこの中公新書を引用しつつ書いた論文を英語に再構成しているところだったので,偶然ですが個人的には非常に素晴らしいタイミングとなり感謝しております。最近の日本政治や行政について,日本での議論の文脈に乗りながら英語で書かれたものというのは残念ながらやはりそれほど多くはなくてこういう発信は本当に貴重だと思います。日本の文脈で書いたものをそのまま英語に直すことはできないわけで,特に困るのは定訳の見つからない組織・機関や講学的な概念の扱いが難しいところです。結果として,たとえば政策過程について英語で書かれたものはなんだか単純化が過ぎるように思うことは少なくないですし,とはいえ日本語をそのまま直訳しても文脈がないので意味が分からない(あるいは直訳できない)となるように感じます。結局,英語でも日本語でもある程度固有の文脈に沿った発信が溜まっていかないと,その次の蓄積が難しくなるわけで。本書の場合は,比較的日本の文脈をそのまま英語にしているところがあって,これは書籍だからこそできるところでもあるように思います。こういった英語の発信を蓄積していくと,それを前提に次の議論が行いやすくなり,英語と日本語で行われる議論のギャップが狭まるのではないか,と期待を感じます。もちろん,研究者個人個人がどういう方法であれ積極的に発信することが前提ですが。
なお日本再建イニシアティブはこの7月に「アジア・パシフィック・イニシアティブ」として第2ステージに進まれたということです。海外メディアへの情報発信を重視しているシンクタンクとしての発展をお祈りしております。

The Democratic Party of Japan in Power: Challenges and Failures (Nissan Institute/Routledge Japanese Studies)

The Democratic Party of Japan in Power: Challenges and Failures (Nissan Institute/Routledge Japanese Studies)

民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)

民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)

それから,帝京大学の渡邉公太先生に『昭和史講義3』を頂いているようです。どうもありがとうございます。この『昭和史講義』も1巻が英訳されているものですね。『3』は戦前のリーダーに注目して編まれたアンソロジーになっているようです。

Local Politics and National Policy: Multi-level Conflicts in Japan and Beyond

京都大学のヒジノ・ケン先生からLocal Politics and National Policy: Multi-level Conflicts in Japan and Beyondを頂きました。どうもありがとうございます。本書は,これまでヒジノさんが論文で書かれてきた,主に政党内での中央−地方の紛争についての研究をまとめるものとなっています。1990年代の統治機構改革以前にはマルチレベルで一定の均衡が見られていたものの,2000年までの移行期を経て,ある種の不均衡のような状態に陥っているというのは,私の新著『分裂と統合の日本政治』とも共有する視角だと思います(まあ共著論文もありますし,共同研究もしているわけですから)。ヒジノさんの本では,統治機構改革によって政党の垂直的な統合が弱まったこと,国政レベルでの選挙のボラティリティが高まったことで国会と地方議会での政党の構成が変わるとともに知事と政権党との結びつきが弱くなっていったことが論じられていきます。実証的な検討の部分では,自民党内で地方組織が政党執行部と対立を含みながら影響力を増していったことや,反対党(=民主党)が政権を握ったときに地方からの回路での民主党への反対が影響力を持ったこと,そして知事(のグループ)が政権党の政策過程に影響を持ちうることが論じられています。中央政府が,地方政府の長や議会の出してくる地域ごとの利害に直面することが増える中で,新たな均衡を探ることが難しくなっている,というのは私の本にも通じる結論と言えるでしょう。
政党の地方組織が自律性を持ちうることを,事例研究を通じて議論するというのは,本書のpraiseを書かれているSteven R. Reed先生の以前の本を想起させるところがあります。単に中央地方関係という観点から地方組織に自律性があるかないか,という論点に,主に国政での政党間競争という論点を絡めることで,マルチレベルのガバナンスのあり方が変わってくることを議論しようとするのが特徴でしょう。私の本は,政党間競争そのものというよりは,国政と地方政治での政治的競争のあり方の違い,という点に注目しながら議論を展開しているわけですが,比べて読んでいただくのもよいのではないかと思います。さらに,このような政党と中央地方関係をめぐる議論が日本でなされているということが,海外の研究者に向けてきちんと発信されることになったということもヒジノさんの大きな貢献でしょう。この点は私もぜひ見習っていきたいと思います。

