ナショナルミニマム

僕は自分の手に負えないと思うような大きな話をするのが苦手で,ヨクワカラン規範的なことを書くのはあんまり気が進まないのですが,どうも気になって仕事が進まないので。なるべく丁寧に書こうと思いますが,もちろん一気に書いてるわけではないので,たぶん途中で論理が飛んだりつながりがよくわからなかったりすると思いますがすみません。見方によってはこれ,筋悪の話に見えるかもしれませんが,僕としてはそれなりに誠実に書いてるつもりです。メモなんで勘弁して下さい(以上言い訳ですが)。
トラックバックを頂いたid:dojinさんの

ナショナルミニマムというブラックボックスは、ブラックボックスのまま議論されていくのだろうか

という問いの立て方は,もしもその前提として国が「最低限」供給するべきサービスを定義すべきだ,という発想があるとしたら,やや懐疑的です。なぜなら,その問題設定は問題をやや限定的に捉えてしまう効果を持つのではないかと思うからです。ここで僕が落ちてしまうのではないかと思うのは,(理念型的な)福祉国家,もうちょっというと理念型的な福祉国家的な単一国家(なんじゃそら)での公共サービス供給はどういうものか,という問題です。面識ないですがブログを拝見する限り,僕なんかよりむしろid:dojinさんの方がこのあたりの議論にはお詳しそうなので,よかったら教えてもらえれば,と思ったりするのですが(念のため,ですが,別にあげつらったりするつもりは決してありません。単に問題を提起してみようと思っただけです)。
いや,以下みんな当たり前の話だと怒られそうなのですが,考えたことをストレートに書くと,理念型的な福祉国家的な単一国家(めんどくさいので以下「単一国家」)では,そもそもナショナルミニマムっていうかたちで公共サービスを定義する必要があるのかどうかについて,僕はちょっと疑問に思っています。もちろん,地方政府(出先機関でもいいけど)が国が定めた公共サービスの水準から限界的にサービスを調節することが認められていて,かつ,地方政府が国が定めたサービスの水準から切り下げることが認められていなければ,その「単一国家」の中で国が定めた水準を下回るかたちで公共サービスが供給されることは一応なさそうなので,そこで定義されているサービスはナショナル「ミニマム」なのかもしれません。しかしそれは通常特に経済学で議論されるような,国家が最低限供給すべきサービスとしてのナショナルミニマムなのでしょうか。
「単一国家」である以上,供給されるサービスがナショナル(むしろユニバーサルとでも言うべきでしょうか)なのは当然で,問題は,そこから追加的なサービスが行われることが必要とされているかどうか,というところにあるのではないかと思います。「単一国家」であれば,別に地域ごとに追加的なサービスが行われなくても,一定の水準の公共サービスが確保されることが予定されていて,その水準は最低限という意味でのミニマムかどうかはそもそもあまり関係ない,単に政治的な「決め」の問題だと思うんですよね。その定義された(「決め」られた)公共サービスの量が分析的に好ましいかどうかという問題はむしろ二次的な問題で,重要なのは,「単一国家」の政治的なアリーナにおいて必要なサービスの水準が決定される,ということなのではないかと思っています。この場合,サービスの水準が十分ではないと,それは一義的に国の責任が問われることになると考えられます。
こういう状態は,そのサービス水準が「最低限」なのかどうなのかよくわからないという意味で,id:dojinさんの言葉を借りるとナショナルミニマムはなんだかよくわからない「ブラックボックス」の中に置かれていることになるのではないかと思います。それに対して,ナショナルミニマムを,「国」(というか中央政府)が「最低限」責任を持つという公共サービスの量,として定義し,「国」(というか中央政府)がそれだけのサービス供給を行えば,それ以上の責任を問われることがなく,それ以上の必要なサービスの供給は地方政府が一義的な責任を負うことになるのではないでしょうか。いやもちろん,「国」(というか中央政府)は「最低限」のサービスを供給することには一義的な責任を負ってるわけですが,重要なのは「最低限」のサービスを供給してるんだからあとは地方に言ってくれ,という反論が成り立ちうる,ということではないかと思うわけです。
少なくとも僕が理解する限り,現在の日本の「国」は「最低限」のサービス供給だけを使命としているわけではないと考えています。いやもちろん「最低限」だって供給してないじゃないか,って言う人はいると思いますよ。ただ,僕は現在の日本は「単一国家」に近いと考えていて,「国」レベルで必要とされるサービスを,「最低限」かどうかに関わらず供給していることになっているのではないかと思うのですがどうでしょうか。この観点から見ると,id:dojinさんの問いの立て方について,「国」が供給する「最低限」の量をどのように定義するか,という問題よりも,その前の,そもそも「国」が供給するサービスを「最低限」として位置づけるべきかどうか,というところこそがもっと主要な問題だと思うわけです。
まあ福祉国家における分権の問題は,これまでほとんど考えられてこなかったって言われているわけですから(Rattso[2003]),僕ごときがごにょごにょ言うのは正直お恥ずかしいのですが。現在進行形の分権委員会の議論との絡みで,もうちょっと(続き)に書いてみました。まあ単にメモですが…。

