保育と政治

少し前に、杉並区で認可保育園に入れなかった幼児を持つ母親たちがデモを行った(いわゆる「保活デモ」)というニュースを見て、何らかのかたちでまとめておきたいと思いつつ、問題が多岐にわたりすぎるので全然進まないのだが、少し時間がとれたので一応現時点でのメモ。この問題については、保育園に入れない、母親たちの悲鳴東洋経済)のようなルポの他、海外メディア(NYTBBCなど)で取り上げられていて、数年前から特に盛り上がってきたが、これがさらに激しくなっていく感じ。

定義と前提

何が問題になるのか、ということ自体、人によって見方が変わってくるだろうと思われるので、一概には言えないが、たぶん一致するだろうと思われるのは「待機児童」の問題。この問題自体、定義はいろいろありうると思うが、ここでは要するに、保育という社会福祉サービスを受けたいと思っても受けられない人が出てきますよ、という感じで定義しておく*1。つまり、本来公的な保育サービスを受けたいと思っていてもそれを受けることができず、非常に高額な私的保育サービスを受けて就業を継続するような場合、実態としては「保育」を受けることになるので「待機児童」と定義されないこともありうるが、これについても「待機児童」と考えておく、ということ。
この問題の前提として、十分な保育サービスを私的に購入することは難しいということを考えておく。つまり、フルタイムで働くために朝から晩まで子どもを預けて、しかもまあ一定の質が担保されているような保育サービスを購入することはできないわけではないとしても非常に高価だと。数字は適当だが、単純にそのための保育士と設備を備えると一人あたり20万以上かかる、ということになるとまあサービスを買える人は限られるだろう*2。しかしまあ実際に社会的に必要なサービスだということで、政府なり自治体なり企業・団体なりがお金を出して、人々がこのサービスを受けれるようにしている。
言うまでもないがポイントは、サービスの受益とサービスのための費用負担がなかなか合わないということである。もうちょっと言えば、人々が平均的に払って良いあるいは払うべきだと考える価額と、実際に必要となる費用が乖離している、ということか。この点で、同じ幼児サービスの幼稚園との比較がわかりやすいと思われる。幼稚園というのは、基本的に4歳〜6歳の子どもを相手に幼児教育を行う施設であるので、まず一番人手=労働力のかかる0〜2歳児は見ないし、時間についても保育所ほど長くはない。理屈だけ言えば幼稚園に通ってる時間は自宅で幼児の面倒を見ることができる家庭で幼稚園を利用しているので、養護サービスについてはそもそも家庭で代替できるだろう。それに、サービスを期待してお金を払っているのは「教育」なわけで、その「教育」に見合った費用を幼稚園が回収することはそれほど難しくない。実際、幼稚園の多くは「私立」として作られてきたわけで、義務教育ではない幼児教育のところを公的にやる理屈はよくわからないところもある。もちろん、義務教育にすべきだという主張を否定するわけではないが。
やや余談になるが、大阪市「市立幼稚園の民営化」という議論が出ているわけだが、そういう意味ではこれはそんなに不自然な話ではない。むしろ、本来私的に行われるべき(義務教育じゃない)ところで市が教育サービスを提供し、しかも24の行政区のうちいくつかで市立幼稚園がない区が存在するという状況が公平ではない、という議論はありうるだろう*3。もちろん逆に、「大阪市は優れた幼児教育を提供しているから多くの若いご両親は来てください」という(開発政策的な)アピールは可能だと思うが、大阪市がそこまで力を入れているわけではない。

