現実逃避

強行採決の話を見てふと。別に何か哲学みたいな話をかじったりしたこともないので,もし面白い話があったら教えて下さい。どこでも誰でも考え付くような話なので,単なる面白くないメモですが。
Aというなんかよくわからない概念があるとする。政治学だと多いのは「公共の利益」みたいな。でもそこで,なんかよくわからないって言うだけじゃつまらないので,XはAである,ということが言いたいとする。
でもAがなんだかはっきりしないので,AとはA’のことである,という定義が必要になるわけだ。それで,「XはA’である」,だからXはAである,という主張ができたりする。一件落着。しかしまあそんなにうまくはいかない。
そもそもAっていう概念自体がよくわからないので,誰かが,「ホントにAとはA’のことなのか?」とか言い出しちゃう。それで,いや,「AはA’じゃなくてA”だ!」といい始めて,「XはA’かもしれないけど,A”ではない,だからXはAではない」っていう主張を始めてみたり,「XはA’じゃないけどA”だから,XはAだ」みたいなことを言うのかもしれない。ていうか,まあどっちかというと,A’とA”が排反であったりする必要なんて全くないんですけど。
まあこうなってくるとオチが見えてくるわけですが,今度言わなくてはいけないことは,「A’はAである」ということではなかろうかと。これは,はじめのXというヤツよりも概念を一段階抽象化したわけですが,やっぱりおんなじことにしかならないんじゃないだろうか。つまり,「AとはMのことである」「A’とはMのことである」だから「A’はAである」。いやM’ってのが…。
まあどんどんこうやって無限に流れていってめんどくさいので,僕らはAとはA’である,と「定義」するわけなのでしょう。で,これでたいていの問題は片がつく,と。
ただ,たま〜に問題になるときがあるわけで。それがおそらく「公共の利益」だとか「愛国心」だとかそういうやつなのではないだろうか。こういう概念の場合は定義の段階で対立が生じてしまう(政治性を帯びる,というか)。
そんなとき,はじめの「XはAである」問題を主張したい人がとる立場はいくつかあるように思われる。まずひとつはAがA’であることに開き直る,というわけで。「とりあえずこうやって定義したんだ,あとはAがA’かどうか検証すりゃいいんだろうっ」っていう話。たぶん経済学のモデルの議論とか,僕がやってるような政治学の議論っていうのはこういう話だろう。なので,とりあえず僕はこれはこれでいいんじゃないか,と思う。とりあえずこれが(1)。
でも世の中には「よくねー」って言う人もいる。だってAはA’じゃないんだから,XがA’って言ったからって「XがAだ」って主張はそもそも間違ってる,って(だいたい怒りながら)言う。よくある経済学批判ってこれじゃないかな,って思う。
そういうことを言うひとたちのうち,一部の人たちは(っていうか数としてはたぶんこっちの方が多いと思うけど),いやいや違うよ,AってのはA’じゃなくてA”なんだ,とかAはA*なのに君はわかってないよねぇ,とのたまう。まあこういう人たちは基本的にやってることが同じなので,とりあえず問題としては片付いてる。まあ別に番号付ける必要ないけど(1)’。
もうちょっと現実的な人はたぶん,そもそもそうやすやすと「XはAだ」なんてことは言えないんじゃないか,って考えて,それに近い解が何かって考えることになると思う。で,おそらくそれは二つある。どちらも「AはA’だ」「AはA”だ」「AはA*だ」「AはMだ」…というものを使う。*1ひとつは,「それらの概念全てを満たすPという概念が存在するのであれば,AがPであるということをいえればAはXだ」という論法がありうると考えてみた。これが(2)。で,もうひとつは,「それらの概念を全て満たさないXは,おそらくAではない」というものだろう。あるいは,どれか一個でも満たしちゃった場合にはホントにXがAかどうかは置いといて,XがAではないとはいえない,みたいな言い方になるのかもしれない。これは(3)。よく使われるのは後者のほうで,これは裁判とかで公共の利益・公共の福祉みたいなことを判断するときに似たような考え方を使うのではないかと思う。
しかしどっちも同じ問題を抱えている。まずはそれは無限後退するから「全て」を考え付くことはできない,ということ。裁判なんかの場合は,代表的なA’とかA”の類が存在していて,いくつかの条件を満たせばOK,という風になるんだろう。(1)よりも(2),さらに(3)の方が,保守的な(現状維持的な)判断になるだろうけど,不満があったとしても,とりあえず判断する際には少なくとも無茶な判断にはなりにくいだろう。もちろん,A’とかA”の取り方にはよるけど。*2もうひとつは,その中の要素,例えばA’とA”とが同時に満たされる場合がないかもしれない,ということ。これは一番初めのほうで書いたような,「AはA’である」が政治性を帯びる,ということとまあほぼ同じような話ではないかと思われる。
俄然ねじくれた人はたぶん別のことを考える。そういう人たちは,「なんで『AはA’である』ってことを考えるんだろうねぇ」って考える。そんでもって,そもそも「XがAである」なんていうのはどうでもいいことで,結局のところXはA’とかA”でしかない,それにもかかわらずなんで「XはAである」という問題が浮いてくるのか,と明後日の方向に走り出す。これはおそらくシステム論というやつではないかと思われる(これは自信なし)。
そろそろ現実逃避からも逃げたくなってきたところではありますが,あんまり生産的ではないメモから少しだけわかったことが。(こっから先は飛躍)僕が昔から考えようとしていたことは,たぶん,「誰が『AはA’』を決めるのか」という問題なんだろう。「XがAである」どうかを決めるのは,「AがA’である」を決める人(機関?)に過ぎない。個人ベースでは「XがAであるかどうか」は,「AがA’である」かどうかを自分で決めた瞬間に決まるだろうし,集合的な場面においては,個人的な対立や多数決,というかたちで出てくるんだろう。そうすると,「AがA’である」ことを他人が納得するように説得する,というのはどういうことかっていう問題が出てくる。で,科学(的方法)っていうのはメディアで…ってシステム論か。ここからは逃げられないのかなぁ。

*1:ここはちょっと詰められないけど,無限後退の前ではたぶん概念の抽象度のレベルは特に関係なくなってしまうと思う。

*2:そういうときのために慣習っていうものが存在するんじゃないかと思うが。