新自由主義と政治(つづき)

またもやフリードマンの議論から.まあ前の続きなわけだが.しかし最近こういう書き方でしかブログを更新できないのは情けないな.ちょっとまとまってものを考える時間を取らないと.

政府の施策が持つ重大な欠陥は,公共の利益と称するものを追求するために,市民の直接的な利益に反するような行動を各人に強いることだ.利害の衝突や利害を巡る意見対立が起きたようなときにも,衝突の原因を取り除いたり対立する相手を説得するといったことはせずに,相手に利益に反することを強制しようとする.政策が依って立つ価値観は,当事者の価値観ではなくて,第三者の価値観なのだ.だから「これこれが諸君のためになる」と押し付けたり,「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ようなことになる.しかしこのような政策は反撃を食う.人類が持っている最も強力で創造的な力の一つ,すなわち何百何千万の人々が自己の利益を追求する力,自己の価値観にしたがって生きようとする力の反撃に遭うのである.政府の施策がこうもたびたび正反対の結果を招く最大の原因は,ここにある.この力こそは自由社会が持つ大きな強みの一つであり,政府がいくら規制しようとしてもけっして抑えることはできない.(363)

自由を守り拡げようとする試みは,今日二つの方向から脅かされている.脅威の一つの所在ははっきりしている.アメリカを葬ろうとするクレムリンの連中だ.しかしもう一つの脅威はとらえどころがない.これは,内からの脅威である.主犯格は,国民によりよい社会をもたらそうとするよき意図を持った善意の人々だ.あいにくこの人たちは短気で,説得し手本を示すだけでは理想とする社会改革が遅々として進まないことに我慢できない.目的を達成するために国家権力を使いたがり,その能力が自分たちにはあると自身を持っている.だがその権力を掌中に収めたとしても,目的は達成できまい.そればかりか,必ずや全体主義的あるいは独裁的な国家への第一歩を踏み出すことになる.当の善意の人々はこれを忌み嫌うであろうし,自身がその最初の犠牲者になるだろう.善意では,権力の集中を無毒にすることはできないのである.(365)

なんという現代社会論.しかし,この議論は,フリードマンも含めた自由主義者にも返ってくる.既に「権力を集中」させた人たちが,フリードマンの批判する平等主義的な政策を数多く実現している.そのような政策を変更して,自由主義的な政策を実現することを目指すとき,どのようなプロセスで実現することができるのだろうか.もちろん,前のエントリで書いたように,「権力を集中」させて自由主義的な政策を実現することはありうる.しかし,まあもう昔から嫌になるほど議論はあるのだろうけど,これは自由主義者にとってかなり厳しい自己矛盾をはらむことになる.一方で自由を阻害する現在の制度を許容することは難しいし,他方でその制度を変えるために権力が集中することも認めがたい.もちろん,多くの人々を説得によって自由主義者に変えていくことで,特定の誰かに権力を集中させることなく自由主義的な政策を実現するのが望ましいだろう.しかし,それがいつのことになるのかは全くわからない.
便宜的には,自由主義者が多くの人たちを説得できたところから,漸進的に制度を変えていくということになるんだろう.若干リベラルの匂いがしないでもないが,他方で現在の制度を急進的に変えるわけではなく漸進的に変えていく,という点では保守主義者のようでもある.提案する政策に完全に同意するかは別として*1,個人的にはそのような態度でありたいと思うし,だからこそ移行の問題というのは極めて重要だと思うところ.急進的な自由主義者というのは−彼/彼女が自由主義者だとして,だが−,そんなことは待ってられない,という点で,方向性は全く逆だろうけど,社会改革主義者と一致するのかもしれない.なんかだんだんよくわからなくなってきたが,福祉国家というStatus Quoからスタートするというのは,その辺の難しさと付き合っていくことなんだろう.最近やってるのは政党論関係ばっかりだけど,このあたりが,次に考えるべきところかもしれない.

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

*1:これは結局外部性や独占などの問題をどこまで考えるか,という話なのではないかと思うわけだが.