第14回会合(2007/7/31)

夏休み前最後の会合,ということで,厚生労働省文部科学省を呼んで,保育所・幼稚園の問題と,教育委員会(の人事)についてヒアリング。一応今回でヒアリングコーナーは終了らしい。いやいや,社会保障はあれだけでいいのか,と思うわけですが(特に参院選で年金に税方式を掲げてしまっている民主党が大勝してきたわけだし),とりあえずここから中間とりまとめの作業に掛かる模様です。今回はあと小早川先生による法制問題の検討状況についての報告もあるのですが,重要なので別エントリで。
で,まあはじめは恒例のご説明。時間が超過するのはまあこの手の説明では慣わしのようなもんなわけですが,厚労省が比較的時間をきっちり守ったのに対して,文科省の方(特に教員人事関係)の説明のグタグタっぷりはなかった。まあ込み入った事情というか思い入れがあるということなのでしょうけども,この会議をずっと見ていると,中央の官僚さんのそういう(第三者的に見ると過剰に見えてしまう)思い入れみたいなものを成仏させてあげるのが,この会議のひとつの重要な使命なのではないかと思う次第。
話自体はまあいつものこと,という感じで,委員側が「なぜ幼保一元化ができないのか!!!」と問いただしてくるのに対して,官庁の側が,目的が違う,サービスが違う,対象年齢が違う,でも頑張って連携してる,ということをひたすら繰り返す,というかたち。実は最後の記者質問のところで,「委員側はなぜ幼保一元化ができないと考えているのか?」と時事通信の記者に問われて,委員長が「省庁の壁でしょう」と言っているのですが,正直なところ,そこに落とすのもどうかな,と。制度論の話をすればそうかもしれませんが,仮に省庁再編で「子育て省」(という話も軽く出ていた)を作ったとしても,今度はその中で「局の壁」ができるだけで,省庁が一体になったことで補助金の運用における柔軟性は多少増すかもしれませんが,本質的にはあんまり変わらないんじゃないかと思うんですよね。本質的なところ,というのは,既にある規制というか規制に対する考え方が,再編や連携をしたところでより上位の概念から見直されることがなく,よくても足して二で割るような感じでどんどん残っていくところにあるのではないかと思います。このあたりについて,小早川委員が変化球的に聞いているのがとても興味を引かれたわけですが。

(小早川)
保育所の最低基準の関連ですけど,説明にありましたように基準そのものは国が定めている,ただかつては補助金とセットだったわけですが,補助金については一般財源化したと。いうことでその辺の考え方は…?補助金でもって誘導する必要はないということと,それから基準については国が定めないといけない,ということとはちょっとずれがあると思うんですね。その辺をどうお考えか。基準を大幅に大綱化して,例えば県に委ねる,あるいは一種の規制緩和で設置者自身の判断に委ねるという方向もあるのではないか。もちろん民間保育所と公立保育所,一緒にするわけにはいかないでしょうが。その辺の基本的な考え方,今後に向けての考え方はどうなのか
たまたま認定子ども保育園(ママ)の場合には仕組みが違うわけですよね。認可権者である都道府県にかなり判断がまかせられているという実態,ほかでもあるんじゃないかと思いますが,その辺のとの整合性についてもご説明頂ければ。
厚生労働省
財源措置については先ほどご説明いたしましたように,民間については負担金というかたちで運営費の1/2を負担しております。公立については一般財源でございます。ただ,保育の実施の責任主体は市町村というかたちでございまして,財源は違いますけど公立・私立両方ともに実施主体,責任主体としての市町村があるというような構成になっております。ですから,そういう意味においては,基準と財政措置は必ずしもリンクしているというわけではございません。ただ私どもの考え方としましては,冒頭申し上げましたように,生活時間の大半を小さいお子さんをお預かりする施設でございますので,健康・安全の面を確保する,あるいはその時期にふさわしい健全育成あるいは発達を保障していくといったような観点からどういう種類の施設をおくのか,あるいはそれに対応するような資格を持った職員をどういう風に配置していくのかという基本的な事項についてはどの地域においてもやはり全国一律に考えないといけない,ただしそれぞれの地域の状況に応じて対応しなくてはいけないことについては,先ほど小早川委員もお話ありましたように事柄それぞれについて規制緩和していくという考え方を取らしていただいているわけでございます。例えば調理室の問題についてもそうですし。ですからそういうかたちでの規制緩和はそれぞれの状況に応じて考えないといけないと思っております。
それから,子ども園の話を頂きました。これは幼稚園と保育園のそれぞれの制度の違いがございますので,とはいいながらも,それぞれの地域の実情に応じて選択できるというような構成にする観点から,今のようなかたちでの参照(?うまく聞き取れなかった)基準をとっている,いずれにしても私どもとしては,まず子ども園の設置を促進させていただいて,その状況を検証し取り組んでいくというような気持ちで望みたいと考えております。
(小早川)
そうしますと子ども園は一種のテストケースでもあり,これが上手くいくのであれば,保育園の基準についても必ずしも国がかたく決めなくてもいいと,その選択肢もありうるということなんですか?
厚生労働省
これは保育所だけではなくて,さきほど申し上げましたように,幼稚園を含めた学校あるいは老人施設,あるいは障害者施設も含めまして,どういう風な人員の資格,人の配置,あるいはどういう風な施設設備を置くのかについてはそれぞれの目的を達成するために決めているものでございます。ですから私どもとしましては基本的な事項については定めないといけないという風な考え方をとっております。ただ,申し上げましたように,それぞれの事柄につきまして,緩和できるところについてはその状況に応じて考えていく,というような考え方でございます。

