来し方行く末

どうも論文を書き始める元気がないので,この前買ってきたばかりの西尾勝[2007]『地方分権改革』(東京大学出版会),を読んでみる。正直に白状すると,この行政学叢書というシリーズはどうなの…?という話を聞いていて(ちなみに僕はこれが初めてです)いやいやどんなもんなのかなぁ,と思っていたのですが,この本は読んでよかったといえると思う。特に現在進行中の地方分権改革推進委員会に関心がある向きの方々にはぜひ手に取っていただきたいところです。いやまあ,自民党が大敗してこれからどうなるもんなのかよくわからんですが。

地方分権改革 (行政学叢書)

地方分権改革 (行政学叢書)

話としては,まず地方制度についての総括的な議論をしたうえで,西尾先生ご自身が参加された地方分権推進委員会(1995-2001)を「第一次分権改革」として振り返り,それ以降の「第二次分権改革」と呼ばれる時期に西尾先生が参加していた地方制度調査会の議論を振り返るとともに,同時期に行われた地方分権改革推進会議→三位一体の改革について分析する。で,最後に年来の議論であるところの「集権−分権」「融合−分離」という話から神野直彦先生の「集中−分散」という軸を借りながら,中央地方関係の理論(というか地方自治体の自律の議論)の再構成を試みる,というかたち。
まあ最後の部分についてはいろいろあるとは思うのですが,やはりこれまでの経緯をまさに当事者の一人である西尾先生が振り返りつつ,整理するというのは非常に参考になる(三位一体は直接の当事者ではないけれど)。この本を読んでみると,現在の議論における中心的な問題を構成している,地方税財源の問題と国による義務付け・枠付け(規律密度の緩和)というところでは現在の地方分権改革推進委員会における議論との連続性が確かに感じられるものの,一部でぽっかりと抜け落ちている話もある。特に抜け落ちてる感じがするのは,何といっても都道府県から市町村への権限委譲の話だろう。地方分権改革推進委員会の前回の会合で文科省が突いてきたところでもあるわけですが,現在の議論ではこのあたりの話に対する準備があまりされてない感じがする。この本を読むととてもすっきり入ってくるのですが,それはこの話が地方自治体(特に市町村)のいわゆる「受け皿論」と密接に関連していることに起因するようです。単に「受け皿論」ということであれば別に現在の委員会でやってもいいのでしょうが,実はどうやら2001年以降受け皿論は別のところでそれ専門でやるような流れになっているらしく,それは具体的には地方制度調査会や道州制ビジョン懇談会などでやっている「道州制」の話,ということのようです。
これはたぶんとても難しいところで,現在の委員会で「受け皿論」をやり始めると道州制の話を呼び起こしてしまう可能性が高く(直観的には個別の市町村の規模や能力を上げていくと現在の都道府県が必要か?という話になりやすい),道州制の話になると議論が進まなくなるのでその話はしたくない/するべきでない,という判断が働くことになると予想されます(実際委員会の当初の議論でそういう話が出てました)。前のエントリでは何気なく書いてたのですが,「受け皿論」を封印して現在の委員会の議論をする,という制約があるからこそ,「西尾私案」的な話とか,自治体の連携みたいなものを強調した議論が重要になってくるのだろうと思われます。そういう意味では,ホントは「平成の大合併」というのはいったいなんであったのか(そして目的を達成したのか?),ということを総括しないと次には進めないんじゃないのかな,と気づかせてくれるところは大きいように思われました。
もうひとつ,現在進行中の話とはあんま関係ないですが,ちょっとした二年来の疑問が解けた部分もあります。それは何かというと,国地方係争処理委員会に関する話なんですが。二年位前にこのあたりの話を調べていて,某職場でご一緒していたH先生と,「なんで国地方係争処理委員会に申し立てをするのは地方自治体だけなのか(国からは申し立てをしないのか)」という疑問を持っていて,制度設計はどうなってたんでしょうねぇ,という話をしてました。つまり,地方が国の意思と異なる執行をした場合に,国からその行動を是正するような仕組みがなくていいんですかねぇ(特に法定自治事務),という問題意識を持っていたわけですが。で,この本によると,ご存知の方はもともとご存知かと思うのですが,当時の地方分権推進委員会としては,やはり当然「自治体に対する国の関与に関する係争について,当事者である自治体または国のいずれかの申し出に基づいて事案を審査し,審査の結果に応じて勧告又は通告を行う」ことを勧告していたそうです(74ページ)。しかし,その勧告が政府の計画になる段階において,内閣法制局その他の意見によって,国からの審査の申し出は開かない制度に変更された,と。まず委員会の意思については次のように述べられています。

われわれ委員会としては,ある自治体に対して国が是正措置の要求または指示をしたにもかかわらず,当該自治体はこれを違法不当として国地方係争処理委員会に審査の申し出をすることもせず,それでいながら是正措置の要求又は指示にしたがった措置も講じないという自体が発生した場合には,国の側から国地方係争処理委員会に審査の申し出をし,当該自治体の当該作為・不作為は違法であることの確認を求めることは,国と自治体の双方にとって有意義なことであると確信していた。(74-75ページ)

しかしながら,内閣法制局の立場として,次のような主張があったと。

国から是正措置の要求または指示がなされたにもかかわらず,これを受けた自治体がこれを違法不当として国地方係争処理委員会に審査の申し出をしないのであれば,その時点で国の是正措置の要求又は指示の合法性は確定したに等しいではないか。国による是正措置の要求又は指示の合法性,裏返せば是正措置の要求又は指示の対象であった自治体の作為・不作為の違法性が確認された場合には,これに続く事後措置として国による代執行といった類の何らかの強制執行手段が用意されているのであればともかく,この種の強制執行手段が何も用意されていないにもかかわらず,合法・違法の確認だけを求めて国地方係争処理委員会や裁判所の審査をわずらわすことは無益である(75ページ)

まあ言いたいことはよくわかるのですが,そこで合法性の確定を認めるか,というところがまさに地方分権というところの根幹に関わるところではないかと思います。西尾先生の本でも極めて強く主張されていると思うのですが,おそらく重要なのは,地方自治体が国と「法令解釈を巡って争う」かどうかにあると思われます。つまり,国(というか中央省庁)の法令解釈が常に正しいというわけではなく,地方の側も独自の法令解釈を行ったうえで,どちらの解釈が正当かどうかについては客観的な第三者(裁判所や国地方係争処理委員会が真に「客観的」か,という論点はひとまず措いて)に委ねるということですが,ただまあそれは必ずしも簡単ではないでしょう。連邦制の国であればそこは憲法解釈を巡って裁判,というところなのでしょうが,日本のような単一国家であれば,そもそも中央政府が独占的に法令を作ってくるわけで,作った側が特権的に「正しい解釈」をすると考えられがちだからです。今後の委員会の議論と関連付けると,規律密度の緩和を議論する場面で似たような問題が起こるような気がしますが,ある程度地方自治体による柔軟な法令解釈を認めていかない限り,法文上で規律密度の緩和をしても実質的にはあんま意味ない,ってことになってしまう可能性もあるのではないかと思います。