社研プロジェクト

「失われた10年」を超えて〈2〉小泉改革への時代

「失われた10年」を超えて〈2〉小泉改革への時代

東大社研の「全所的プロジェクト」の研究成果。今回は二巻本で、これまで六巻とかで出されてきたのを考えるとテーマが結構大きいだけに、もう少し細かい議論があってもいいんじゃないかなぁ、という気はしないでもない。ただまあ「失われた10年」を検証するって言う企画はもうこれまでもさんざんやられてきたし、社研だって『流動期の日本政治』出してることを考えると、こんなもんなのかなぁとも思うけど。
載せられている論文は、全体的に何らかの「パズル」を解くものというよりは、事実に基づいて「失われた10年」の変化を説明しようとするもの。なので、まあ納得できないわけではないけど、個人的に少し食い足りなさも残る。すんごいマクロな次元で落とそうとする話と、「結局パーソナリティかい!」っていうののどっちか、というといいすぎかもしれませんが。まあそのうちいくつかの論文について。

佐藤岩夫「国家・社会関係−市民セクターの発展と民間非営利法制」

1998年のNPO法制定以来、NPOの認知は広がり、民間非営利活動は拡充する。また、「共益」に対応した法人を作るために中間法人制度も創設された。しかし、そのような非営利法人に対する支援税制の制度は現在の公益法人に比べて弱く、公益法人NPO法人中間法人も含めた改革が行われようとしている。しかし、この改革は政府の行政改革の一環(公益法人改革)として行われているために、民間非営利活動を促進するための支援税制という性格が十分に実質化されていない。

  • 佐藤論文では、NPO法は「民間非営利部門に公的承認を付与」とかいてあったけど、ぼくは単に法人格を取得するための法律だと思っていた。でも「単に法人格」は中間法人法ってことになるのかな。「公的承認」はまあ認定NPOはそうなんだろうけど、国会の議論などでは全てのNPOに「公的承認」を与えるという方向でされていたんだろうか。
  • 同じく三章。非営利法人の税制を考えるときに「公益」をどのように定義するか、ということはぼくも考えてみてもいい問題だと思う。いまのところは、「公益」を定義することが難しいという前提で、大きく分けて(1)どこかの機関が「公益」を定義して認証する、(2)そもそも「公益」を定義なんてしないで寄付税制で対応する(収益については原則課税)、というかたちになるような印象がある。行政改革推進事務局の案は(1)だけど、個人的にはどちらかというと(2)のほうが好ましいと思う(たぶん佐藤先生の主張は(1)で「公益」の間口を広げて民間非営利活動に対する支援税制を拡充せよ、ってことか)。そうすると、企業も含めて基本的に法人っていうのはべたっと同じようなもので、問題は利益の分配の仕方だけね、っていう方向にもっていけるから。いまのところこの理解で正しいか自信はあんまないけど。

樋渡展洋「長期経済停滞下の財政運営と銀行部門再建」

正直なところ長くて複雑なのでぼくにはあんまりよくわかりませんが、重要な主張はおそらく、以下。

日本の長期経済停滞への対応策を政府の無策や失策よりは、国内のディスインフレ制度に立脚した拡張的財政金融政策の出動余地の大きさに規定されたと考えたほうが合理的に説明できる(p.184)

しかしそれではなぜ実際に拡張的財政金融政策が出動したのかという説明にならないのでは?この条件が必要だということはなんとなく理解できるものの、「できたこと」と「やったこと」は違うように思える。
もう少し言うと、

  • ディスインフレ制度」と呼ばれるような制度は、どのような条件が整えば存在していたといえるのか良くわからない。一応計量で見ていることになっていると思うけど、2.3.節以降のように、「合意」が存在していたかどうかを記述的に見ていくほうが効果的なのではないだろうか。
  • 記述の部分は面白いと思うけど、2001年不況が1997年不況よりも深刻(あるいは財政出動余地が少ない)という理由は何なのだろうか?理論的には「ディスインフレ制度の根幹が弱体化し、景気刺激を求める社会的基盤が弱まった」という主張について何らかの閾値のような概念を設定するほうがキレイかと(難しいけど)。もちろん小泉のパーソナリティ説もかなり強いと思う。
  • 計量分析の方法が…。まあこの点に関してヒトのことはあまりいえませんが、ちょっとぼくには理解できなかった。クラスタはいいとして(ぼくはよくわからないし)、その後の回帰分析はまず時系列なのかパネルなのか良くわからない上に、そのデータだと系列相関や単位根の問題を無視しきって実証したと言うのはあまりにも無防備では…。
  • 一部そういう計量に立脚してるのでちょっと怪しさは拭えないものの、ただ、参議院が重要かもしれないという指摘はかなり考える必要があると思う。特に90年代以降の、「定期的に選挙が行われる」参議院は、政府の政策選択にとってかなり重要なファクターであることが予想できる。

<追記:ゼミのときに気がついた>

  • 何よりも、名目賃金が上がっていないことで日本では労使間の調整が上手くいってるってことになってますが、よく考えたらデフレ下で名目賃金が固定されてたら実質賃金は上がってるんじゃないの?

北村亘「三位一体改革による中央地方関係の変容−3すくみの対立、2段階の進展、1つの帰結」

政治的にも行政的にも実現が困難と思われる三位一体改革が実現してきた原因を、小泉首相就任後の制度配置と政治的選好から説明する。この論文集の中では、個人的には一番読みやすい論文だったと思う。よく考えるとこういうテーマってありそうであんまりない。財政学者は地方財政の観点から規範的な制度設計の議論を行うが、その議論の中ではセカンドベストを考えたとしても、実はその上のレベルの制度配置とか政治的文脈ってあんまり考えてない。より上位のレベルの制度配置から地方財政制度の帰結を考える仕事をしてるのは、最近では北村先生と木寺先生くらいなもんか。

  • ただし、論文がそのようなつくりになっているために、規範的な観点はあまり考慮されず、中央と地方のアクターの交渉に焦点が当てられる。マクロとマイクロってのは個別の省庁が出てくるかどうかって話なのだろうか。要するに、どうやって二対一の場面を作るか、ということなのでしょう。
  • 実は地方財政計画が経済財政諮問会議の「骨太の方針」の制約下におかれることになったっていうのはすごい重要かも。

この論文とはあまり関係ないけど、地方交付税の「財源保障機能」が政治的に問題になったのはなぜなんだろうか。そもそも基準財政需要額と基準財政収入額の差を埋めるというのは完全に財源保障そのもので、制度設計上財源保障するための制度なはず(→実はここ論点。cf.足立[2006])。北村先生の論文では岡本先生からの引用で「財源保障機能が一貫して拡充されてきた」という旨のことが書かれているけど、実はそれは単に国が(立法を通じて)地方に課す義務が増えてるからそのための財源保障が必要になっているという面も大きいわけで。本来は「財源保障が手厚い」というのであれば、国から振ってくる事務を一定にしたうえで、個別の単位費用が上がって交付税総額も上がるということを含意するはずだと思う。これは単に仮説だけど、財源保障機能が批判されるようになったのは、いわゆる地方分権改革以降じゃなかろうか。まるで連邦制のように地方が独立採算でやっていくことが重視され、地方交付税はあたかもそれまでも財政調整だけをやるべきだったかのような。しかし、この議論は何が国の事務で何が地方の事務かという問題をすっ飛ばしてはできないはず。


流動期の日本政治―「失われた十年」の政治学的検証

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