日本の政府間関係―都道府県の政策決定

日本の政府間関係―都道府県の政策決定

その他に,以下の本を大学に送っていただいたようです。まず,関西学院大学の山田真裕先生からは,『二大政党制の崩壊と政権担当能力評価』を頂きました。ありがとうございます。Japan Electoral Survey(JES)の調査に基づく研究ということですが,前著の『政治参加と民主政治』から1年での出版というのはすごい早さですね。Journal of Politicsにもご論文が掲載されるということで,大変なご活躍だと思います。
シリーズ日本の政治4 政治参加と民主政治

シリーズ日本の政治4 政治参加と民主政治

加茂利男先生からは,『地方自治の再発見 不安と混迷の時代に』を頂きました。ありがとうございます。目次を拝見しますと,合併や広域連携など,自治体という政治空間再編の議論を中心に展開されているようです。『縮小都市の政治学』でご一緒したときに考えておられたことを改めて発表されるというところもあると興味深いです。あと,「地方自治と私」というご講演に基づく章もあるようで,こちらも楽しみです。
地方自治の再発見 不安と混迷の時代に (現代自治選書)

地方自治の再発見 不安と混迷の時代に (現代自治選書)

縮小都市の政治学

縮小都市の政治学

政府の秘密の仕事を信頼してもらうためには

森友学園につづいて加計学園の話が出てくる中で,共謀罪テロ等準備罪の話(少なくとも海外から眺めていると)すっかり後景に退いた感がある。しかし,刑事法を専門にされる慶応義塾大学の亀井先生が精力的にブログにまとめられているように,刑事法の観点から様々な論点や疑問点が出されるのは自然だが,政治学行政学の観点からも興味深い論点がいくつか存在するように思われる。
共謀罪テロ等準備罪の重要なポイントのひとつは,犯罪が組織的に計画されるものを処罰するということである。詳細は亀井先生のこちらのエントリに当たっていただきたいが,法案の6条の2では,「組織犯罪集団」が「団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第3に掲げる罪を実行することにあるものをいう」と定義されている。じゃあその「団体」とは何ぞやと言えば,「共同の目的を有する多数人の継続的結合体であって,その目的又は意思を実現する行為の全部又は一部が組織(指揮命令に基づき,あらかじめ定められた任務の分担に従って構成員が一体として行動する人の結合体をいう。以下同じ。)により反復して行われるものをいう」(2条1項)と規定されている。この定義からすると,「共同の目的」があり,「多数(複数)の人間による」「継続的なもの」であり,目的を実現するために団体の中に指揮命令系統が存在するようなものだと考えられることになる。
このような組織・団体の特徴は,すでに日本に存在する株式会社やNPO法人公益法人も同じように持っているところがある。とはいえ,犯罪を実行しようとする組織は,法律で認められている法人と同じように,定款やメンバーをそろえて政府に提出するわけではないから,その組織・団体自身が自分たちのことをどう「組織」として考えているかということよりも,取り締まる側の政府が当該組織・団体を認識しているかどうかというのが問題になる。単に人間が複数集まっていることと,組織であるということは基本的には見分けがつかなくて,目的を共有するとか上位者の指揮命令に従うというある種の「フィクション」の存在を,その外にいる人間が認定するかどうか,ということが問題になるわけだ。もちろん,この点についての批判が上がっていて,京都大学の高山先生は,「「組織的犯罪集団」には認定や指定が不要なのはもちろんのこと、過去に違法行為をなしたことや、過去に継続して存在していたことすらも必要ない。当然のことながら、それ以外の集団との線引きが事前になされているわけではなく、構成員の属性も限定されていない。」と指摘して,警察が恣意的に(=勝手に組織・団体の境界を定めて)個人を犯罪を実行しようとする組織のメンバーだとみなし,公権力を振るう可能性があると批判している。先ほど紹介した亀井先生のブログでも,処罰の早期化を行う同法では,6条の2でいうところの団体の要件の解釈をより厳格にするべきだという指摘がある。たとえば,団体として上位者が行った意思決定を下位者が実現するというプロセスがあるかどうかとか,その団体が別表で規定される共同の目的を達成するために存在するかどうかとかを精査しなくてはいけない,と。
