政府の秘密の仕事を信頼してもらうためには

森友学園につづいて加計学園の話が出てくる中で,共謀罪テロ等準備罪の話(少なくとも海外から眺めていると)すっかり後景に退いた感がある。しかし,刑事法を専門にされる慶応義塾大学の亀井先生が精力的にブログにまとめられているように,刑事法の観点から様々な論点や疑問点が出されるのは自然だが,政治学行政学の観点からも興味深い論点がいくつか存在するように思われる。
共謀罪テロ等準備罪の重要なポイントのひとつは,犯罪が組織的に計画されるものを処罰するということである。詳細は亀井先生のこちらのエントリに当たっていただきたいが,法案の6条の2では,「組織犯罪集団」が「団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第3に掲げる罪を実行することにあるものをいう」と定義されている。じゃあその「団体」とは何ぞやと言えば,「共同の目的を有する多数人の継続的結合体であって,その目的又は意思を実現する行為の全部又は一部が組織(指揮命令に基づき,あらかじめ定められた任務の分担に従って構成員が一体として行動する人の結合体をいう。以下同じ。)により反復して行われるものをいう」(2条1項)と規定されている。この定義からすると,「共同の目的」があり,「多数(複数)の人間による」「継続的なもの」であり,目的を実現するために団体の中に指揮命令系統が存在するようなものだと考えられることになる。
このような組織・団体の特徴は,すでに日本に存在する株式会社やNPO法人公益法人も同じように持っているところがある。とはいえ,犯罪を実行しようとする組織は,法律で認められている法人と同じように,定款やメンバーをそろえて政府に提出するわけではないから,その組織・団体自身が自分たちのことをどう「組織」として考えているかということよりも,取り締まる側の政府が当該組織・団体を認識しているかどうかというのが問題になる。単に人間が複数集まっていることと,組織であるということは基本的には見分けがつかなくて,目的を共有するとか上位者の指揮命令に従うというある種の「フィクション」の存在を,その外にいる人間が認定するかどうか,ということが問題になるわけだ。もちろん,この点についての批判が上がっていて,京都大学の高山先生は,「「組織的犯罪集団」には認定や指定が不要なのはもちろんのこと、過去に違法行為をなしたことや、過去に継続して存在していたことすらも必要ない。当然のことながら、それ以外の集団との線引きが事前になされているわけではなく、構成員の属性も限定されていない。」と指摘して,警察が恣意的に(=勝手に組織・団体の境界を定めて)個人を犯罪を実行しようとする組織のメンバーだとみなし,公権力を振るう可能性があると批判している。先ほど紹介した亀井先生のブログでも,処罰の早期化を行う同法では,6条の2でいうところの団体の要件の解釈をより厳格にするべきだという指摘がある。たとえば,団体として上位者が行った意思決定を下位者が実現するというプロセスがあるかどうかとか,その団体が別表で規定される共同の目的を達成するために存在するかどうかとかを精査しなくてはいけない,と。
さらっと書いたけども,その団体の共同の目的についての規定がある別表は,ちょっと違和感というか不思議な感じを覚える。そこに掲げられているのは刑法をはじめとした各法律の条項であり,要するにそれらの法律に違反する犯罪それ自体が「共同の目的」という扱いを受けることになる。しかしながら,一般的には犯罪それ自体が目的というよりも,何らかの目的を実現するために犯罪を実行するということになるのではないか。まさにテロリスト集団がそうである(と考えられる)ように,人を殺すのもだますのも,それ自体が目的というよりは,自分(たち)にとって有利な状況を作り出したり,金を奪ってそれを自分のものにしたりするという目的があるわけで。