市民参加

尊敬する先輩であるBさんに勧められて神門先生の本を読む。実は僕は卒業論文で農業の話を書いていたことがあって,そのときに神門先生の論文をいくつか読んでいたので,懐かしいなぁと思いつつ。相変わらず,厳しく,かつ,冷静な分析をされつつ,あとがきでご本人が書かれているように,非常に政策的な議論が多くなってるなぁ,というのが第一印象。まあ昔読んでたのは論文だったので…,というところもあるんだろうけど。

日本の食と農 危機の本質 (シリーズ 日本の〈現代〉)

日本の食と農 危機の本質 (シリーズ 日本の〈現代〉)

いくつか大きな議論がなされているわけだけど,その中心的な部分は農地の転用についての議論。農業経営の大規模化が進まないのは農業者に資本が足りないからというわけではなくて,農地を転用して高く売ることを期待する零細農家が土地を売らないから集約できないんだ,という主張。この主張は(実は卒論ではやや批判的に取り上げていたのですが)非常に説得力があり,農地転用を透明化するとともにその規制を強化すべき,という主張には全く頷かされる。「先祖伝来の土地が…」とかいいながら土地を売らない人がたくさんいるわけですが,そういう主張であっても(あるいはそういう主張であるならばなおさら)農地転用規制の厳格化は反対する道理はないんじゃないか。だって別に売らなければいいわけだし。*1ひとつだけ,ちょっとよくわからないところは(これは卒論のときから同じなんだけど),その「値上がり益」は今でもそれほど大きいのだろうか,というところ。バブルが崩壊した後,特に地方の不便なところでは土地の価格が将来的に上がるとはとても思えないと思うんだけども,それでも転用益を願って土地保有しているのだろうか。もちろん,本書で言われるように日本の優良農地の多くは商業地等との取り合いになる,という問題が根底にあるので,そういうところでは将来的に転用益を取れるのかもしれないけど。
また,本書では「市民/住民/地権者のエゴ」とそれに便乗するマスコミの姿勢が非常に厳しく批判されている。転用規制を厳格化できない原因として,「集落の和」の問題と,そもそも責任を分担して都市計画をきちんと作ることができない市民の問題が挙げられている。都市計画の話は本当にそうだなぁ,と。結語で述べられているように,何でも行政のせいにして「市民」が責任を取らないことで問題が逆行するという事例は少なくないんじゃないだろうか。そういう現象?は「ゴネる」人から距離をおきたい,っていう気分がかなり作用してるんじゃないだろうか,と思う。いちいちゴネる人と(個人的に)対決することはひとりひとりの「市民」にとってはものすごく負担になるわけで,それを全面的に行政に委ねて安全なところから眺めていると,当然たまに行政が「ゴネ得」を認めることもあるわけで。*2もちろん神門先生が書いているように,「市民の責任で」ゴネ得を排除することができればそれよりも美しいことはない。でもそれは結構難しいんじゃないだろうか(すぐ「集落の和」とか出てくるし)。やっぱり他の全篇を流れている考え方と同様に,ゴネ得自体をつぶしていくことを一方で進めるしかないんだろう。それを進めるやり方を考えるならば,少なくともゴネ得が存在する分野での過度の規制緩和地方分権っていうのはかなり危険だ,ということになるんだろう。それは利害関係者が近いとそれこそ直接的にアプローチすることが可能だ,というのが大きいわけで。関係ある人からより「遠い」ところで物事を決定する,っていうことにたまには大きなメリットもあるんじゃないか,と思ったりするわけですが。

*1:議論の中で,食と農にまつわるいくつかの「神話」(本では「集団的誤解」が近いのかな?)を解体していくところもこの本の魅力,というところなのだろう。

*2:そら行政も面倒と係わるよりは個別の関係の中で相手が言うことを認めた方が楽やし。