さらっと書いたけども,その団体の共同の目的についての規定がある別表は,ちょっと違和感というか不思議な感じを覚える。そこに掲げられているのは刑法をはじめとした各法律の条項であり,要するにそれらの法律に違反する犯罪それ自体が「共同の目的」という扱いを受けることになる。しかしながら,一般的には犯罪それ自体が目的というよりも,何らかの目的を実現するために犯罪を実行するということになるのではないか。まさにテロリスト集団がそうである(と考えられる)ように,人を殺すのもだますのも,それ自体が目的というよりは,自分(たち)にとって有利な状況を作り出したり,金を奪ってそれを自分のものにしたりするという目的があるわけで。ただまあそういった組織の目的を具体的に定義するのは難しい(くどいけど定款出してくれるわけじゃないので)。『治安維持法』の著者でもある中澤先生が論じるように,1925年に制定された治安維持法は当時の国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰するものであり,当初は検挙者が少なかったものの,結社を支援するあらゆる行為が対象となる(=組織・団体の外の人間も含むことができる)目的遂行罪が追加されることになって検挙者が激増していったことを考えると,恣意的な理解が入る可能性がある抽象的な目的から組織を定義するのではなく,具体的な犯罪行為と結びつけて組織・団体を理解しようとするのは,歴史を踏まえた抑制的な方法と言えるところがあるのかもしれない。
しかし仮に以前よりも抑制的であったとしても,公権力による恣意的な運用の可能性・危険性を排除することは難しい。とりわけ,疑いを持っている人に対して信じてもらうようにすることは非常に難しい。これは,政府(ここでは警察)の仕事が公開されているわけではないから最終的に公の場で危険性のなさを確認できないことに起因することが大きいだろう。もちろん,公開されてようがいまいが政府の陰謀ということで不信を持つ人はいるだろうが,おそらくそういう人たちの不信を払しょくするのは難しい。結局,政府としては,「政府が陰謀を張り巡らしている!」というわけでもないが,「政府がやることはすべからく信用すべき」というわけでもない中間的な人たちに納得してもらうことを目指すわけだが,犯罪を予防するためには当然秘密裡の行動が必要になるわけで,人々を納得させるための重要な手段であるところの公開の場での確認という手続きを取ることはできない。実際に当該法律で検挙された場合に,裁判所がその団体性を厳密に考慮してくれて,警察による団体の定義とは異なる定義から有罪・無罪の判断を下してくれるという可能性はあるが,(文脈はもちろん違うが痴漢冤罪などでの批判も抱える)刑事司法に対してそこまで単純な信頼を置くのも簡単じゃないだろう。というか,刑事司法「のみ」を信頼することで,信頼を担保しようというのは難しいのではないか。
政治学行政学の観点から言えば,こういうときに問題になるのは「信頼できる第三者」の存在であると思われる。秘密裡の行動を行わなくてはいけない以上,すぐに情報を公開してそれを精査するということは難しいが,ある程度時間を置いたうえで,どのような組織・団体が監視の対象になっていたかについて,信頼できる第三者によって再検討される余地が必要ではないか。そのためには,どのような「複数の人々」を,犯罪組織として捉えたかについての理由やプロセスを記した文書の存在が必要になる。少なくとも,担当者の個人的な判断で組織の認定がされるものではない以上,実行機関である警察などが組織を認定したということについての文書は必要だろうし,また,警察のどのレベルでこれを認定するかということについての議論も必要になると思われる。このような話は,同様に政府による秘密裡の行動が問題となる特定秘密保護法でも同じようなことが言えるのではないか。野党としては,反権力の立場から,そもそもこのような権力行使を一切認めるべきではない,というのも一つの立論の仕方ではあると思うが,「抑制的に権力を使わせる」(自分たちが政権についたら同じように抑制しないといけない)という立論の仕方もあるのではないか。特定秘密保護法のみならず,現在問題になっている加計学園のような話も含めて,安倍政権では文書管理・情報公開という観点から権力の抑制を考える話が続くような気がする。「一強」と呼ばれる状態だからこういうことが続くという人もいるかもしれないが,衆議院での小選挙区制導入や中央省庁再編という統治機構の根本を変えたことによる変化・整理の時期だということを意味しているように思う。