ただまあそういった組織の目的を具体的に定義するのは難しい(くどいけど定款出してくれるわけじゃないので)。『治安維持法』の著者でもある中澤先生が論じるように,1925年に制定された治安維持法は当時の国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰するものであり,当初は検挙者が少なかったものの,結社を支援するあらゆる行為が対象となる(=組織・団体の外の人間も含むことができる)目的遂行罪が追加されることになって検挙者が激増していったことを考えると,恣意的な理解が入る可能性がある抽象的な目的から組織を定義するのではなく,具体的な犯罪行為と結びつけて組織・団体を理解しようとするのは,歴史を踏まえた抑制的な方法と言えるところがあるのかもしれない。
しかし仮に以前よりも抑制的であったとしても,公権力による恣意的な運用の可能性・危険性を排除することは難しい。とりわけ,疑いを持っている人に対して信じてもらうようにすることは非常に難しい。これは,政府(ここでは警察)の仕事が公開されているわけではないから最終的に公の場で危険性のなさを確認できないことに起因することが大きいだろう。もちろん,公開されてようがいまいが政府の陰謀ということで不信を持つ人はいるだろうが,おそらくそういう人たちの不信を払しょくするのは難しい。結局,政府としては,「政府が陰謀を張り巡らしている!」というわけでもないが,「政府がやることはすべからく信用すべき」というわけでもない中間的な人たちに納得してもらうことを目指すわけだが,犯罪を予防するためには当然秘密裡の行動が必要になるわけで,人々を納得させるための重要な手段であるところの公開の場での確認という手続きを取ることはできない。実際に当該法律で検挙された場合に,裁判所がその団体性を厳密に考慮してくれて,警察による団体の定義とは異なる定義から有罪・無罪の判断を下してくれるという可能性はあるが,(文脈はもちろん違うが痴漢冤罪などでの批判も抱える)刑事司法に対してそこまで単純な信頼を置くのも簡単じゃないだろう。というか,刑事司法「のみ」を信頼することで,信頼を担保しようというのは難しいのではないか。
政治学行政学の観点から言えば,こういうときに問題になるのは「信頼できる第三者」の存在であると思われる。秘密裡の行動を行わなくてはいけない以上,すぐに情報を公開してそれを精査するということは難しいが,ある程度時間を置いたうえで,どのような組織・団体が監視の対象になっていたかについて,信頼できる第三者によって再検討される余地が必要ではないか。そのためには,どのような「複数の人々」を,犯罪組織として捉えたかについての理由やプロセスを記した文書の存在が必要になる。少なくとも,担当者の個人的な判断で組織の認定がされるものではない以上,実行機関である警察などが組織を認定したということについての文書は必要だろうし,また,警察のどのレベルでこれを認定するかということについての議論も必要になると思われる。このような話は,同様に政府による秘密裡の行動が問題となる特定秘密保護法でも同じようなことが言えるのではないか。野党としては,反権力の立場から,そもそもこのような権力行使を一切認めるべきではない,というのも一つの立論の仕方ではあると思うが,「抑制的に権力を使わせる」(自分たちが政権についたら同じように抑制しないといけない)という立論の仕方もあるのではないか。特定秘密保護法のみならず,現在問題になっている加計学園のような話も含めて,安倍政権では文書管理・情報公開という観点から権力の抑制を考える話が続くような気がする。「一強」と呼ばれる状態だからこういうことが続くという人もいるかもしれないが,衆議院での小選挙区制導入や中央省庁再編という統治機構の根本を変えたことによる変化・整理の時期だということを意味しているように思う。

