新自由主義と政治

言わずと知れたミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』.しばしば,彼の「新自由主義」のイデオロギーを信奉する人たちにとっては聖典のようなものだとして扱われる.しかし,改めて読んでみると,その中に政治についての興味深い一節がある.ちょっと長いけれども引用したい.

自由主義者にとってよい手段とは,自由な討論と自発的な協力である.強制はどんな形であれよくない.責任ある個人が自由な議論を尽くしたのちに合意に達すること,これが自由主義者にとっての理想である.そしてまたこれは,前章で述べた自由という目標のもう一つの形にほかならない.
この観点からみたときの市場の役割は,すでに述べたように,強制によらずに合意を導く役割を果すことである.言わば市場は,実質的な比例代表制として機能する.これに対し,公に政治的な手続きを通じて何かを行う場合には,どうしても少数意見を多数意見に従わせざるを得ない.ほとんどの問題についてイエスかノーをはっきりさせねばならず,それ以外の選択肢は会ってもごく限られている.政治制度として比例代表制が正式に採用された場合でも,そうだ.まず政治の場合,実際に議会に代表を送り込める団体の数はかなり限られていて,多種多様な市場の比例代表とは比べものにならない.だがもっと重大なのは,政治の話で下される結論は最終的に法律という形にしなければならず,それはあらゆる集団に適用されることである.党派ごとに別々の法律をつくるわけにはいかない.したがって政治における比例代表制は,自発的な全員一致を導くどころか,非効率と分裂を招きがちである.そして大勢に従わせようにもできないほどに少数意見が分立し,合意を阻む結果になりやすい.
そのうえ,比例代表制にはなじまない問題もいくつかある.たとえば私は私のほしいだけ,読者は読者のほしいだけ軍備を整えさせるというわけにはいかない.このように小分けできない問題も自由な討論や投票の対象にはなるが,いったん決まったら従わなければならない.個人や国家を力による威圧から守ることは,分けられない問題の中で最も基本的なものと言えよう.こうした分割不能の問題が存在する以上,市場を通じた個人の行動に万事を委ねることはできないし,国家の予算や資源の一部をこの種の問題に割り当てるならば,どう割り当てるかは政治の話で調整せざるを得ない.
こうした次第で政治の関与は避けられないが,政治の話での意見調整は,社会の安定を成り立たせている市民の関係にひびを入れやすい.分割不能な問題で全員が同じ行動をとらざるを得ない場合,誰もがおおむね同じ意見を持つような狭い範囲についてのみ合意できればよいのなら,ひびは入りにくい.が,合意の表明が求められる範囲が広がるほど,人々を結びつけている弱い絆は危うくなる.そして多くの人が重大な関心を抱き,しかも意見が一致しないような場合,採決ではめったに解決できない.結局は解決するのではなく,戦いで決着をつけることになる.歴史にみられる宗教戦争や内戦は,まさにその例証と言えよう.
市場が広く活用されるようになれば,そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので,社会の絆がほころびるおそれは減る.市場で行われる活動の範囲が広がるほど,政治の話で決定し合意を形成しなければならない問題は減る.そしてそういう問題が減れば減るほど,自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく.
合意の理想的な形は,言うまでもなく全員一致である.だが現実には,あらゆる問題について全員一致に達するまで時間や労力を費やすことはできないので,理想にはほど遠い解決を受け入れるしかない.そこでよく使われるのが,さまざまな形での多数決である.つまり多数決は絶対の法則ではなく,あくまで便宜的な手段なのだ.そのことは,多数決に訴えてもいいかどうか,あるいは多数決を採用する場合の多数派過半数か三分の二かといったことが,問題の重要性に左右されることからも明らかである.さほど重要でなく負けた側にしこりを残さないような問題なら相対多数でいいだろうし,負けた側が深刻に受け止めるような問題なら過半数でも十分とは言えまい.たとえば,言論の自由のように重大な問題を五一対四九の過半数で決めてもいいと考える人は,ほとんどいないのではないか.アメリカの法体系では,問題の性質に応じて多数決の種類が明確に定められている.一番上に位置づけられるのは,憲法で扱われる事柄だ.憲法に定められているのは極めて重要な事柄であるから,便宜的な手段に頼って改正することはできるだけ避けたい.憲法の条文を最初に決めたときには,動かし難い合意というものがあったにちがいない.したがって改正するにも,そうした合意があるのが望ましい.
合衆国憲法でも,また他国の憲法でも,成文法か不文法かを問わず,ある種の問題には多数決の安易な使用を戒める条文が定められている.また憲法をはじめとする重要な法律には,個人に対する強制を禁じる条項もある.これらの条項そのものが自由な討論を経て練り上げられ,決定手段についての実質的な全員一致を反映していると考えるべきだ.(66-69)

フリードマンは基本的な発想として,何よりも権力の集中を問題視したわけで,本来であれば,独裁的なポピュリストのようなリーダーの存在は,フリードマンがもっとも望ましくないと考えるものだろう.それにもかかわらず,フリードマンを教祖?とする「新自由主義」はしばしばポピュリズムと結びつくとして批判されている.それはなぜなのだろうか.
フリードマンの発想を「新自由主義」と呼んでいることがおかしいのかもしれない.最近ごちゃごちゃ言われる「新自由主義」は,フリードマンの議論とは全く別モノであり,フリードマンを信奉するという人たちが,自分たちは本来自由主義者でもなんでもないのに,その一部分だけを掠めとって自分たちの主張をしているに過ぎない.単に名前を借りてるだけの別物だろうと.しかし他方でよく分からないのは,この「新自由主義」という言葉を主に用いるのは,信奉者たちよりも批判者たちであるのではないか,ということだ.曰く,「新自由主義イデオロギーに染まった弱者を無視する改革だ」といったような感じで.
例えば,大阪府橋下知事は,しばしば「選挙で勝ったものが何でもできる」みたいなことを言って批判される.それは,フリードマン的に言えば自由主義と対極にある考え方であるのは自明だと思うし,まあ別に知事を弁護する気はないが,知事自身が自分のことを(新)自由主義者だ,と主張したことはほとんどないのではないかと思われる(そもそも弁護になってるのかよく分からないけど).にも関わらず,批判者の方が勝手に(新)自由主義者というラベルを貼って批判する.言うまでもないけど,ハシズムなんていう話はその典型的なものだろう.ややこしいのは,こういう「新自由主義」をネガティブなラベルにする人たちが独裁から自由を守れ,とか叫んでいることで,もう捻くれまくっててよく分からない.結局のところ,日本で「新自由主義者」とされてる人たちが,たいして自由を重視していないように,批判する人たちも自由についてあんまり考える気がないからこういうことになっちゃうんじゃないかな,という気がする.
フリードマンがいう自由主義に対する人たちを社民主義とか社会主義として対置するのであれば(あるいはいわゆる「リベラル」.この言葉自体がかなり困ったものなわけだが),むしろ彼らは社会における福祉の向上や平等の実現のために,個人の自由を部分的に制限することを恐れないはずだろう.で,その典型が「大きな政府」における高い税率なわけだが,そうやって自由を部分的に制限することにコミットしているようにも見えない.フリードマンの著書を改めて読むと,そういう人がいればの話だが,「新自由主義」を名乗る人たちに対して自由の価値を聞かないといけないのと同じように,それを批判する人たちにも自由をどう考えているのか聞かないといけないと思ったところ.

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)