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

『熟議民主主義の困難』ほか

著者の田村哲樹先生から頂きました。バンクーバーまで送っていただきどうもありがとうございます。政治理論は私の専門ではないですが,『民主主義の条件』のような本を書いていることもあり,興味深く読ませていただきました。広い意味では私の本なども批判の対象として入ってくるのではないかなあという感じを覚えながら読むところです。それは政治理論家の,実証研究中心の議論に対する批判ではなくて,代議制民主主義を前提としつつ,その中で政党や議会の機能について議論していくもの(もっと言えばその機能不全を訴えるものも含まれるでしょう)に対して,「熟議民主主義」という異なる枠組みから批判するものと言いますか。
本書の内容は,熟議民主主義の「阻害要因」と考えられるものをテーマごとに取り上げて,それが阻害要因にはならないということを論じていくスタイルになっています。取り上げられるのは,まず「分断社会」「個人化社会」「労働中心社会」という社会のありようであり,さらには熟議民主主義の機能的代替物として考えられることがある「情念」「アーキテクチャー」,最後に熟議民主主義を論じる前提を規定しがちな問題として「親密圏」「ミニ・パブリクス」「自由民主主義」を論じると。それぞれ別に発表された論文を基にしたものであり,一部重なっているように感じるところがあります。また全体としてしばしば出てくるキーワードとして「ナッジ」「ベーシックインカム」,そして「反省性」というキーワードがあるのかなと。私の単純な理解では,熟議民主主義が擁護されるべき根拠としては,それが「反省性」の契機を含むという重要な特徴を持つところにあり,単に選好の集計を行うような(制度としての)民主主義とは違うから,ということ,そして熟議民主主義を機能させていくうえで,その参加者を対等な位置に置くことに寄与するベーシックインカムのような制度を構想する必要がある,という議論になっていくように思います。正直なところ,財源論としてそのような理屈でベーシックインカムの導入が一般にどこまで支持を受けるかという感じはありますが,政治理論的な正当化根拠として重視される可能性はあるように思います。
私自身は引用されている論文をきちんと読んでいるわけでもないので,専門的に議論する資格があるとは言えませんが,本書の中で気になったのは,「自由民主主義を超える」というのはどういうことなんだろうか,ということでした。中国やブラジルの事例も出されているところから見ると,基本的には権威主義体制でも適用可能だということなのかな,と考えたのですが,たぶんそれだけでもなく,(ここは田村先生とのメールのやり取りで感じたところですが)「自由民主義体制」というような体制レベルの議論ではなくて,集団や組織の決定としての「自由民主主義性」(ちょっとこなれない言葉ですが)の尊重(偏重?)に対するオルタナティブの提示というところがあるように思います。メンバーから選ばれた「代表」による公的な決定を集合的決定とすることに対する異議と言いますか。このあたりはなかなか上手に言語化できませんが,単に代表者がメンバーをきちんと代表できてないとか,「ボトムアップが大事」とかいうのとは違って,「反省性」をカギにしながら自由民主主義とは別の軸で評価されるシステムを議論しようということなのではないかと思います。
関連して感じるのが,「公私二元論」をどう考えるか,ということです。本書では,二元論が「自由民主主義」の重要な特徴の一つというように扱われていたと思いますが,本当にそうなのかなあと。私自身はかなり「自由民主主義」に寄った考え方をしている研究者だと思いますが,(単に勉強不足なだけという可能性はありますが)自分自身が「公私二元論」的な考え方をすることはほとんどなく,むしろほとんど一元論的な考え方を取っているように思います。はじめの著書でも,「公益」は主張の仕方によるもので私的利益と見分けがつかないという観点から書いてますし,共著の教科書でも「マンション管理組合から国際関係まで」一元的に考えていこう,というようなスタンスを取っています。なので,政治学者が一般に公私二元論に立って国家や政府というものに偏重した自由民主主義を考えているか,というとやや疑問も感じるわけですが。言い方を変えると,政治学がそういう一元論的なスタンスを取ったとき(それが支配的になるかは別として),この熟議民主主義論の居場所はどのように設定されるのだろう,と感じたわけです。自分の関心に引き付けて言えば,「マンション管理組合」の自由民主主義性というのはまあ怪しいところが多いわけで(あるいは「いかに自由民主主義的ではないか」が論点になりやすいわけで),まさに「熟議」が求められるところではありますが,そこで「熟議」がなされている状態が出現した時に,それを「自由民主主義的である」と評価してしまいそうな気はします。そこで,自由民主主義的の評価軸(まあそれも怪しいでしょうが)とは違う熟議民主主義的な評価軸があると,議論はしやすくなるのかなあ,という気がしました。この点は私にとっても重要なポイントになりそうなので,少しずつ勉強しながら田村先生にぜひ引き続き教えを請うていきたいところです。
と,専門外の人間が読んでいるので読みの正しさについてはちょっと保証できませんが,そういう人間でも思考が刺激されるという点で非常に興味深い本だと思います。