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

『熟議民主主義の困難』ほか

著者の田村哲樹先生から頂きました。バンクーバーまで送っていただきどうもありがとうございます。政治理論は私の専門ではないですが,『民主主義の条件』のような本を書いていることもあり,興味深く読ませていただきました。広い意味では私の本なども批判の対象として入ってくるのではないかなあという感じを覚えながら読むところです。それは政治理論家の,実証研究中心の議論に対する批判ではなくて,代議制民主主義を前提としつつ,その中で政党や議会の機能について議論していくもの(もっと言えばその機能不全を訴えるものも含まれるでしょう)に対して,「熟議民主主義」という異なる枠組みから批判するものと言いますか。
本書の内容は,熟議民主主義の「阻害要因」と考えられるものをテーマごとに取り上げて,それが阻害要因にはならないということを論じていくスタイルになっています。取り上げられるのは,まず「分断社会」「個人化社会」「労働中心社会」という社会のありようであり,さらには熟議民主主義の機能的代替物として考えられることがある「情念」「アーキテクチャー」,最後に熟議民主主義を論じる前提を規定しがちな問題として「親密圏」「ミニ・パブリクス」「自由民主主義」を論じると。それぞれ別に発表された論文を基にしたものであり,一部重なっているように感じるところがあります。また全体としてしばしば出てくるキーワードとして「ナッジ」「ベーシックインカム」,そして「反省性」というキーワードがあるのかなと。私の単純な理解では,熟議民主主義が擁護されるべき根拠としては,それが「反省性」の契機を含むという重要な特徴を持つところにあり,単に選好の集計を行うような(制度としての)民主主義とは違うから,ということ,そして熟議民主主義を機能させていくうえで,その参加者を対等な位置に置くことに寄与するベーシックインカムのような制度を構想する必要がある,という議論になっていくように思います。正直なところ,財源論としてそのような理屈でベーシックインカムの導入が一般にどこまで支持を受けるかという感じはありますが,政治理論的な正当化根拠として重視される可能性はあるように思います。
私自身は引用されている論文をきちんと読んでいるわけでもないので,専門的に議論する資格があるとは言えませんが,本書の中で気になったのは,「自由民主主義を超える」というのはどういうことなんだろうか,ということでした。中国やブラジルの事例も出されているところから見ると,基本的には権威主義体制でも適用可能だということなのかな,と考えたのですが,たぶんそれだけでもなく,(ここは田村先生とのメールのやり取りで感じたところですが)「自由民主義体制」というような体制レベルの議論ではなくて,集団や組織の決定としての「自由民主主義性」(ちょっとこなれない言葉ですが)の尊重(偏重?)に対するオルタナティブの提示というところがあるように思います。メンバーから選ばれた「代表」による公的な決定を集合的決定とすることに対する異議と言いますか。このあたりはなかなか上手に言語化できませんが,単に代表者がメンバーをきちんと代表できてないとか,「ボトムアップが大事」とかいうのとは違って,「反省性」をカギにしながら自由民主主義とは別の軸で評価されるシステムを議論しようということなのではないかと思います。
関連して感じるのが,「公私二元論」をどう考えるか,ということです。本書では,二元論が「自由民主主義」の重要な特徴の一つというように扱われていたと思いますが,本当にそうなのかなあと。私自身はかなり「自由民主主義」に寄った考え方をしている研究者だと思いますが,(単に勉強不足なだけという可能性はありますが)自分自身が「公私二元論」的な考え方をすることはほとんどなく,むしろほとんど一元論的な考え方を取っているように思います。はじめの著書でも,「公益」は主張の仕方によるもので私的利益と見分けがつかないという観点から書いてますし,共著の教科書でも「マンション管理組合から国際関係まで」一元的に考えていこう,というようなスタンスを取っています。なので,政治学者が一般に公私二元論に立って国家や政府というものに偏重した自由民主主義を考えているか,というとやや疑問も感じるわけですが。言い方を変えると,政治学がそういう一元論的なスタンスを取ったとき(それが支配的になるかは別として),この熟議民主主義論の居場所はどのように設定されるのだろう,と感じたわけです。自分の関心に引き付けて言えば,「マンション管理組合」の自由民主主義性というのはまあ怪しいところが多いわけで(あるいは「いかに自由民主主義的ではないか」が論点になりやすいわけで),まさに「熟議」が求められるところではありますが,そこで「熟議」がなされている状態が出現した時に,それを「自由民主主義的である」と評価してしまいそうな気はします。そこで,自由民主主義的の評価軸(まあそれも怪しいでしょうが)とは違う熟議民主主義的な評価軸があると,議論はしやすくなるのかなあ,という気がしました。この点は私にとっても重要なポイントになりそうなので,少しずつ勉強しながら田村先生にぜひ引き続き教えを請うていきたいところです。
と,専門外の人間が読んでいるので読みの正しさについてはちょっと保証できませんが,そういう人間でも思考が刺激されるという点で非常に興味深い本だと思います。

熟議民主主義の困難

熟議民主主義の困難

田村先生には,茨城大学の乙部延剛先生と共同で,もう一冊『ここから始める政治理論』もいただいておりました。ありがとうございます。こちらは有斐閣ストゥディアでの政治学シリーズ5冊目の本になります。政治を集合的決定として捉えたうえで,集合的決定が国家・政府だけで行われるものとして理解する必要はない,ということでグローバルでの正義論・民主主義論や,親密圏,フェミニズム市民社会…といったトピックについて議論されています(もちろん熟議民主主義も)。一般に政治理論というと規範を扱うという理解が多いような気がしますが(違ってたらすみません),本書では初めの方で規範的な話を扱い,そのあとは「不確実な社会における政治とは何かについて考察する」政治理論となっていきます。それは,合意について考えることであり,合意できない対立関係について考えることであるというか。挙げられるトピックは耳にすることが多い重要なものばかりですし,基礎的なところから議論されているので広く読まれるテキストになるのではないでしょうか。
ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

