確率論と決定論−再び

重田園江『フーコーの穴』の議論(第四章)は、二年前にやまけん氏と書いてみた方法論の論文(『相関社会科学』14)の、次の議論へと展望を開かせる(この本自体の主題はこの話だけではなく、人間行動の正常/異常を社会がどのように捉えるか、という分析だが)。議論の枠組みは、疫学の議論を下敷きにしているものの、確率論と決定論の根本的な考え方の違いを議論するという意味でほぼ同じであり、僕らがこの議論を引くことができなかったのは(2003年9月というまさに執筆中の時期に出版されたとはいえ)、不明であり、残念だったとしか言えない。

  • 統計的推論は、絶対確実な知(エピステーメー)ではないが、ただの憶測(ドクサ)でもない、証拠evidenceに基づく知識、あるいは情報を与えてくれるのである。(p.113)
  • ベルナールは、統計が個々の事例について確実には何も言わないこと、確からしさはどこまで行っても確実性には至らないことを、統計学の限界と捉えた。しかしそれは、現在では統計学の限界というよりは無限の可能性であるかのように見える。(p.121-2)

次の展開、というのは、従属変数を恣意的に設定せざるを得ない場合においても、「根拠」となる統計処理が非常に複雑で専門的である(でかつ説得力を持っている!)場合に、「確かなこと」を言わないはずの統計数値が実質的な意味を持って我々の生活を規定しうる、ということだろう。これはこの本で取り上げられている健康のような場合に特に問題となってきやすい(社会科学、の対象範囲でそうなるかは謎(^^;)。しかしながら、「質的に異なる」と考えられる二つの現象が連続しているとするものの見方はまんまロジット/プロビットの思考様式に近いわけで。もちろん、「健康」の場合、従属変数が、正常/異常という二値を採ることがさらに問題を複雑にさせるわけだろうけど。

  • 一人の人間や一つの症例については確かなことを言わないはずの統計数値が、確率や相対危険度として示されるとき、それ自体をもとにして個人が行動様式や生活習慣を修正し、自己管理するための判断の「根拠evidence」となっていくのである。
  • 統計は、それが集団を対象とするにもかかわらず、個人の判断やふるまいを規定する力を持つ。それはまるで、「社会」という個人にとっては外在的な一種の力が、個人を外部から動かし、全体としての秩序を作り出すという、デュルケムが描いたダイナミズムのようである。(p.122)

まあ典型的には、最近のたばこのパッケージみたいなもんだ。
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/main.html
特に従属変数を質的なものとして設定する場合は、それが成功して説得力を持つと、次の問題が現れる。…まあ社会科学業界で「個人の判断やふるまいを規定する」ほどの研究成果が出現するかどうかはわかりませんが。

フーコーの穴―統計学と統治の現代 (明治大学社会科学研究所叢書)

フーコーの穴―統計学と統治の現代 (明治大学社会科学研究所叢書)