「成熟社会」分析

今日は本当は人の論文を読むために空けていたのに,結局その論文が来ないことになってしまったために別の本を読んでみる。ちょっと前に買った吉川徹[2006]『学歴と格差・不平等』で,まあ(たぶん)教育社会学の本ですが,博論のやり直しが続く僕としてはなかなか興味深いところがあった。というのは,特に高度経済成長が終了し,団塊世代がいい年になって団塊ジュニアが高校卒業するくらいの時期,つまり1990年代以降頃ですが,この時期を「成熟社会」として分析しようとする発想があるんだな,というところ(この本の中では「成熟学歴社会」と呼ばれてるので若干違うかもしれませんが)。もう少し言うと,この時期は良くも悪くも戦後日本のひとつの象徴ともいえる団塊世代がいい年になるというあたりに典型的ににじみ出ていると思うのですが,戦後直後に形成されたシステムがとりあえず成熟・安定した結果として,いわば「坂の上の雲」状態となり,成熟・安定したことによって生じる特有の問題が発生しうる時期といえるのではないか,という問題意識がありうるのだな,と。時代背景というか,この成熟・安定という時代が生み出すような問題を踏まえたうえで,既存の制度をかませることによって,これから先の展望も含めた議論をするようなかたちの研究というのはありうるのではないかと思う。まあそんなこと言いながらまた博論落とされたらどうしようもないわけですが(泣)。
問題意識としては非常に共感するものの,本の内容としては若干の違和感が残る。教育系の議論では,ものすごく極端に言うと,「学校が全てを決定する」いわば学校決定論とも呼べるような話をたまに見かけるのですが,この本の議論も若干そういうところがあるのではないかと。いや,日本では学校というのが社会を全域的に覆っていて,他の装置と比べて特権的なところがあるという発想はわかるのですが,「学歴を起点とした社会構造の維持・強化」という作用がこれまで存在し,今後も持続するというのはちょっとどうかなぁ,と。というのはやはり学歴というか学校を独立変数として外生的に扱うのは難しいと思うんですけどね。子世代の学歴に対して親世代の学歴が影響を与えるという議論に反対するつもりはないですが,子どもが大学に行くためには親世代の所得はやっぱり必要条件だと思われるわけで,親世代の大学進学率が極めて高くなった「成熟学歴社会」において,親世代における大卒者の所得の分布が広くなってくると,必ずしも親が大卒だから子どもも大卒,というわけにはいかないのではないかな,と。特に今後(やや手前味噌的ですが)都市−地方という軸がさらに重要になってくるのではないか,と思うわけで。今回の参院選でも地方経済の疲弊ということが強調されていましたが,地方の親世代の所得水準が持続的に低下していくと,「東京の大学」に子世代を送り出すことが難しくなっていくわけで,結果として子世代で東京を中心とした都市で職に就くことが難しくなってくることが予想されます。そうすると,大卒/非大卒という括りに加えて,少なくとも都市出身/地方出身という括りをいれていく必要があるんじゃないか,と思ったりするのですが。これも東京を中心とした都市が飽和しつつあり,昔のように安下宿や県人会組織というかたちで地方出身者を受け入れることができない,という「成熟社会」のひとつの表れなのではないかと思うところです。

学歴と格差・不平等―成熟する日本型学歴社会

学歴と格差・不平等―成熟する日本型学歴社会