Fiscal Decentralization and the Challenge of Hard Budget Constraints (MIT Press)

Fiscal Decentralization and the Challenge of Hard Budget Constraints (MIT Press)

あ,この本二回連続…ネタ切れかなぁ(苦笑)。
いわゆる財政連邦主義的な(今回だと井伊先生が主張しているような)「国」(というか中央政府)が責任を持つ公共サービスの量を定義するということは,従来の日本の公共サービス供給の在り方をかなりドラスティックに変えてしまうものではないかと考えています。なぜなら,「国」(というか中央政府)の責任をある公共サービスの供給に限定することは,逆を考えると,それ以外の公共サービスの供給においては責任が問われない可能性を出現させるからです。これは,明らかに現在の中央省庁に象徴される政府を,「国」ではなく「中央政府」として定義しなおすことになるのではないかと思います。少なくともそれは,地方自治法レベルの問題ではなく,憲法レベルの問題だと思うのですがどうでしょうか。
現在の制度においては,「中央政府」がやるべき仕事も,「地方自治体」がやるべき仕事も,別に憲法的には定義されていません。中央の立法府は「地方自治体」がやるべき仕事を定義することは可能ですが,「地方自治体」はそこで定義された以外の仕事でも,法令に違反しない限りにおいて,誤解を恐れずに言えば,無限定に行うことが可能であると考えられます。さらに言うと,特に機関委任事務が存在していた第一次分権改革以前においては,地方自治体は,中央の立法府によって定義された仕事を実施するといういわば「出先機関」という性格と,地域住民によって包括的な委任を受けて自らが定義した仕事を実施することができる「地方自治体」という二重の性格を持っていたわけです(たとえば,辻山[1997])。このような制度設計の中で,ナショナルミニマムブラックボックスの中に置いとくというのは,一定の便益があったのではないかと思います。それは,基本的に中央の立法府ナショナルミニマム,というかもう少し正確に言うと,供給すべき公共サービスの量(必ずしも「最低限」ではない)を定義する一方,そこで定義された公共サービスでは不足が生じる場合に,「地方自治体」が独自の公共サービス供給を行い,場合によっては中央の立法府がそれを吸い上げて再度立法化する,というかたちで,必ずしも「最低限」ではない,一定の公共サービスの量をある程度全国一律に保つことができた,ということです。
ここで重要なのは,これまでの制度では,必ずしも個別の「地方自治体」の選択によって「最低限」からの上乗せがされてきたわけではない,ということです。ここは怪しい言い方かもしれませんが,個別の「地方自治体」あるいは「中央政府」だけの選択ではなく,「中央政府」「地方自治体」の総体を通じて,ある程度全国一律に近い形での公共サービス供給という意思が形成されてきたと考えられるのであり,これがまさに「国」としての意思の形成となっていたのではないかと思います。前の段落で,「中央の立法府」という表現を用いたのは,立法府は「中央政府立法府」という以上に,「国」を代表しているものであると考えているからです。地方交付税制度というのは,こういうかたちで公共サービス供給を行うのに適合的に作られていたものだと思われます。それは具体的には,「基準財政需要」という考え方です。「国」のほうで定義された公共サービスの水準をある程度カバーできるくらいの財源を「地方自治体」に配ることで,全国一律に近いかたちでの公共サービス供給を行うことが可能となったということです。
乱暴な言い方になりますが,ナショナルミニマムを厳格に定義する,ということは,現行制度にひきつけて考えると,「基準財政需要」をまさに「最低限」なものとするとともに,その財源を国庫支出金によって保障するという考え方に近いのではないかと思います。そうすると,税収によって地方自治体の間で財政力に開きが出てしまうので,そこを何らかのかたちで調整する,という議論になります。「中央政府」がやるべき仕事を自ら出先機関を作って実施するか,それとも「地方自治体」に委任するかどうか,という問題はありますが,そこはとりあえず置いておいて,「中央政府」がやるべき仕事とされた以外の仕事については,原則的に「地方自治体」の仕事とならざるを得ないのではないかと思います。「中央政府」には少なくとも合理的なかたちで財政調整をする責任があるとしても,*1その責任を果たした上で発生した地方間の格差や地方における政府の失敗については,「中央政府」ではなく「地方自治体」が責任を持つことになります。つまり,これまでの制度においては,「中央政府」「地方自治体」ともに,その仕事が無限定であったのに対して,ナショナルミニマムを厳格に定義するということは,「中央政府」の仕事が限定される一方で,「地方自治体」の仕事のみが無限定になることを意味します(あくまでもまあ極論の場合,ですが)。別の言い方をすると,「中央政府」が供給すべき公共サービスの量はどこに地域においても定められているのに対して,「地方自治体」は自らが供給すべき公共サービスの量は必ずしも定められないために,「地方自治体」が,どんな方法で(Input)どの程度の公共サービスの量と質を(Output)供給するかは,まさに自主的な判断に委ねられることになります。こういう見方から現行の制度を眺めると,単にナショナルミニマムの水準が高いだけ,というように見えなくもありません。そういう観点からは,高すぎるナショナルミニマムを設定していることで,「地方自治体」の独自性を奪う制度であるとして批判が行われることになるかと思います。
地方分権」といったときに,このようにナショナルミニマムを厳格に定義して,「地方自治体」が責任を持つべき領域を広げる,という考え方のほかに,公共サービスの水準自体は「国」の代表である中央の立法府が定義して,その枠内で「地方自治体」の自由度を増やすという考え方も可能です。これは上の言い方を使うなら,所与の公共サービスを(Output)供給するにあたって,「地方自治体」が,どんな方法で(Input)供給するかについての自由度を拡げるということを意味します(これは細かく言うと,さっき棚上げした,「中央政府」が行うべき公共サービスを自ら出先機関を作って実施するか,それとも「地方自治体」に委任するかどうか,という問題の一環として考えるよりも,「国」を代表する機関が「地方自治体」に対して委任を行う際の問題と考えていいのではないかと思います)。すなわち,分権改革を通じて,現在は「立法による義務付け・枠付け」によって縛られる「どんな方法で供給するか」という方法について,「地方自治体」の裁量の余地を拡大することを中心的な問題とする主張がありうるのではないかと思います。そのときは必ずしもナショナルミニマムという表現は必要なくて,「国」として供給すべきサービスを個別法で定めて,「地方自治体」はそれを実施する機関という性格を強く持つことになります。こう書くと,原理的な地方分権論者は,「地方自治体は国の出先機関じゃない」と怒り出してしまうわけですが,少なくとも「国」として定めた標準的なサービスに加えて,地域住民の選好によって限界的にサービス水準を上げたり下げたりすることはもちろん否定するわけではありません。ただ,僕はここは主張したいところですが,そのときにやっぱり「不交付団体」というのはちょっと考えるべき存在だと思うんですよね。だって,不交付団体は,別に追加的に財源を徴収する努力をする必要なしに「国」として定めた標準サービス(基準財政需要で表されると考えています)以上のサービスを行うことが可能な財源を持ってるわけで(この話は長いのでまたどっかで)。
僕が最近何回か書いている,井伊委員と小早川委員の間の議論の軸,というのは要するにこういう感じのことです。これは見方によっては質的な違いではなく,連続線上に捉えられる問題かもしれません。しかし,少なくとも僕が考える限りにおいては,「国」を代表する中央の立法府と,「中央政府」を構成する機関としての議会(アメリカ連邦議会のイメージですが)は,質的に異なると考えざるを得ません。僕は,長期的には井伊委員の議論の方向性に賛成ですが,少なくとも今回の委員会では小早川委員の議論を優先すべきではないかと考えています。それは,これまた誤解を恐れずに言えば,これまで遍く「国」というものが何らかのかたちで責任を負うことが想定されていた日本において,急に「国」が「中央政府」として,その責任が限定されるのは,いかにも性急だと思うからです。「中央政府」の役割ではないと決められた分野において,現在の個別法を廃止してこれからは地方に任せます,とはとてもいかないのではないかと。いやまあそら個別法残しながらナショナルミニマムは限定だよ,って感じの苦しい議論も技術的にはできるかもしれませんよ,でもやっぱり理屈としては厳しいのではないかと。それに対して委任の議論は,現在の制度においてだけではなく将来「中央政府」と「地方自治体」の役割が厳格に定められたときでも使うことができるわけで,より喫緊の課題だと思うからです。そのときの問題は,やっぱりどうやって公共サービスを(Output)コントロールできるか,って話だと思うのですが。各レベルの政府の役割分担をしない一方で,アウトプットのコントロールをしないと,単に無責任体制になっちゃう気がしてたまらないのですが。

