憲法と政治学

今日は一日風邪気味で頭が働かない。なので(?)普段読まない本を少し読んでみる。前にも一度書いたことがあるけど,やっぱり憲法の統治機構に関する議論と政治学の議論はかなり近い(当然か)。

現代立憲主義の制度構想

現代立憲主義の制度構想

憲法学の学説史ってぜんぜん知らないので,あまり軽はずみなことを言うと起こられるかもしれないけど,著者は,従来の憲法学の通説とは若干違うタイプの議論をする論者らしい。通説では,「官僚政治」を清算すべき「議会制民主主義」を確立するために,国政の真の決定者であるところの国会を国政の中心におき,国民の意思をより正確に国会に反映させることを要求し,また,その決定を内閣と行政各部に忠実に執行させるべきであるという規範的な議論が強かったのに対して,筆者は「行政国家」化への対応を踏まえて「国民内閣制」を主張する。それは,国会のような形式の機関が複雑化する社会に対して適切なプログラムを準備・決定することが難しく,政治的なアクションの中心的な主体になることが難しいという問題意識に基づく。
筆者の議論の核は,現代の行政国家が要求する「アクション」を起こすことができるのが「内閣」にあるとするところである。その上で,従来の「法定立(立法)−法執行(行政)(−法裁定(司法))」という法の支配の領域における思考図式を政治の領域に当てはめることでは国会と内閣の適切な役割配置を捉えきれないため,政治の領域では「アクション−コントロール」の図式で捉えるべきであるとする。その結果,アクションの担い手の中心である首相とそのプログラムを国民が選択するということになり,筆者はその運用を「国民内閣制」と呼ぶ。
これは前に一度考えたことに非常に似ている。つまり,従来の法定立−法執行という図式は,わりと素朴なプリンシパル−エイジェント関係であり,現代社会では議会はそのプリンシパルの役割に耐え切れないということではないだろうか。そして,それに対して,アクションを行う内閣(アジェンダ・セッター)を議会(ヴィート・プレイヤー)がコントロールする,というモデルになる。そこまでざっくりやるとまた違うといわれるかもしれないけど,構図としてほぼ同じようなものを考えていることは間違いないのではないだろうか。そうであれば,(この説が主流なのかは知らないけど)政治学と一緒にやらないのはやはりもったいないと思う。プリンシパル−エイジェント関係で議会−内閣を捉えることで,何が見えて何が見えないのか,っていうのはこれまで政治学が頑張ってやってきたことで(StromとかHuber, Shipanとか),その成果はどっちにしても活かされるべきだと思う。
そういう議論がうまく活かされない(というか興味をもたれない)理由は,おそらく憲法学のほうが,多元主義的な議論に対して距離感があるからじゃないだろうか。アメリカ政治学は(全てとは言わないけど)利己的な個人が多元主義的な政治プロセスのもとで行為を行うという前提を置く。でも憲法学のほうでは,やっぱり「一般意思」のようなものを意識しないわけにはいかないらしい。そうすると,仮に意思決定者全員が私的な利益のもとで一致したとしても,そういうのは「一般意思」とは必ずしも呼べないわけで*1,例えば「討論・対話を通じての公共善(全国民の利益)の回復」のようなかたちで「いかなる意思が」という問題に戻ってしまう。
そういう葛藤が現れるのが次の部分。筆者は,以下のように述べる。

しかし,そもそも,利害対立を必然的に内包すると考えられる現代の多元的社会において,「一般意思」など存在しうるのだろうか。かりに存在しなければ,社会に存在するあらゆる利益が政治過程へのアクセスを認められ,様々な妥協を経た後,最終的に多数決で決定された意思は,とりあえず国家意思として扱う以外にないのではなかろうか。そう考えれば,そこでの政治過程は,社会内の諸利益が競争し,妥協し,取り引きし,価値配分を行っていく過程として表象される。これが多元主義的政治過程と呼ばれてきたものの特徴であるが,それは,多面では,諸勢力間の力の対決の場として現れる過程でもある。
なお,一般意思がかりに存在するとしても,それを「発見」「確認」する方法として,多元主義的政治過程より優れた方法はないと考えるか,あるいは,そもそも一般意思とは多元主義的政治過程の結果をいうと考えるならば,事態は同じことに帰着しよう。(57)

この辺りが,政治学との親和性を感じさせる。しかし,その直後に,筆者は,多元主義的政治過程の敗者がその結果を受け容れるために,政治過程への参加者全員に「平等な政治的力を保障する」という文脈から,「真の討論・対話を実現するメカニズム」を政治過程の中に組み込むことが課題であるという問題意識に回帰する。
ざっくり言うと,最近の政治学は引用のところまでほぼ同じような意識をもち,そこから多元主義の方向に突っ走る。それがいわば「実証性」というやつなんだろう。一般意思のほうに戻る議論は,なかなか「実証」ができるわけでない。概念を操作化すること自体,きっと上手くいかない,というか違和感が感じられるんだろう。このズレは…何とかなるもんなんだろうか。

*1:各特殊利益がそれぞれ部分的に満足されているに過ぎないため