『日本の起源』

愛知県立大学の與那覇潤先生から頂きました。どうもありがとうございます。東島誠先生と與那覇さんが対談する形式の著書で、前著の『中国化する日本』をベースに、日本国・日本社会の様々な起源を考える内容となっています。
いやー、それにしても與那覇さんすごいですね。旺盛な執筆活動というのももちろんそうですが、対談ベースでここに挙げられているような様々な文献に言及できるのは本当にすごいなあ、と*1。しかも、言及される文献は、歴史学の実証分析に関わるものだけではなく、政治思想(史)や現代政治に至るまで本当に様々で、その博識さには舌を巻きます。はしがきでは「平易に」とあって、ご本人も「大学入学後のレポートの参考書に…」と書かれていて、確かに語り口は軽妙だし読みやすいですが、いやー、これをちゃんと批判的に検討するために元文献たどりながら読むとしたらえらいことですよ(別にネガキャンしてるわけではありません)。
那覇さんの面白いところは、たぶんその博識さを前提とした想像力なんだと思います。いろんな理解のモデルについての引き出しがあって、それを歴史における様々な事象に当てはめていくと。「中国化」はその典型なわけですし、本書でも様々なモデルが提示されてそれを與那覇さんなりの理解で当てはめが行われているという感じでしょうか。もちろん、ご専門に近い近現代になっていくほどその快刀乱麻ぶりはすごいものになっていて、古代や中世についてはどっちかというと東島先生による最近の歴史学会の実証分析の紹介を「中国化」を中心にしたいくつかの概念で解釈していく、という流れであるのに対して、現代に近づくほどに與那覇さんが披露する理解のモデルに東島先生がツッコミを入れるという形式に変わっていくような感じがしました。
まああえて批判的なことを書くと、前著の『中国化する日本』でも同じようなことを思いましたが、提出される概念にちょっとゆるいところがあって(今回は特に対談という形式もあって)、読者の側の想像力に委ねられる部分が大きくなってしまうなあ、と。今回に関して自分の研究分野と近いところで気になったのは、割と鍵になってる概念だと思いますが「アカウンタビリティ」と「バッファー」という言葉ですかね。
まず「アカウンタビリティ」ですが、「徳治主義」のような文脈で「アカウンタビリティ」という言葉が使われていて、これはどうなんかなあ、と思ったところです。行政学では、いわゆるフリードリヒ・ファイナー論争以降、行政に対する外在的統制が「アカウンタビリティ」で、官僚自身による内在的統制は「レスポンシビリティ」と表現される二つのタイプの行政責任が存在するように議論されています。「徳治」に対して「アカウンタビリティ」という言葉を使うとき、その外在的統制のメカニズムっていうのはどういう風に考えられているのかなあ、というのは気になるところです。特に、このような外在的統制を議論するときは、「誰」に対する責任かということが重要だと思うのですが、その対象があまり明確ではない(というか読者である私が歴史について知らないことが多すぎるのでうまく確定できない)と、この概念を用いることの妥当性がいまいち評価できないということがありました。「日本国」といった時に、租税徴収の実効性や統制の効果というのは必ずしも全域的ではないでしょうから、貴族社会の中だけで説明が求められることがあったりするような気もするのですがその辺はどうなんかな、ということです。
「バッファー」というのは、例えば天皇制が武家政権のバッファーとなる、というような話で出てくる概念で、急激な変動が起こったとき/起こりそうなとき、その移行を安定的なものに管理する効果をもつような権力分立の在り方というような感じでしょうか。まあそれはそれで分かるような気がするのですが、ただよくよく考えてみると、これは天皇制と武家政権が権力を分有するような状態にあるのか、あるいはある種の拒否権プレイヤーのような機能を果たすのか、と細かく考えていくとちょっとよくわからないとこがありました。スピードを持った決定を妨げるという効果を考えると拒否権プレイヤーみたいなイメージですが、それもちょっと違う気がします。何というか、牧原出先生が『権力移行』で議論されているように、動態的な移行の局面で「バッファー」という議論はできるような気もしますが、静態的な権力分立の制度として考えるとどうなんだろう、ということなのかもしれません。この辺の日本特殊論っていうのはちょっと気をつけた方がいいような気はしますが、比較政治学的に権力移行のあり方を考えるときに、何故日本だと前政権からの継受というのが大きなウェイトを占めるのか、ということを考えるきっかけになるのかもしれませんし*2
いずれにしても、この本の興味深いところは、この本を読めば多くのことが分かるという以上に、本書が色々なことを考えたり検証したりする入り口になるということでしょう。(特に合理的選択によった)政治学者による歴史の分析は、明治時代でとどまっているような気がしますが*3、別にそこで止まる理由はないわけで、比較の視野を多国間だけではなくて歴史を遡ることによって広げることができるのかもしれません。

日本の起源 (atプラス叢書05)

日本の起源 (atプラス叢書05)

*1:そう言えば私の著書『大阪』にも少し言及を頂きました。ありがとうございます。

*2:あんまり関係ないような気もしますが、この記事当選からわずか2ヵ月で「ハコモノ推進派」に転向!?八千代新市長の変節ぶりに見る行政改革の遠き夜明けでは、八千代市長の「権力移行」が描かれているのですが、前市長が退任直前に問題になっている公共事業の入札公告をして、公共事業見直しを公約に掲げた新市長がそれを理由に事業容認に転じたようなことが説明されています。こういう「制度」で変化を起こさないようにするのも日本の特徴かもしれません。

*3:代表的にはラムゼイヤー&ローゼンブルース『日本政治と合理的選択』でしょうか。これでも本職の歴史学者による批判は少なくないわけですが

日本政治と合理的選択―寡頭政治の制度的ダイナミクス1868‐1932 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)

日本政治と合理的選択―寡頭政治の制度的ダイナミクス1868‐1932 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)