専門家の位置

普段はどんだけ自分がいいなぁ,と思った本でも「これよかったよ」くらいの勧め方しかしないのですが,これは「読むべき」本だと思います。公害・環境研究の研究者はもちろん言うまでもなく,研究者という仕事をしている/したい人であればぜったい読むべきではないかと,結構力みかえってお勧めします。ていうかこの本2004年4月出版ですが,2年間も知らなかったことが残念で仕方ない。

医学者は公害事件で何をしてきたのか

医学者は公害事件で何をしてきたのか

僕は自分のやってる研究分野では,すぐに「因果関係は確率的にしか考えられない」とか言うくせに,この本を読むまで自分の専門外の領域(医学)での,そうでない考えをかなり安直に受け容れてたことを強烈に反省しなくてはいけません。ほとんど何の疑問もなく,水俣病は特異的疾患でしょ…とかいう話を受け容れていたのは本当に恥ずかしい。水俣病を食中毒として捉えて対策を考えるべきであるというこの本の主張は,読んでみると全く納得のいくものであって,既存の制度から物事を考えてしまうという罠に見事に嵌ってました…。
この本から考えさせられることは本当にいろいろあって,いちいち引用していたらきりがないくらいですが,簡潔に議論をまとめると,疫学研究者である筆者が,水俣病において個別的に因果関係を同定していくというアプローチが持っている問題を指摘し,その構造を政府と研究者がどのように維持し続けてきたのかということを詳細に検討したうえで,「なぜこんなことになってしまったのだろうか」を論じるものです。筆者の主張によると,水俣病水俣湾周辺で獲れた魚介類を原因食品とする食中毒であり,(その病因物質がなんであれ)通常の食中毒と同様の食品衛生法による対応さえ取られていれば,現在のような帰結は招かなかったというものであり,疫学に基づいたその説明には非常に説得力がある。さらに,それを維持する過程において,現状を追認するかなり苦しい理屈を生み出していく,専門家を名乗る医師や,制度に関与する法学者という「権威」が,事実ではなく,国というさらなる「権威」の方に歩み寄っている姿を描いていく部分は本当に考えさせられます。*1僕自身,研究費の支給を受け,また研究対象が公的組織である以上,行政との関わりのようなものを持つわけで,そういう人間が「何をやってはいけないのか」を自分で考えるためにも,重要な示唆が本当に多かった。最後の章のこのフレーズは特に。

そして残念なことに特別に悪い学者がこのようになるわけではなく,誰にでもこのようになってしまう可能性はあるのだ。

著者が議論するように,徹底的にデータに基づいた議論をしようとすることでしか,権威という問題と距離を置くことはできない。逆に言うと,議論が権威によって歪められようとしたときに唯一頼ることができるのはデータしかないわけで。
と,全く持って本書の議論について絶賛なのですが,ひとつだけ,考えないといけないことはある。これは本書の射程ではないから触れてないだけだとは思うんだけど,それはやっぱり資源の問題である。筆者の言うとおり,食中毒について「認定」というのがそもそもおかしくて,曝露有症者(=つまり,魚を食べたという曝露条件を持ち,感覚障害という症状を発症した人)全てに対して何らかの対応をしなければいけない,という点には全く同意する。しかし,そのためには限られた資源の配分が行われなくてはいけない,というのもまた事実だろう。*2本書において糾弾されている医師の一人の次のようなコメントが記録に残っている。

それは今まで認定されているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし,そうなったら昭和電工や国はやっていけるだろうか?(p.107,文脈は「四肢の感覚障害があれば認定しても良いのではないか」という指摘に対する答えで,斉藤恒『新潟水俣病』からの引用)

資源が限られているのであれば,残念ながら症状によって優先順位を付けざるを得ない。しかし「誰を(何を)優先するか」を決定するにはそれなりのコミットメントが必要になる。何といっても,そこでコミットメントが必要なことこそがこういう問題を生み出してしまうのではないか。そのコミットメントは,有権者に対してだけではなく,自分の前任者・上司たち,その他の関係者にも係わってくるものであって,そのようなコミットメントをするコストを払うくらいなら,現状を維持し続けるほうが合理的であるのかもしれない。そうやって長い間同じような決定が積み重ねられてしまうのではないだろうか。そう考えると,その内容には不満が残るものの,「(国が受け容れない和解を受け容れた経験を持つ)熊本県知事だった細川護煕氏が首相になったこと」によっていわゆる「政治解決」が行われたのは示唆的だろう。それが良いことか悪いことかは別として,残念ながら「変わる」には何らかの条件が必要なんだろう。それはモラルのような個人レベルの問題ではなくて,残念ながら一定のコストがかかることを覚悟した上でのシステムレベルの問題として捉える必要があるんじゃないか,とは思う。
当面の〆切がすぐそこに迫っていても,先に全部読んで考えをまとめなくてはならない,と思わせてくれる本だった。

*1:ここまでの部分は基本的に薬害問題にも当てはまるとされ,それは全くその通りだと思う。

*2:もちろん,早期に正しい対応が取られていれば必要な資源は少なくて済むし,また,研究費や国賠訴訟という「ムダ」に対して使う金があるんだからそれを回すべきだ,という議論はもちろん成り立つが。