不利益分配?

普段読む研究書とはやや違う風合いのものを。

武器としての<言葉政治> (講談社選書メチエ)

武器としての<言葉政治> (講談社選書メチエ)

この本は結構書評しにくい。が,たぶんよく安直に語られる「小泉政治」というものを出来合いの理論とは違うかたちで「政治学的に」分析しようとした一つ目の本,というように評価することができるんじゃないだろうか。小泉政権の分析については,他にも『官邸主導』とかそういう優秀な研究があるわけですが,これまでの研究は,どちらかというと,ミクロなアクターの相互作用に焦点が置かれることが多かったと考えられる。それに対して,本書ではもう少しマクロな視点に立って小泉政権の分析が行われることになる。そのときのキーワードが,「不利益分配」と<言葉政治>ということになるわけで。分析の厳密さや手法については後からはいろいろと批判することが可能だと思うものの,少なくとも筆者が言う「たたき台」の役割は十分に果たしているのではないだろうか。

内容は,二部構成であり,第一部は歴代首相の<言葉政治>について分析が行われる。これは正直なところ,まあ面白いんだけど,各首相の<言葉政治>の巧拙をわけるメルクマールははっきりしないし,著者の印象をもとにしたAnecdoteの集合のようになってしまうところはやむをえない。このあたりについては,最近出た『歴代首相の言語力を診断する』(こちらは未読)のほうが,言語学の知見を使いながら分析をするということで,政治学でも新しい方法論が活かされる分野なんだろう。

歴代首相の言語力を診断する

歴代首相の言語力を診断する

本書が興味深いのは,やはり第二部ではないだろうか。いろいろ論点が出されているが,主張としては,田中角栄型の「利益分配政治」が社会経済環境の変化によって困難になり,「不利益分配政治」に特徴付けられる新たな政治手法が小泉首相によって生み出されたものであるとする。で,その特徴を簡潔にまとめたのが次の表(p.168より)。

  角栄型(=分配型) 小泉型(=動員型)
多用された時期 1970年頃〜2000年頃 2001年頃〜
多数決の基準 国会議員の数 国民の支持率
政策の基本 利益の分配 不利益の分配
国家の役割 拡大(サービス国家) 縮小(規制緩和
財政のあり方 積極財政(公共投資増大) 財政再建公共投資抑制)
経済活性化の手段 ハード(ハコ物) ソフト(知的財産)
中央と地方の関係 国が地方に指示 地方のアイデアを国が支援
政治の手段 予算政治(利益分配) 言葉政治(支持動員)
付与される満足 実体的・金銭的 象徴的・精神的

高度成長が終了して安定成長・低成長期が定着した結果として,筆者は次のような状況が現出したと主張する。

財政改革が不可避となった現在,「だれに利益を分配するか」をめぐる政治闘争は,「だれに不利益を分配するか」をめぐる政治闘争へと姿を変えつつある。もっと有り体にいえば,2000年代初頭の政治の基本軸は「だれに不利益を押し付けるか」である。そして,それをふまえて,新たな国政の枠組みにつながる布石を打つことである(pp.163-164)

そこで重要になるのが,実体的な利益ではなく,象徴的な「利益」を有権者に感じさせることができる<言葉政治>の力なのであるという。

言語は,政治についての現実認識を構成する。「現実」は帰られなくても,「現実の認識」は変えられる。不利益がもたらされても,耐えてがんばろうという機運が,言葉による説得によっては出てくる可能性がある。(p.176)

枠組みとしては理解できる。こういう研究について,すぐに「印象論」だとか言う人は少なくないけど*1,それはあくまで実証レベルで操作化するのが難しいことを言っているだけで,別に<言葉>みたいな概念を使った枠組みがそれだけで問題があるという批判になるわけではない。考え方自体は非常にすっきりしているし,個人的には似たような考え方を持っているので,わりと引用した中間的な「オチ」(?)までの道のりにはあんまりひっかからない。
ひっかからないとはいえ,ちょっと考えると,それじゃあホントに「不利益分配」なのか?という気はしないでもない。本書の「角栄型」というのは,いわばパイが拡大し,(補償も含めて)パレート基準で社会的な厚生が改善する中でどのように分配するかをめぐる政治であったのに対して,「小泉型」というのは,パレート基準で社会的な厚生が変わらないという状況で,ある「パレート最適点」から別の「パレート最適点」を目指す,つまり配分のあり方を変える政治ではないか,と。「不利益分配」というと,パレート基準で厚生が低下する中で,その「痛み」をどう配分するのか,という問題であるように考えられる。ただまあ,この本の中では「不利益分配」が正確にはなんだかよくわからないので,なんともいえないところではあるのですが。
加えて,著者の結論として「不利益分配」の時代において象徴的な利益の供与というものを重視している以上,だとするとそれはそもそもホントに「不利益」を分配しているのか?という問題は付きまとう。象徴的な利益を理由にある政策に対して賛同があるのであれば,それは「不利益」の選択とは必ずしも同じではないのではないだろうか…と思ったりもするのだが,その辺りはどうなんだろう。この辺りは著者の別の著書にあるのだろうか。

「不利益分配」社会―個人と政治の新しい関係 (ちくま新書)

「不利益分配」社会―個人と政治の新しい関係 (ちくま新書)

疑問は疑問としても,この文脈で新政権の「成長路線」までを射程に含めて考えると結構面白いかもしれない。現政権ではやはり著者の言うところの「不利益分配」ではなく「角栄型」の利益分配を志向するものであると捉えることができるのかもしれないからである。ただし,もはやその分配の対象は田中角栄の時代のように土建業ではなく,他の産業であったりするのかもしれないが。小泉首相のあとを継いだ安倍首相が<言葉政治>を再度出現させるのとは別の方法で支持を獲得する手法が「成長路線」であるとするというのは少し穿ちすぎかもしれないけど。

*1:きっと僕もそう思われてるんだろうな…