また,新潟県立大学の浅羽祐樹先生には,『戦後日韓関係史』をいただきました。ありがとうございます。本書では,10年一区切りということで章をが構成されていますが,これは簡単そうに見えて難しい。スケジュールに合わせて現実が動いてくれるわけではありませんから。しかしそれぞれの10年ごとに特徴があるとすれば興味深い話だと思います。頂いて,浅羽先生のところを少し拝読しましたが,文化交流ももちろん書かれていますが基本的には外交ということで,浅羽先生の歴史編/現代政治編という感じでしょうか(あと,コラムも大変面白く読ませていただきました)。ザーッと眺めていくと,両国ともに経済成長が望めたよい時代から,お互いに成長が止まって現状維持の周辺で神経戦をせざるを得ない感じがします。個人的にも,UBCではアジア研究所にいることもあり,良くも悪くもセミナーではビッグピクチャーの話が多くなるので,それについていくためにも勉強させていただければと思っております。
戦後日韓関係史 (有斐閣アルマ)

戦後日韓関係史 (有斐閣アルマ)

それから,大学のほうに,小西砂千夫先生から『日本地方財政史』を頂いておりました。まさにこの制度についての第一人者である小西先生が,歴史的な観点から「生成と発展の論理」を論じられるのは非常に勉強になるものだと思います。歴史の本ではありますが,この分野の教科書的な性格も持っているのかもしれません。あまり取り上げられない「災害財政」や「内務省解体」についても一章を割かれているのは興味深いところです。
日本地方財政史 -- 制度の背景と文脈をとらえる

日本地方財政史 -- 制度の背景と文脈をとらえる

舞台をまわす,舞台がまわる−山崎正和オーラルヒストリー

サントリー文化財団から頂きました。どうもありがとうございます。ツイッターなどでの評判を見ていて非常に読みたかったのですが,ちょうどカナダに来た家族に持ってきてもらうことができて読めました。話にたがわぬ面白さ,という内容だったと思います。もともとは美学・哲学を専門として,劇作家として活躍されていた山崎正和氏が,大学紛争の折には政治的な機微にもたちいる意思決定にも関与し,関西圏に根を下ろしてサントリー文化財団の運営を中心に知識人として社会にかかわっていく,という流れですが,満州での少年時代や京都での青年時代,アメリカ留学,評論や大学学長としての活動などどの部分をとっても本当に同じ人かというくらい様々なご経験をされていて,それらの経験を洞察に満ちた語り口でお話されています。ツイッターで読んで「そうなのか」と驚いた大学紛争期の東大入試中止のエピソードをはじめとする,新しく明らかにされた事実も非常に興味深いですが,個人的には山崎先生が往時の中央公論社のイメージでの「サロン」あるいは知的サークルを作ろうとしていろいろな努力をされるところが印象的でした。世の中が専門分化していく中で,「知識人」のようなものが存在しにくくなっているわけですが,そういう「知識人」の専門を超えた集まりを国際/日本/関西のレベルで作ろうとする活動と言いますか。ただこれは非常に難しい。山崎先生のような近代的な「知識人」が実際にどのくらいいるのか,という問題が大きいうえに,さらにそれに見合う人がいたとしても,そういう人は希少なのですごく忙しくなり,結局知的サークルを維持していくのが困難になるところがあるように思います。また,あくまでも「知識人」としての立ち位置をとって直接的に政治的なリーダーシップとはかかわらないということは,政治から独立して自律性を保つことができる一方で,求心力がどうしても弱くなりがちになるところもあるのかもしれません。いずれにしても困難は大きいわけですが,このような活動を記録として残されることは,専門分化がさらに進んでいく次の世代にとっても非常に重要な資産になるだろうというのが読者としての印象です。
感想でしかありませんが,山崎先生がこうやって独立した「知識人」として活動を続けてこられたのは,社会科学のように研究対象となる社会そのものから影響を受けてしまうということがない美学・劇作といったところにご専門があったことも大きいように思います。あくまでもホームグラウンドでの発表の場があって,そのうえで様々な社会的活動に乗り出すということが自律的であるために重要なのだろうなあ,と。人文学でそういう方がいるのかもしれませんが,現在では政策に関与する研究者の多くは社会科学者であって,山崎先生と同じような形で自律性を保つのはなかなか簡単ではないと。最近はいわゆる「文系学問」の必要性について議論がありますが,このように独立した観点で社会を眺める目というものが,人文学から生まれてくるとすれば,非常に大きな存在意義になるのではないかという感じるところでした。本書でも,そういった山崎先生の観点からの様々な社会批評が述べられていて,いちいちうなづくところが多かったと思いますが,個人的には「近代知識人における自我の欠如」「関西問題は全日本問題」「浅利慶太氏と小隊長の精神」「防衛論争とレイマン・コントロール」(いずれも節タイトル)のあたりをとりわけ興味深く読めました。