補助金の意味

そういうわけで、幼児教育サービスを提供する幼稚園とは違って、サービスの受益とサービスのための費用負担がなかなか合わない保育サービスというのは、なかなか供給されない。当たり前だが、費用を前提とした価格で買える人が少なくなるからである。その価格であれば就業しませんよ/できませんよ、ということで、結果として親(特に母親)が就業することができない。ただもちろんこれで終わり、という訳にはいかない。生きていくために就業しないといけないケースがあるわけで、その場合、低廉な価格で子どもを預けつつ、就業によって生活費を稼ぐということが必要になる。それに対して自治体は、保育サービスの費用と価格を切り離し、いわゆる「応能負担」でサービスを提供することになる。応能負担というのは、支払い能力(=所得)に応じて負担するということだから、所得の低い層は少ない負担で保育サービスを利用できる。まあ敢えて穿った言い方をすれば、「低廉な価格で子どもを預けつつ、就業によって生活費を稼ぐ」ために自治体が補助金を出している、ということになるわけだ。
保育のためのお金を具体的にみてみよう。例えば板橋区が公開している情報によれば、0歳児ひとりにかかる費用は40万円を越えるという。その他はだいたい1・2歳児で20万前後、3〜5歳児で10万前後となっている(まあこの数値はちょっと多いかなあ、という印象も受けるけど)。それに対して保護者が支払うのは板橋区で最大63200円、国の基準では10万円ちょっととなっている。資料から見ると4・5歳児ではまあトントンということで、0〜2歳児では全然足りない。なお、国の基準で10万円以上払うのは、734000円以上の所得税を払ってる人ということになってるから、まあだいたい世帯年収が1200万(税・社会保障負担等抜き)がそうなるのかな。そんなにもらったことないからわからないけど、子どもが2人いるとそれなりに厳しいような感じはする(まあ多くの自治体で第2子は半額とかだけど)。
補助金が出ていてもそのくらい払わないといけないんだ、というわけだから、当然補助金が出ていない私的な保育所ではもっとお金が必要になる。0歳児をフルで預けることができる民間の保育所に正確にいくらお金がかかるかわからないけど、まあ今回の「保活デモ」の中で言及されてたのは、育休を一年間取ってからの復帰という文脈だったように思うので、その文脈で考えても、まあだいたい20万くらい。BBCの記事で、「認可保育所に10万くらい払わなきゃいけないし、私立のいい保育所に行ったら20万!」って書いてあることを考えるとまあそんなもんかな、という気がする(1歳児でそれなりの幼児教育のコースがついてことで考えるとそんなもん/もっと高いかも、っていう印象がある)。

保育をめぐる対立

このような保育に関する問題は政治的な問題になりやすい。特に保育定員が足りない地域で一番問題になっているのは、おそらくボーダーラインの意味不明さだろう。認可保育所の場合、例えば定員が25人のところで、家庭状況が厳しい順番に並べていくわけだが、上から25番目と26番目の家庭が劇的に違う状況ということは考えにくい。なぜ自分たちのところはダメなのに、自分たちによく似たところは保育サービスを安い値段で受けることができるのか、というのを合理的に納得するのはかなり困難だろう。26番目の家庭が私立の保育サービスを使ったとき、そこで実質的な補助金を受けるかどうかで、明らかに経済状況が逆転するわけだし。さらに、こういうボーダーラインがある中では、条件の良い保育所から埋まっていくことが予想されるので、自宅からやや遠くて、さらに相対的に人気がない保育所でも入れることを優先して並ぼうという戦略を採る人たちも出現する。もちろんそれでは「人気のない保育所」の方が自ら改善する機会を失うので、みんなにとって望ましくない状態が起こりうる。
こういう現状における(潜在的な)亀裂は、要するに認可に入所できた人たちとそうでない人たちの対立になる。なんか潜在的に保育サービスを使いたかったんだけど高そうで諦めちゃったよ、っていう人達も、認可に入れた人たちに対して微妙な感情を持つかもしれない(保育所vs.幼稚園的な)。対立が資源を制約している外部に向かわずに、中でややじめじめと続くというのはいわゆる分断統治というやつで、「統治」の観点からは望ましいかもしれないけど、被治者から言えばひどい話。で、「保活デモ」に重要な意味があるとすれば、これを外に向けることで保育への資源投入をアピールするということに尽きるだろう。待ち行列をなくすためには、バウチャーでもなんでもいいから資源投入が必要になるのは間違いないわけで。
これから問題の焦点は「保活デモ」に見られるような新たな対立が全域化するんだろうか、というところにある。現在、個人的にはそれは簡単なことでないと思う。その背景のひとつには、待機児童の問題が生じているのは、結局ほとんどが東京、都市部だということがある。厚生労働省が出してる都道府県・政令指定都市・中核市別 保育所待機児童数 集約表を見ると、待機児童の問題がほとんど首都圏に集中していることがわかる(沖縄という顕著な例外はあるが)。興味深いのは地方中核都市である中核市で、いくつかのベッドタウン的なところを除くと、問題は顕著とはいえない。例えば保育定員が6863人で待機児童の問題が激しく打ち出された杉並区と同程度の人口を持つ中核市姫路市では、保育定員が10056人(待機児童は12人)となっていて、そもそもの定員の数が違うことがわかる。地方では母親が働きに出ていないのではなくて、もともと働いてるから保育定員が多いわけだ。それと、首都圏を中心にベッドタウンで待機児童の問題が出ていることを考えれば、これまで専業主婦になっていた人々が経済的・社会的な理由(不況による就業/キャリアの維持)から保育サービスを受けることで就業を継続しようとしていて「急に待機児童が増えた」という現象になってるのではないかと思われる*4