熟議民主主義の困難

熟議民主主義の困難

田村先生には,茨城大学の乙部延剛先生と共同で,もう一冊『ここから始める政治理論』もいただいておりました。ありがとうございます。こちらは有斐閣ストゥディアでの政治学シリーズ5冊目の本になります。政治を集合的決定として捉えたうえで,集合的決定が国家・政府だけで行われるものとして理解する必要はない,ということでグローバルでの正義論・民主主義論や,親密圏,フェミニズム市民社会…といったトピックについて議論されています(もちろん熟議民主主義も)。一般に政治理論というと規範を扱うという理解が多いような気がしますが(違ってたらすみません),本書では初めの方で規範的な話を扱い,そのあとは「不確実な社会における政治とは何かについて考察する」政治理論となっていきます。それは,合意について考えることであり,合意できない対立関係について考えることであるというか。挙げられるトピックは耳にすることが多い重要なものばかりですし,基礎的なところから議論されているので広く読まれるテキストになるのではないでしょうか。
ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

また,新潟県立大学の浅羽祐樹先生には,『戦後日韓関係史』をいただきました。ありがとうございます。本書では,10年一区切りということで章をが構成されていますが,これは簡単そうに見えて難しい。スケジュールに合わせて現実が動いてくれるわけではありませんから。しかしそれぞれの10年ごとに特徴があるとすれば興味深い話だと思います。頂いて,浅羽先生のところを少し拝読しましたが,文化交流ももちろん書かれていますが基本的には外交ということで,浅羽先生の歴史編/現代政治編という感じでしょうか(あと,コラムも大変面白く読ませていただきました)。ザーッと眺めていくと,両国ともに経済成長が望めたよい時代から,お互いに成長が止まって現状維持の周辺で神経戦をせざるを得ない感じがします。個人的にも,UBCではアジア研究所にいることもあり,良くも悪くもセミナーではビッグピクチャーの話が多くなるので,それについていくためにも勉強させていただければと思っております。
戦後日韓関係史 (有斐閣アルマ)

戦後日韓関係史 (有斐閣アルマ)

それから,大学のほうに,小西砂千夫先生から『日本地方財政史』を頂いておりました。まさにこの制度についての第一人者である小西先生が,歴史的な観点から「生成と発展の論理」を論じられるのは非常に勉強になるものだと思います。歴史の本ではありますが,この分野の教科書的な性格も持っているのかもしれません。あまり取り上げられない「災害財政」や「内務省解体」についても一章を割かれているのは興味深いところです。
日本地方財政史 -- 制度の背景と文脈をとらえる