…ふう。というわけで,ここまでたどり着くのにえらく長かったわけですが,要するに言いたかったこととしては,「ナショナルミニマムブラックボックスにおいたままにすること」が必ずしも好ましくないとは言い切れないのではないか,というところなわけです。いや少なくとも長期的には僕は好ましくないと思いますよ。人の選好だって多様化してるわけだし,それを「単一国家」レベルで一律にするのはどんどん無理が大きくなることは予想されて,せめて「地域」レベルで差異があることはたぶん望ましいのではないかと思ってます。でも,現状でいきなり「国」が遍く存在しない日本社会を想定するのは難しいというかかなりの跳躍があるし,それはそれこそ憲法マターじゃないのかなぁ,と思ってしまうわけです。そこまで跳ぶ前に,まずは「単一国家」みたいな日本で,公共サービスをどんな方法で供給するかについてはある程度地方の自由度を上げるかたちで改革(?)を進めて,そこから段階的に個別法による縛りを外して地方に任せていくほうが実現可能性は高いんじゃないかなぁ,と思ったりするわけですが。
…いや,こんなに長々書く暇あったら先博論進めろ,という話で…僕もそう思うんですが。ただまあ博論に全く関係ないわけでもなくて,多少ブレストになったかなぁ,とは思うんですけど。

*1:ちなみに偏在の少ない税源を地方に渡すとか,あるいは税源に偏在が多い場合には地方間での財政調整になると思いますが…