その他,浅羽祐樹先生から,『だまされないための「韓国」』を頂きました。ありがとうございます。SNSではすでにたくさんの感想・批評も出ているようで,読むのを楽しみにしております。詳細なものとして,本書に続く「第8章」として木村幹先生との対談が掲載されているシノドスの記事を興味深く読ませていただきました。
だまされないための「韓国」 あの国を理解する「困難」と「重み」

だまされないための「韓国」 あの国を理解する「困難」と「重み」

御厨貴先生からは,『明治史論集』を頂きました。ありがとうございます。東京都立大学にいらした時期の論文を中心に整理されたということです。整理にも関わられたという北海道大学の前田亮介先生が力の入った解説を書かれているということで,こちらの方もぜひ読んでみたいところです。
明治史論集――書くことと読むこと

明治史論集――書くことと読むこと

災害に立ち向かう自治体間連携−東日本大震災にみる協力的ガバナンスの実態

大西裕先生が編集された本が発売になります。ひょうご震災21世紀記念機構で実施された科学研究費助成事業の成果となっています。私は,大阪大学大学院の小林悠太さんと共著で「災害対応をめぐる行政組織の編成―内閣府兵庫県の人事データから」という章を寄稿しています。書いている人は,関西大学の永松先生を別として,基本的には政治学行政学を研究している人たちで,必ずしも防災や災害の話に元から通じていたとは言えないと思いますが,もともとの専門から理解可能な関西広域連合やその他の広域連携という観点から東日本大震災への対応を(再)検討するという造りになっています。国際比較も含めながら*1,災害に対して行政組織がどう設計されてきたか,どう設計するかを考えるということが主要な関心になっていると言えるのではないでしょうか。私のところは現在進行形の災害対策関係の人事データを扱っているところで,直近の状況を改めて見るとやや微妙だな…と思うところもありますが,そんな変化が見えるのは,この分野が政治化しつつあることの影響なのかもしれません。

*1:私もこの調査でワシントンと台湾に行きました。

BC州選挙

5月9日はBC州選挙。韓国大統領選と同じ火曜日だけど,向こうとは違ってこちらでは休日になるわけでもなく,普通に仕事や学校はある*1。子どもの学校が投票所になっていたので,送りがてら投票所を見学するなど。しかし平日に学校で選挙があるというのはなかなか悪くないと思われる。僕が投票所に見学に行った時も,恐らく高学年と思われる小学生たちが選挙の見学に来ていて説明を受けていた(その後ろでちょっと聞いてたけど,後ろの方だと断片的にしか聞き取れず断念…)。身近に選挙を感じるというのは重要だし,やっぱり実際に見て「こうやってるんだ」と思うのは,政治教育としても意味があるのではないかと思う。
投票所は非常にシンプルなつくりで,入場すると担当者がいて住む地区によって来た人を振り分けて,投票場所に誘導する。日本の場合は,ID(というか入場券)チェックのところで住所を確認して投票用紙を渡すけど,ここの選挙の場合は住む地域によって投票するテーブルが違うという感じ。一応覆いがかかっているところで投票用紙に記入して投票箱に入れるスタイル。さすがに投票用紙貸してとまでは言いづらく,見てるだけだったが普通に記号式で電子投票ではなかった。興味深いのはAbsentee Voting(たぶん不在者投票)というしくみがあって,指定された投票所じゃなくても投票できるというもの。あら選挙事務大変そう,と思ったけど,前回選挙の時の記事を読むと,電子投票でもないわけでやはり集計には2週間ほど時間がかかる模様。Close votesだとその頃まで結果がわからないし,反対に大差がついているようなところだとその集計に意味があるのか…みたいな気もしてくるかもしれませんが。ダウンタウンみたいなところだと利用する人は多くて1時間くらい待つみたいだけど*2,うちの子どもの小学校のところはガラガラでした。
事前のニュース報道見てると,基本的にはNew Democratic Partyが勝って政権交代を起こしそうだけど,かなりの接戦ということなので情勢を読むのは難しい*3。今回は第三党のGreenが今回はかなり支持率が高くて(20%弱)FPTPで議席を獲得するのは難しいにしても,選挙結果に影響を与える可能性は高いと考えられているようだけど,普通に考えたらもっとも左寄りのGreenと左派のNDPが票を食い合って中道右派Liberalが有利になりそうなところ。現職首相のChristy Clarkに対する批判票が多いと思われるわけですが,これをどのくらいGreenが持って行くのか,っていう話になりそうです。

