ほっとけない

さっきテレビを見てたらみのもんたが「ほっとけない」という企画で生活保護の話をやってた。高齢者の老齢加算が昨今の財政難を理由に削除されて,それで高齢生活保護を受けている人の暮らしが厳しくなっている,という特集が流されていた。生活が厳しい,というのを見ると,テレビに出てくるひとたちは相変わらず自分とは関係のない別世界の話のように憤り,政府を責める。しかしそれは結局ぼくら,自分たちに跳ね返ってくる問題ではないか。


別に今さらテレビ(しかもTBS!!)が内的に一貫した議論をできないことを責めたってそれはまったくせん無いことでどうでもいい話なんだろう。ただ,いくつか気になったことを。

  • 出ていたゲストのコメント,「健康で文化的な生活」がどのような生活かということを定義して,そこから最低限の額というものを算出すべきである,という議論はその通りだと思う。現在の水準均衡方式は何十年も前の「最低限度の生活」からインフレを調整したりするのみで,少なくとも基準自体はずっと前のものが,前のものであるという理由だけで使われているに近い。

それはまったくその通り。でもそれだけなんだろうか。

  • 高齢加算を削除された高齢者」はそれでも月額6万6000円以上もらっている。その金額で生活できるか,というのはまさに一点目の「最低限度の生活」の定義に係わる問題で,それ自体非常に大きな問題だけど,実は6万6000円っていうのはだいたい国民年金の満額支給の額なわけで。言ってしまうと,僕がこの先うまく就職できなくて,ただこのまま国民年金を払い続けていても,それでも月6万6000円は返ってこない(学生特例の時効があるので…)。その暮らしが「最低限度かどうか」という当然の疑問とは独立して,やはり社会保険制度との整合性が余りにも取れていないことに衝撃を受けるわけで。だって,いま「8万くらい」保護からもらってるってことは,年金納めてなくて,年金給付がないってことでしょ?(年金給付があれば補足性の原理からもらう額がもっと少なくなってしまう。これも酷いが)ただ,現在の高齢者が若いときには皆年金ではなかったので,細かいところは確認する必要があるわけだが,少なくとも,僕らが年取ったときでは「年金をきちんと払ってても」みのもんたのテレビで取り上げられてる状況よりも厳しいんですが,ということで。
  • じゃあまあ我々はいくら生活保護のお金を支払っているのか,ということはそれほど知られていないんじゃないだろうか。厚生労働省によると,保護費の総額は平成17年度で2兆5245億円,このうち生活扶助が8451億円(33.5%)で,住宅扶助が3272億円(13.0%),医療扶助が1兆2839億円(50.9%),介護扶助が451億円(1.8%),その他に232億円(0.8%)。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/11/s1104-3d.html

  • 有名な話だけど,既に保護費のうち,生活扶助よりも医療扶助のほうが割合は大きい。最近の生活保護制度は,実質的には国民健康保険(年金よりも短期的に必要!)に入ることができない人にとっての,医療のセーフティ・ネットとしての役割が大きくなっている。しかしだからといって生活扶助の重要性が低下したわけではまったくない!
  • じゃあその生活扶助にお金を出している割合はどんなもんか,ということで国際比較を見てみる。図は現金給付の国際比較(OECD Social Expenditure: SOCX,データは2000年)で,現物給付で行われる医療のサービスは除外されている。これは社会保障基金とか全部含んでいる一般政府レベルの話で年金給付とかと比較してみるわけですが,明らかに,日本では公的扶助(ぼんやり赤くなっているところ)には金は出てないわけで。
  • ただしそれが日本だけか,っていうとそういうわけでもなくて,他の国でも最近はあまり公的扶助プログラムへの支出は多くない。じゃあどうしてるか,っていうと,高齢者向けの年金に組み入れたり,障害者手当に組み合わせたりで,一番よくやられているのが,就労プログラムと連動させる,という方法で,一昔前の「福祉国家」の象徴ともいえる,普遍主義的な公的扶助プログラムはどうもなかなか立場が弱くなってるんじゃないか,と考えられる。
  • じゃあその生活扶助に係っているお金はどの程度か,ということを考えてみると,単純に8451億を1.2億で割ってみると,ざっと年間7000円。保護費の総額2兆5245億円であればだいたい20000円ちょっとくらいになる。所得税とか住民税の納税者がだいたい5000万人くらいであることを考えると,生活保護の総額に対しては,納税者一人当たりが年間50000円くらい払ってる計算になるわけだ。(まあ一人当たりに直す意味があるかどうかは別として)

さてさて,どうしたもんか。現在の公的扶助を維持しつつ,一人頭10万払え(払おう),という主張は美しいかもしれないもちろんテレビ的には受けないだろうけど。しかし10万払うとしたって,それをどっから調達するのか−限界税率を引き上げて,お金持ってる人からたくさん取るのか,相続税をむちゃくちゃ上げるんか,それとも,みんなが平均的に5万円くらい負担するのか。その決定にはどちらにせよ「政治」が大きく絡む。個人的には相続税アップと,足りない部分については累進性の強化(とその対価としてきちんと稼いで税金払ってる人にはそれなりの尊敬を払う必要はあると思うが)が望ましいと思うけど*1,現代の日本の政治過程では,金持ってる人のほうが政治過程に対する影響力が強いことが考えられるので(あくまで仮説),アクターの利益だけを考えるとそういう結果にはなかなかならないんじゃないかと。
じゃあみんなの税金上げるか?というとおそらく大反対。きっと「先に無駄な歳出を減らせ」の大合唱。でもしかし,「無駄な歳出」っていったいなんだろうか。誰かにとっては無駄であっても,他の誰かにとっては無駄じゃないかもしれない。「公共事業は無駄だ」って90年代の後半に叫んでたのに,今じゃ「地方切り捨てだ」なわけで。

そもそも,現在の公的扶助のように,普遍的なかたちで給付を行うことに対して負担を増やしていくことに,合意は得られるのだろうか。理念が美しいことは間違いない(と信じてる)。けど,現在の制度を維持しようとして,医療にお金が回りすぎて生活扶助にお金も出ないで…ってなってると,まさにジリ貧だし,やっぱりまじめに年金を払っている人のほうがお金をもらえないというのは僕はあまり公平な制度とはいえないんじゃないか,と思う。すぐに「ネオリベだ」とか言う人はいるけど,やっぱり就労促進とある程度リンクさせていかないとどうしようもないんじゃないだろうか。高齢者や障害者に対する給付も,「就労能力の低下」という補助線を加えたほうが制度設計的にはわかりやすくなるように思うし。
しかし,この場合の問題は労働市場か。一部のすごく「能力」がある人たちにとっては労働市場は柔軟になりつつあるのかもしれないけど,そうでなければ「能力」なんて関係ないように見える。労働市場に(再)参入するときに必要な「能力」の定義があればやりようはあるかもしれないけど,そうでなければ(労働市場に再参入できる見込みがなければ)この方法だって成り立たない。「再チャレンジ」に期待できるのだろうか…うーん。

*1:これは少なくとも今日は書ききれないな