Brexit/国民投票・住民投票の使い方についての教訓

イギリスの国民投票の結果には驚いた。ご多分に漏れずまあなんだかんだ言って残留派が多数を占めるだろうと思ってたので。よくわかんないけど,まあ残留になるだろうと思ってキャメロン首相に対する「お灸」のつもりで離脱に投票したっていう人もいたりするんじゃないだろうか。政権が変わらないことを前提とした政権評価であるSecond-order electionのように投票したら,実は政権そのものを変えてしまうFirst-order electionだった,みたいな。
国民投票については,日本でも憲法改正関係で議論されているし,昨年の大阪での住民投票も思い起こさせる。「他に影響がある決定を狭い領域でやっていいのか」とか論点はいろいろあるだろうが,その領域の代表としては,当該領域の住民の意思表明を尊重すべきではないか。言い方を変えれば,そこで住民の意思に近い政党が本来選ばれるべきだった→政権を握るべしということになるわけだし。個人的には残留のほうが良かったんだろうなあとは思うけれども,意思表明の機会があって,明確に意思が表明されたにも関わらず,それが不透明なかたちでオーバーライドされるというのは民主制の前提をいろいろと覆してしまい,体制自体の信認を削ぐように思われる。「民主主義の赤字」を限界以上に拡大させてしまうというか。その点を考え合わせると,やはりどういう案件を住民投票にかけるか,というのをある程度限定的に考える必要があるのではないか,というのが今回の教訓のように思う。
どうやって限定するかというと,「お試し国民/住民投票」は望ましくないということではないか。正確に言えば,住民投票は基本的に二択で行われることを前提にしたうえで,その二択は現状維持/現状変更に限られ,住民投票にかける政権は現状変更にコミットすることを決めておくということ。自分たちは支持しないけど国民が判断するならそうしますよ,みたいな無責任なことを禁じておくということ。そうすると,重要な現状変更への意思が住民から表明されたにも関わらず,それを担う政権が何かわからない,という今回のイギリスで一番困難そうな話は回避できる。要するに,政治のほうで大多数がまとまった現状変更について,「これでどうでしょうか」と有権者に問うて,その判断を仰ぐということになるわけで,ダメだと言われたら基本的には現状維持なわけですが,まあその場合でも辞職してもう一度信を問うのが筋だろう。大多数で決めようって言ってることが有権者とずれてるわけだから,もう一回現状から作りなおすべきだという話にはなると思う。
この形式だと,結局のところ住民は「拒否権」しか行使できないじゃないかという批判は出るわけだが,しかし「拒否権」以上のものを行使しようというのは非常に難しいんじゃないか。何かしたければ直接請求はあるわけで,そこで議会を通して決めるというのが基本的な代議制民主主義の設定だろう。そこのところがうまくいかないというと,それはそもそも代表を選んでいる選挙制度に何か問題があるんじゃないかという話になると思う。有権者の意思がうまく伝わっていないというときに,それをまず伝える機能を持っているのは選挙なわけだから,そこから修正するという考え方が妥当ではないか(もちろん,選挙制度はそれまでに培われてきた経験があるので,やはりこのやり方がいいとなる可能性も低くない)。この点を考えると,イギリスでの選挙制度改革の失敗というのはやはり今回に至る伏流として大きな意味があったんじゃないだろうか。小選挙区制ではなく比例的な選挙制度(AV制がいいとはあんまり思えないけど)でより幅広に民意を反映させようとした改革を潰した保守党が,結局のところ民意を取り込む手段を持たずに国民投票をせざるを得なくなって失敗した,ということのようにも思える*1。そして,このような選挙制度改革の失敗→とりあえずお試しで国民投票に訴える危険性というのは日本にとっても重要な教訓だろうと思われる。まあまずは選挙制度改革でしょう,と。
ただイギリスの経験が興味深いところは,このような「実験」を行っていこうとする姿勢じゃないか。国民投票住民投票をどう扱うかというのは,必ずしもコンセンサスがあるテーマではなくて,いろいろやってみることで望ましくないやり方を排除していくというのが重要だと思う。そういう意味では,今回のような国民投票だって,やっちゃいけないというわけじゃなくて,勝って求心力を高めたい「政治的」な判断としてはまああり得る(それに失敗すると罵られるわけだが)。近代デモクラシーの母国としては,こういった経験から次の住民投票のあり方みたいなことも考えるようになるんじゃないか,ということを期待してる。
ちなみに,このような住民投票理解については,今年頭に日本経済新聞の「やさしい経済学」で連載させて頂いた第7回目に書いてる。一応校正前のものはこちら。

住民投票に法的な拘束力がないとしたら,どのような意義があるのでしょうか。最終的に決めるのは長や議員なので意味は無い,という極端な見方もあり得ますが,ある程度議論が行われたうえで住民投票が行われるとしたら,法的な拘束力がなくても関係者がその結果を尊重する必要はあるでしょう。
具体的な政策の選択肢が絞りこまれたうえで住民投票が行われるとすれば,それを住民による「拒否権」の行使と捉えることもできます。つまり,長や議員が現状を変更しようとするのに対して,大事な問題だから住民がその変更を認めるかどうか改めて判断するのです。住民の多数が反対すれば,現状が維持される,というわけです。
ポイントになるのは,「誰が住民投票を発議するか」です。現状を変えたい長や議員が,わざわざ住民投票を利用しようとは思わないでしょう。そんな中で住民投票が提起されるとしたら,議会などの場では少数派だけども,住民を巻き込むと勝てる,という人たちによると考えられます。つまり、通常の政治過程では否決できないような決定に対して,住民の意思を問うことで拒否権を発動しようというのです。
このように考えると,一部の住民が求めても住民投票がなかなか行われないことも理解できます。それは,長や議員などが現状を変えることに賛成でまとまっているときに,敢えてその審判を受けようとしないからです。今より住民投票を活発に行うためには,たとえば3分の1の議員の賛成で可能にするとか,少し発議へのハードルを緩める必要があるでしょう。
拒否権として住民投票を捉えるということは,現状にこだわる長や議員が反対するような変化を住民の賛成で実現する,という話とも違います。住民投票をこのように使うことへの期待もあるように思いますが,実際の決定に関わる長や議員の多数が反対することをやらせようとしても,骨抜きにされたり途中で勝手に話を変えられたりしかねません。やはり本筋は選挙で長や議員を選ぶところであって,住民投票は補完的に利用するかたちが望ましいのではないでしょうか。

*1:よく考えたら,キャメロンはスコットランドBrexitのみならず選挙制度改革でも国民投票っていう方法を使ってるんだよね。ほとんど「クセ」じゃないか。