新たな補助金

問題を全域的に解決するには、結局のところ、これまでに(潜在的に)専業主婦をやってこれたような世帯に対しても補助金を出すということに他ならない。「みんな平等に保育サービスにアクセスできるべきだ」と言う観点から見れば、専業主婦であろうが仕事をしてる人たちであろうが、子どもを持つ親に対しては子どもを持つというそのこと一点で公平な扱いがなされるべきだろう。専業主婦から見れば、同じように子どもを持っているのに働いているという理由だけで補助金を受けている人については自分と比較して差別と思うかもしれないし*5、非専業主婦からは働いていない人たちに補助金を出すのはおかしいだろうという意見が多分出るだろう。しかもこの問題が難しいのは、橘木・迫田『夫婦格差社会』で議論されたような夫婦レベルでの潜在的な格差と結びついているところにある*6。つまり、国が保育のために個人に対して補助金を出すことで、杉並で以前専業主婦になったようなキャリア女性が就業を継続することで「パワーカップル」になりうるということだ。保育という再分配的なイメージの強い政策で、逆に格差を生み出してしまうというのはどういうことだろう、という話になると、なかなか難しい。
ひとつだけ確実なことは、現状のように、上の例で言えば25番目と26番目にきわめて大きな断絶があるような制度ではなくて、もっと所得に応じて連続的な制度であるべきだということだろう。個人的にはそういう制度のもとで、専業主婦になったかもしれないキャリア女性に対して社会が支援するのは支持したい。そういう補助金を設計するのは必ずしも簡単ではないけども、負の所得税はそういう発想だし、納税者番号で一定の所得把握ができれば技術的にはそれほど難しくないと思われる(もちろん、所得捕捉するのが難しいのは変わらないが)。ただ、それが技術的に可能になったとしても、個人的にはまだ難しい、最も困難な問題は残ると思う。それは、世帯というか家族を重視するのか、個人を重視するのか、ということではないだろうか。世帯収入が高い世帯に対して一定の補助金を出すことに対して、「働かないで家で子どもを育てればいいのに」という感覚は残ると思われる。そこまで言わないとしても、しばしば主張されるように「ゼロ歳児は家で親が育てるべき」という議論は(高額なゼロ歳児の保育費用の観点からも)正当化されやすい。また、家庭内でも(補助金を受けたとしても)高額な保育費を払わなければいけないとしたら、いっそ仕事を辞めた方がよい、という選択はありうる。いずれにしても女性が就業停止という選択を迫られることになりがちだ。しかし、女性の人生としてはやはり就業を継続したほうがよいこともあるだろうし、一方的に男性ではなく女性が就業を停止するべきだというのは正当化できない。もちろん、これは保育政策の中の議論というよりも、男女共同参画とか家族観というより大きな議論になるわけだが、ここのところでうまく社会的なコンセンサスができて行かない限り、保育へのさらなる資源投入が正当化されるのは難しいような気がしている。

*1:「保育に欠ける」をどう考えるかとか重要だが、やり始めるときりがないので。

*2:保育所の経営に関する資料を見ると、やはり規模の経済は働きうるようだが、ここではちょっとその問題は措いておく。

*3:なお、大阪市では、市立幼稚園・公立保育所の民営化についてと一括りにしたようなウェブサイトがあるが、このエントリにあるように、一括りにするのはちょっと違うのではないかと思う。まあ大阪市でも方策としてはそれぞれ独立してるけど。

*4:もちろん「急に待機児童が増えた」とはいえないという批判はありうる。大規模なマンションがいっぱいできていて、若い世帯が移り住んでいるのは区として把握しているはずなので。しかし、担当者はそういう世帯の女性のほとんどが就業を継続しようとすることは予測できなかったんじゃないだろうか?とも思う。それを無能と批判するのは簡単だけども、世代的なギャップを読むというのは簡単なことではない。

*5:もうちょっと正確に言えば、自分も働きに出て補助金を受けようとするということになるかもしれない

*6:橘木俊詔、迫田さやか [2013]『夫婦格差社会中公新書

夫婦格差社会 - 二極化する結婚のかたち (中公新書)

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