再帰的近代の政治社会学

同年代のひとも含む若手?の社会学者が書いた本。はじめの方は僕にはいまいちよく理解できないところもある社会学理論の話が続いているのでちょっと読みにくかったけど,事例研究のところは情報量が多くて勉強になるところが多かった。筆者たちははじめの方で「日本の政治学はマクロな社会変動との関連で選挙を分析する問題意識を失ってるから面白みが感じられない」というコメントが書いてあって,あまり政治学に関連する先行研究(というか僕が普段読んでいるような先行研究)は出てこないのだけれども,それなりに問題意識は通底するところもあるのではないかと思ったり。

再帰的近代の政治社会学―吉野川可動堰問題と民主主義の実験 (MINERVA社会学叢書)

再帰的近代の政治社会学―吉野川可動堰問題と民主主義の実験 (MINERVA社会学叢書)

複数の著者がまとめて一本を書いているけれども,徳島の可動堰問題に焦点を当てつつ2000年代初頭の徳島の政治変動を描いているわけだから,何ていうか普通の「編著」よりはもちろんまとまりがあるし,ここはすごく評価されるべきところだと思う。全体を通じる主張が何かというとちょっとわかりにくいところがあったけど,僕なりにまとめるとこんな感じ。まず,いわゆるリスク社会化(ベック*1)が進んで既存の政党が社会のニーズを十分に吸い上げることができないなかで,議会の内と外に亀裂が生じている。その亀裂を前提に,議会外の勢力が自らの意思を実現させようとするとき,議会内の既存政党と部分的に連合を図ろうとする中で,様々なかたちで対立軸がアドホックに出現することになる,と。主張がちょっとわかりにくかったのは,検証される個別の命題は結構唐突に出てきていることにある。だから,タイトルにもある「再帰的近代」に関する理論から観察可能な含意として導き出されているか,というとそうでもないように思われる。ていうか,アドホックに出現することになる対立軸に応じて,筆者たちが議論する「再帰的近代」にかかわる要因が,政治的アクターや住民の意思決定にどのような影響をもたらしているかを検討しているからかもしれない
この本を手にとったきっかけは,まあ博論のリバイズを考える中でチェックしきれてなかった文献を読もうということで,自分の博論の中でも書いたような「なぜダム事業が中止されるのか」を書いてあるのかなぁ,と思ったから。しかしこれは別にこの本の問いではないらしい。はじめの方を読んでると,議会の外でサブ政治が民主化されるような政治的機会が開かれれば中止が起こるという話かと思ったのですが,むしろ議会外の勢力が議会の中には入っていかざるを得ない様子が描写されている。また,吉野川可動堰が実質的に凍結になっているわけですが,確かに徳島県徳島市における政治的な動きが直接的ななきっかけになっているとしても,公共事業批判を受けた自民党の意思決定が最終的なものであるということも読み取れる(まあ直轄事業ですからね)。結局,ダム事業の中止に関しては,議会外の運動を強調する一方で,結果的に政治過程こそが重要であることが示されていると思うのですが,この辺は「社会」の方に重点をおくのか,そこから入力を受けた「政治」の方に重点をおくのかという見方の違いなのかもしれない。その他にも,例えば大田候補が2002年に勝ったとき(16万票)よりも2003年に負けたとき(20万票)にえらく票をとってることは,単に選挙の勝ち−負けだけを捉えるのはどうかと思ったりもしたけど,これも「政治」よりも現実社会のプロセスに重視しているから,というところかもしれない。
でも,政治学,特に地方政治を研究している人間にとって興味深いところが多かった。特に面白かったのは,「運動」としてやっていた人たちが,知事・市長(これは小選挙区制)の選挙の時には議会内の既成勢力かなり協力できるものの,県議会・市議会の選挙(これは中選挙区制大選挙区制)で揉めてしまうあたり。本書にもあったが,議会内の既成勢力と首長選挙では連合できるけど,議会選挙に「運動」が入ってくると直接的なライバルになってしまうんですよね。読みながら考えていたのは,地方における自民党というのはある種の極限で(たぶん永続性というのが重要),議会で「決定」を積み重ねていこうとする中で,他の政党が自民党の方によっていくことになるのではないかと。空間理論的に考えると,新規勢力が選挙に勝つために当面ライバルになるのは地方の「野党」の人たちになるわけで。そういう「野党」は自民党の方に寄っていくか(たぶん実質的な決定に関与していくか,ということに近い),「野党」のポジションを維持したままで新規勢力と競るか,という微妙な選択を迫られるのではないかと思ったり。地方では,二元代表制だし「野党」はいわば相乗り的に議会での実質的な決定に関与して,むしろ自民党と競争することもできたのではないかと思うけど,それができなかったのは55年体制の下で国会レベルで保守と革新が対立していたことが背景として重要な気がする。実質的な決定に関与する人たちとそうでない人たちが割とはっきり分かれていて,それぞれが別個の政治的な競争をすることになり,まあ経済成長も続いているから当面は実質的な決定はこれでいいよね,という話だったのが,経済成長が終わる中でこれまでの決定自体を考えなおさないといけないよね,という筋になってくると,僕の博論ともつながってくるかもしれない。

*1:例えばウルリッヒ・ベック『危険社会―新しい近代への道』,法政大学出版会,とかになるのかな。大学院に進学したときは一応社会学をやろうと考えていた時期もあったので,読んでる記憶もあるけど,こういうのを読んでいたのは本当にずいぶん昔のことのように思える…。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)