長い引用ですが。結局のところ,保育所の基準を考えない,ということはない,というところから出ることはないわけです。「保育所に対して全国一律の基準を作るかどうか」は政治の問題で(エイジェントである)自分たちが決める範囲ではないという主張であればまだ議論があると思うのですが,基準を作るかどうかについて議論の余地がなく,しかも誰が変えることができるのかわからない,ということが続いていくと,結局のところ「制度が悪い」「制度を変えたけど何も変わらなかった」という不毛な抗争の繰り返しになるのではないか,と懸念します。
それに加えて,この手の議論を聞くたびに思うことは,主張される「国の責任」というのは一体どういうものなのかなぁ,と。「国の責任」として安全・安心を確保する,という言葉は前回の国交省農水省のときにもよく聞かれていたのですが,実際に何かが起きた場合に国がどういう責任を取ることになるのかは全く持ってよくわかりません。担当の自治体に対して「国の基準を守らないからだ」と叱りつけることはあっても,国の基準をみたした施設で事故があって,国が責任を取ることはほとんど聞きません。よくて基準をさらに引き上げるくらいなだけで,国家賠償訴訟だって最高裁まで行かないと絶対責任認めないし。なんていうか,未来を人質にしてるところがあるように思えてしまうんですよね。保育所とか幼稚園の問題は典型的だと思いますが,例えばこの基準が「健全育成」のために必要だ,とか言われたら,ちょっと反論のしようがない。そもそも「健全育成」がどういう状態なのかよくわからないし,施設の設置基準と「健全育成」がどういう因果関係を持つかを説明されているわけではない(狭いところで育つと健全にならない?)。僕の先生がよく言ってましたが,このあたりについては「挙証責任の転換」ということがないとどうしようもないんじゃないかな,と思ったりします。
次に,教員人事について。要は人事権を市町村に移せ,という話です。文科省的にはここは<国vs.地方>の対立よりも<都道府県vs.市町村>の対立の構図を描きたい感じで,現在人事権を持ってる県レベルの教委が反対するから市町村への人事権移譲がうまくいかない,と言うのに対して,増田委員長代理がいやいやそんなことはない,と。ホントにそんなことないかどうかは知りませんが。
ここでの問題は,どうやら人事権を市町村に移すと,離島や過疎地で教員を確保することができないんじゃないか,というところにあるようです。医療分野では大学医局から人事権を奪うような改革をしたことで,特に過疎地などで必要な医師を確保することができなくなった,という話があるわけですが,教育分野においてどうなるかはやや微妙でしょう。医師と同じようなことが起こるかもしれないですが,「不足」が言われている医師と比べて,教員のほうは(少なくとも数年前まで)過剰と言われていて,現在だって資格を取ろうと思えば医師と比べて比較的容易に取れることを考えると,離島・過疎地で(も)働きたい,という人を確保できる可能性もあるとは思われます。ただし,逆に確保することができない可能性があるのも事実なわけです。過疎地や離島など条件不利地における「地域の衰退」を容認することができない立場からは認めることは難しいことはわかりますし,個人の選択を重視する立場の人々が,この点について市町村への権限移譲を主張するのであれば,地域の衰退が起こる可能性があることを認識した上で議論すべきではないかと思われます。この問題なんか典型的ですが,分権を進めるということは,どうしても条件不利地をより不利にしてしまう側面があるということを(ある種の十字架として)覚悟しなくてはいけないように思います。その上で,条件不利地に対して広域化によって対応するのか,それとも国がある種の直轄地のように(西尾私案的ですが)ナショナルミニマムを保障するか,あるいはそこにはもう住まなくなるのか,といったところまでも含めた選択をしていかなくてはいけないように思うのですがどうでしょうかね。