*1:Elections BC(選挙管理委員会に相当すると思われる)によれば,投票日には投票時間(8時−20時)中連続4時間の自由時間を与えなければならず,使用者が拒否すると罰せられるらしい。もちろん,必ず休業(有休?)というわけではなくてシフトが12時からとか16時までとかであれば問題ないらしい。

*2:上記のtime off work for voting使って家帰ればいいような気もしますけど,仕事に戻ったり,off workしてから遊びに行くこともできるのかもしれない。

*3:地元紙では人気のないリーダー(Liberal)とみんな知らないリーダー(NDP)の戦い,とか悪いこと書いてたw

『徹底検証 日本の右傾化』

塚田穂高先生に『徹底検証 日本の右傾化』を頂きました。どうもありがとうございます。もう3刷りなんですね!主に社会学者・政治学者が書かれたところと,塚田先生がご執筆のところを中心に拝読いたしました。ジャーナリストや運動家の方々のところも興味深いのですが,読んでる印象としては,少し結論を急ぎ過ぎていて,ちょっとついていけないところを感じたのも事実です。14章で右派の「陰謀論」について書かれているところがありますが,「自説に対する反論があること」と「自説が広く受け入れられないこと」が陰謀論の特徴であるとすれば,それがそのまま当てはまるような章もないわけではないように思ったり…。しかしそういった方々も含め,多様な角度から議論できる執筆者を広く求めて一冊の本にされた塚田先生のご尽力はとても優れたものだと思います。
個人的には,竹中先生の議論(第6章)に近い印象を持っています。つまり,政治家の方は先走って「右傾化」しているところはあるけれども,有権者がついてきているわけではないという現状があるのではないかと。政治家がそういう志向を持つ理由としては,中北先生が本書(第5章)でも『自民党』の中でも,民主党への対抗ということを中心に論じておられます。私の感覚から言うと,選挙制度そのものというよりは,自民党内の総裁選出プロセスの変化や,地方の選挙制度と地方組織の影響力拡大といったところも重要な理由になるように思いますが。もちろん,仮に有権者の選好の大きな変動を伴わない政治家の活動だとしても,軽く見てよいというわけではなく,政治家が中道を狙う(狙わざるを得ない)制度設計こそが重要だと思います。
竹中先生の分析したイデオロギーの調査では「右傾化」の傾向が観察できていないとしても,気になるところは宗教的な伝統回帰みたいな動きだろう,ということで,本書では宗教についての分析が厚くなされています。読んでいて思ったのは,宗教と重なるかたちで重要になってくるのはやはりナショナリズムで,グローバル化が進んでいる中でナショナリズムを重視するようになるというのはまあ割と自然だと思いますが*1,日本の場合は本質主義/伝統主義的なナショナリズム天皇制や神道と結びつきやすいので,宗教の問題として一部捉えられることになるのではないかという印象を受けました。塚田先生のご論考は,以前のご著書と同じように類型化を図りつつ分析的に議論を進めるものです。他のご著書でもそうですが,宗教を分析的に議論するのは簡単なことではないと思いますが,非常に興味深い議論だと思います。気になったことを言うとすれば,類型化を行うときに,基本的に日本社会を前提とされているような感じがあるので,例えばアメリカの宗教右派とかはどういう風に関係づけられるかなどはちょっと見えにくいということです。
もうひとつ,問題をナショナリズムの方から考えると,やはり不思議なのはなんで「左派ナショナリズム」みたいなものはない(見えない?)のだろうか,ということがちょっと気になりました。一国社会主義論を持ち出すまでもなく,国民に対して平等な福祉を提供するという発想は,ナショナリズムと結びつきやすい(排外主義的になりやすい)ように思いますが,そういう(再)分配志向が直接出てくることはあんまりないような気がします。あるいは,すでに左派ナショナリズム国家社会主義的に「右派」の方にからめとられているという理解なのかもしれませんが。もしそうだとすると,対抗軸としては「自由」の強調になるように思いますが,これも新自由主義への嫌悪感で難しい,というと,やや辛いところです。…とまとまらないことを書いてしまいましたが,色々な思考を刺激される本であるのは間違いないと思います。