日本地方財政史 -- 制度の背景と文脈をとらえる

舞台をまわす,舞台がまわる−山崎正和オーラルヒストリー

サントリー文化財団から頂きました。どうもありがとうございます。ツイッターなどでの評判を見ていて非常に読みたかったのですが,ちょうどカナダに来た家族に持ってきてもらうことができて読めました。話にたがわぬ面白さ,という内容だったと思います。もともとは美学・哲学を専門として,劇作家として活躍されていた山崎正和氏が,大学紛争の折には政治的な機微にもたちいる意思決定にも関与し,関西圏に根を下ろしてサントリー文化財団の運営を中心に知識人として社会にかかわっていく,という流れですが,満州での少年時代や京都での青年時代,アメリカ留学,評論や大学学長としての活動などどの部分をとっても本当に同じ人かというくらい様々なご経験をされていて,それらの経験を洞察に満ちた語り口でお話されています。ツイッターで読んで「そうなのか」と驚いた大学紛争期の東大入試中止のエピソードをはじめとする,新しく明らかにされた事実も非常に興味深いですが,個人的には山崎先生が往時の中央公論社のイメージでの「サロン」あるいは知的サークルを作ろうとしていろいろな努力をされるところが印象的でした。世の中が専門分化していく中で,「知識人」のようなものが存在しにくくなっているわけですが,そういう「知識人」の専門を超えた集まりを国際/日本/関西のレベルで作ろうとする活動と言いますか。ただこれは非常に難しい。山崎先生のような近代的な「知識人」が実際にどのくらいいるのか,という問題が大きいうえに,さらにそれに見合う人がいたとしても,そういう人は希少なのですごく忙しくなり,結局知的サークルを維持していくのが困難になるところがあるように思います。また,あくまでも「知識人」としての立ち位置をとって直接的に政治的なリーダーシップとはかかわらないということは,政治から独立して自律性を保つことができる一方で,求心力がどうしても弱くなりがちになるところもあるのかもしれません。いずれにしても困難は大きいわけですが,このような活動を記録として残されることは,専門分化がさらに進んでいく次の世代にとっても非常に重要な資産になるだろうというのが読者としての印象です。
感想でしかありませんが,山崎先生がこうやって独立した「知識人」として活動を続けてこられたのは,社会科学のように研究対象となる社会そのものから影響を受けてしまうということがない美学・劇作といったところにご専門があったことも大きいように思います。あくまでもホームグラウンドでの発表の場があって,そのうえで様々な社会的活動に乗り出すということが自律的であるために重要なのだろうなあ,と。人文学でそういう方がいるのかもしれませんが,現在では政策に関与する研究者の多くは社会科学者であって,山崎先生と同じような形で自律性を保つのはなかなか簡単ではないと。最近はいわゆる「文系学問」の必要性について議論がありますが,このように独立した観点で社会を眺める目というものが,人文学から生まれてくるとすれば,非常に大きな存在意義になるのではないかという感じるところでした。本書でも,そういった山崎先生の観点からの様々な社会批評が述べられていて,いちいちうなづくところが多かったと思いますが,個人的には「近代知識人における自我の欠如」「関西問題は全日本問題」「浅利慶太氏と小隊長の精神」「防衛論争とレイマン・コントロール」(いずれも節タイトル)のあたりをとりわけ興味深く読めました。

その他,浅羽祐樹先生から,『だまされないための「韓国」』を頂きました。ありがとうございます。SNSではすでにたくさんの感想・批評も出ているようで,読むのを楽しみにしております。詳細なものとして,本書に続く「第8章」として木村幹先生との対談が掲載されているシノドスの記事を興味深く読ませていただきました。
だまされないための「韓国」 あの国を理解する「困難」と「重み」

だまされないための「韓国」 あの国を理解する「困難」と「重み」

御厨貴先生からは,『明治史論集』を頂きました。ありがとうございます。東京都立大学にいらした時期の論文を中心に整理されたということです。整理にも関わられたという北海道大学の前田亮介先生が力の入った解説を書かれているということで,こちらの方もぜひ読んでみたいところです。
明治史論集――書くことと読むこと

明治史論集――書くことと読むこと