徹底検証 日本の右傾化 (筑摩選書)

徹底検証 日本の右傾化 (筑摩選書)

*1:いわゆる再国民化,というやつですね。関連研究としては,高橋進・石田徹[2016]『「再国民化」に揺らぐヨーロッパ-新たなナショナリズムの隆盛と移民排斥のゆくえ』法律文化社など。

自民党−「一強」の実像

一橋大学の中北浩爾先生(と中公新書編集部)から『自民党』を送っていただきました。どうもありがとうございます。ストレートなタイトルからも非常に意欲が伝わってきますが,選挙制度改革以降の自民党について,最近の研究成果を踏まえて書かれている,新たなスタンダードになりうる本だと思います。個人的にもいろいろと新しい知識が広がったと思いますが,特に政策過程を扱った第3章と地方組織を扱った第6章が勉強になりました。
自民党というと,中北先生の前著である『自民党政治の変容』も含めて,中選挙区時代の組織構造について説明されることが多かったと思います。しかし本書では,以前の派閥,後援会,族議員政調会を中心とするような自民党の組織構造が,執行部への集権を軸にどのように変化したかを描き出しています。重要なのは,変化の過程にあることを論じているのではなくて,ある程度固まったかたちとして現在の(「一強」の)自民党の組織構造を議論しているところだと思います。とりわけ興味深いと思ったのは,第3章で,自民党の政策がボトムアップ+コンセンサスを重視して決定されていた手続きを換骨奪胎して,トップダウンで決められた政策に党議拘束をかけるようなところが見られるという指摘でした。また地方組織についてまとめられた第6章では,国会議員よりも地方議員の方が有権者との強い関係を築きやすくなっていること,そして地域によっては県連単位での統合が強まり,執行部と対立しうることが議論されています。これは私が重ねてきた研究でも同じような知見を得ることができていて,近く単著を出版する予定ですが,意を強くすることができました。
その他に議論されているのは,以前は利益配分にも積極的に関与してきた派閥が国会議員の人的ネットワークの場になっていること(1章),総理を中心とした人事権者の人事権が実質化していること(2章),自民党公明党とどのように選挙協力を行っているか(4章),自民党国会議員が強い地盤を持つものと「風任せ」の二つに分かれていること(4章),経団連など友好団体との選挙や資金面での関係(5章)です。いずれも,最近の実証研究に依拠しながらも,これまでの自民党研究とはやや異なるパッケージでまとめて提示されていると思います。2000年代から2010年代にかけて,これが「安定」していた時期というべきなのかわかりませんが,自民党としてこの時期に進めた制度化を理解するために必読の著作になるのではないでしょうか。

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党政治の変容 (NHKブックス)

自民党政治の変容 (NHKブックス)

その他,大学に以下の本を頂いているようです。
まず,慶応SFCの松浦淳介先生から,『分裂議会の政治学』を頂きました。ありがとうございます。松浦さんが長く取り組んでこられた「ねじれ」についてまとめられた博士論文を基にしたものですね。自民党「一強」という中で「ねじれ」の問題はやや後景に退いている感じはありますが,また同じように起こりうる制度配置ですから,きちんと考えておくべき問題だと思います。津田塾大学総合政策学部に移られた森田朗先生から『新版 現代の行政』を頂きました。もともと放送大学のテキストであったものを改訂されたということです。中医協や社人研などでのご経験を反映されて,いわゆる番号制度や人口減少問題についても目配りされているようです。
新版 現代の行政

新版 現代の行政

早稲田大学の稲継裕昭先生からは,テキストブック政府経営論を頂きました。Jan-Erik LaneのState Managementの翻訳ですね。Laneの議論は昨年の村上裕一さんのご著書でも参照されていましたが(本は違う),Principal-Agentモデルで見た政府についての概説書ということになると思います。目次を見るとわかりますが,市場化テストや規制の話など,私自身が『公共政策』で扱ったような話とも近接しているようで,公共政策のテキストとしても使えるように思います。
テキストブック政府経営論

テキストブック政府経営論